5. 待っていた理由
屋敷での暮らしにも少しずつ慣れ、朝食を共にすることが当たり前になってきた頃、セドリックが向かいの席から声をかけた。
「明日、川沿いの水門を見に行くんだ。よければ一緒に来ない?」
「私もご一緒してよろしいのですか」
「もちろん。そのために誘ってるんだよ」
婚礼の席で話していた場所より、少し上流にある水門