6. そばにいる夜
医師を見送った後、セドリックは寝台のそばに置かれていた書類へ目を通した。
アルドが引き受けていたのは、式典の準備だけではなかった。招待客の動線や護衛の配置に加え、屋敷の修繕や物資の手配まで、相談を受けた内容が細かく書き留められている。急ぎのものには印までつけられており、誰に確認すればいいのかも分かるようになっていた。
どれも、アルド一人が抱えなければならない仕事ではない。
頼まれるたびに応じているうちに、困ったことがあればアルドへ相談する人も増えていったのだろう。護衛騎士としての経験もあり、頼めばきちんと応えてくれる。周囲が頼りたくなるのも分かった。
思えば、自分も同じだった。
視察へ連れていけば、自分には気づかなかったことを教えてくれる。水門でもそうだった。次も一緒に来てほしいと思ったし、実際にそう伝えた。
頼りにしていたことまで間違いだったとは思わない。ただ、アルドが断らない人だということを、もっと考えるべきだった。
寝台の方で毛布の擦れる音がした。
振り返ると、眠っていたアルドが身体を起こそうとしていた。セドリックは書類を置き、すぐに寝台へ寄った。
「どうしたの」
「引き継ぎを……しておかないと」
「書いてあるものは読んだよ。急ぐものはもう手配した」
「ですが、式典の方は――」
「それも大丈夫。担当の人にも話したから」
肩を支えて起こすと、アルドはまだ何か言いたそうに書類へ目を向けた。水を差し出しても、受け取ったカップを持ったまま、今度は屋敷の修繕について確かめようとする。
「アルド」
名前を呼ぶと、ようやくこちらを見た。
「今は仕事をしなくていいよ」
「……申し訳ありません」
「謝ってほしいわけじゃないんだ」
カップへ手を添え、飲むよう促す。アルドは少しだけ水を口にしてから、力を抜くように息を吐いた。
横になるのを手伝うと、アルドは今度こそ何も言わず、毛布を胸元まで引き上げた。熱のせいか、頬はまだ赤かった。
処方された薬を飲んでも、その日のうちには熱が下がらなかった。
夜になるとまた熱が上がったのか、アルドは眠っては浅く目を覚ますことを繰り返していた。セドリックは寝台のそばへ椅子を寄せ、本を開いた。落ち着いて読めるわけではなかったが、何度も顔を覗き込むのも、かえって眠りを妨げそうだった。
本へ目を落としてしばらくすると、毛布の端が小さく動いた。
「セドリック」
手が止まった。
呼ばれたことよりも、その呼び方に驚いた。
敬称もなく名前だけを呼ばれたのは、初めてだった。
「うん」
返事をすると、毛布の中からアルドの手が出てきた。何かを探すように指先が動く。
セドリックは本を閉じ、その手を取った。
「ここにいるよ。水が欲しい?」
アルドは目を閉じたまま首を振った。
握る力はほとんどない。それでも、握り直そうと一度手を緩めると、離れていく指を追うようにアルドの手が動いた。
セドリックはもう一度、今度はしっかりと手を包んだ。
それで安心したのか、しばらくするとアルドの呼吸が深くなる。
眠ったのだと分かっても、手は離せなかった。
以前は、触れようとしてはやめていた。眠そうな顔を見ても、頬へ伸ばしかけた手を引いた。近づきすぎれば負担になると思っていたからだ。
今は、看病を理由にここにいられる。
そうでもなければ、こんなふうにそばにいることさえ、ためらうようになっていた。
セドリックは繋いだ手へ目を落とす。
アルドの指は、眠った後も自分の手にかかったままだった。
◇
夜明け前、アルドが薄く目を開けてこちらを見ると、その目元がわずかに緩んだ。
「ずっと……いてくれたんですね」
「うん。いたよ」
アルドは繋いだままの手へ視線を落とすと、まだ意識がはっきりしていないのか、指先をゆっくり動かし、確かめるように握り直してきた。
「……そばにいて」
小さな声だった。
「ここにいるよ」
「行かないで……セドリック」
胸の奥が強く鳴った。
熱に浮かされている。そのことは分かっている。今の言葉に、自分の望む意味を勝手に重ねてはいけない。
それでも、嬉しくないふりはできなかった。
「行かない。ここにいる」
アルドはそれを聞くと、安心したように目を閉じた。握っていた指から少しずつ力が抜け、また静かな寝息が聞こえ始めた。
セドリックはしばらくその顔を見た後、手だけは繋いだまま、椅子へ身体を戻した。
次にアルドが目を開けた時には、窓の外はすでに薄く明るくなっていた。先ほどより意識もはっきりしているようだった。
「……殿下?」
いつもの呼び方に戻っている。
「どうしてここに……」
「ずっといたよ」
アルドは驚いたように瞬きをしてから、二人の間へ目を落とした。
繋いだままの手を見て、今度は明らかに戸惑った顔になった。
「眠っていないのですか」
「少しは寝たよ」
「椅子で……ですか?」
「少しだけね」
本当はほとんど眠れていなかったが、正直に言えばまた謝られるのが嫌で、嘘をついた。
「お休みになってください。私は大丈夫ですから」
もう、いつものアルドだった。
夜中の言葉を覚えている様子もない。
セドリックはそれを指摘しなかった。熱に浮かされていた時の言葉を使って、何かを確かめるようなことはしたくなかった。
「もう少しだけ、ここにいるよ」
そう言うと、アルドは何か言いかけて口を閉じる。
休むように言うなら、手を離せばいい。
けれどアルドも手を離そうとはせず、セドリックも自分から離すことはしなかった。
窓の外が少しずつ明るくなっていく間も、二人の手は繋がったままだった。
◇
熱がようやく下がったのは三日目だった。
起き上がれるようにはなったものの、かなり体力が落ちているのか、寝台から下りて少し歩くだけでもすぐに疲れてしまう。
アルドが姉の婚礼に合わせて帰国する予定の日も迫っていたが、医師からは、今の体調で長旅をするのは無理だとはっきり告げられた。
体調の回復を待っていては婚礼に間に合わない。今回の帰国は中止するしかないと分かると、アルドはしばらく俯いたまま、何も言わなかった。
「姉さんには手紙を書きます」
「うん」
「事情を説明して、出席できないことを詫びないと……」
「僕が詳細を書くよ。君からの長い手紙は元気になってからにしようね」
アルドが紙を何枚も用意しようとしたので、セドリックは一枚だけ残し、残りを脇へ避けた。
「書いていいのは、体調を崩して帰れなくなったことと、祝いの言葉だけね」
「ですが」
「姉君も、熱のある君に何枚も手紙を書いてほしいとは思わないでしょう」
そう言うと、アルドは不満そうに紙を見たものの、渋々頷いた。
セドリックも部屋の隅に小さな机を用意してもらい、自分の書類を広げた。
ずっと寝台のそばにいれば、アルドも落ち着かないだろう。だからといって、書斎へ戻る気にもなれなかった。
「殿下のお仕事はよろしいのですか」
「ここでもできるからね」
「私はもう大丈夫です」
またそれだ、とセドリックは思った。
心配をかけたくないのと、仕事の邪魔もしたくない。その気持ちは分かるが、自分がここにいる理由までアルドに決められたくはなかった。
「うん。でも、今はここにいたいんだ」
アルドは少しだけ目を見開く。
何か返ってくるかと思ったが、視線は手元の紙へと戻った。
困らせただろうか。
そう思いかけたところで、アルドが小さく声をかけた。
「……インク壺を取っていただけますか」
セドリックはすぐに手を伸ばした。
「はい」
「ありがとうございます」
ただそれだけのお願いだった。それでも、何でも自分でしようとするアルドが、自分を頼ってくれたことが嬉しかった。
◇
翌日の昼には、アルドは寝台を離れ、窓辺に立てるまでになっていた。
外を眺めている背中へ声をかけると、庭の方へ視線を向けたまま、少し歩きたいと言った。
「医師がいいと言ったらね」
「……分かっています」
返事は素直だったが、声には明らかに不満が混じっていた。
セドリックは少し可笑しくなったが、笑えば機嫌を損ねそうなので黙っておいた。
ちょうど昼食が運ばれてきたので、セドリックは自分の分も窓際の卓へ置いてもらった。席に座るよう勧めると、アルドが二人分の食事を見て少し目を丸くする。
「ここで召し上がるのですか」
「君が嫌でなければ」
「嫌ではありません」
その答えにほっとして、アルドを向かいの椅子へ座らせ、自分も腰を下ろした。
体調のことばかり聞くのも嫌だろうと、セドリックは庭の話をした。
「ニコが見舞いに来たがってたよ」
「ニコが?」
「お菓子を持ってくるって言ってたけど、まだ食べられないだろうからってトーマに止められてた。代わりに絵を描いてるらしい」
アルドの顔が目に見えて和らいだ。
「何を描いているんでしょう」
「それは秘密だって。トーマも花を持ってきてくれたよ。預かってあるから後で飾ってもらおう」
「そうですか」
なんだかとても嬉しそうだった。
その顔を見ていると、ニコとトーマが少し羨ましくなる。
名前を聞いただけで、こんなふうに表情が変わる。自分にも同じように、会いたいと思ってもらえたら。
そこまで考えたところで、ふと夜中の声を思い出した。
――行かないで、セドリック。
熱に浮かされていたからこぼれた言葉なのだろう。
それでも、あの言葉がアルドの本音であればいいと思ってしまった。
「よかったら、少しだけここへ来てもらおうか」
「本当ですか? ぜひお願いしたいです」
今度は遠慮せず、すぐに頼んでくれた。
セドリックは頷きながらも、また少しだけ羨ましくなった。
自分の帰りが遅くなった夜、アルドは居間で待っていてくれた。
あの時、「務めです」と言われたことだけを受け取って引き下がったが、待っていてくれた理由を、もう少し聞いてみてもよかったのかもしれない。
けれど今さら、熱に浮かされた夜の言葉を持ち出してまで確かめたくはなかった。
食事を終え、皿を下げてもらう頃には、アルドの目元に眠気が見え始めていた。
「少し休もうか」
「そうします」
今度は素直に頷いた。
アルドが寝台へ戻るのを見届け、セドリックも椅子に置いていた本を手に取る。部屋を出ようと扉へ向かいかけたところで、袖に小さな重みを感じた。
振り返ると、寝台から伸ばされたアルドの指先が、セドリックの袖をつまんでいた。
本人も自分が何をしたのか気づいたらしく、少しだけ目を見開くが、手は離さなかった。
「本は……そのまま置いておいてください」
セドリックは手にしていた本へ目を落とす。
「仕事が終わったら……ここで読んでもいい?」
アルドはすぐには答えなかった。袖をつまんでいた指がゆっくり緩み、そのままセドリックの指先に触れた。
「……はい。ここで読んでほしいです」
指先から伝わる熱に驚いたが、セドリックは慌てて返事をする。
「じゃあ、また後で」
本を元の場所へ置き、部屋を出た。
廊下を歩きながら、午後に片づけなければならない仕事を思い返す。
どれも後回しにはできない。
だから、できるだけ早く終わらせよう。
アルドが待つ部屋へ、少しでも早く戻りたかった。




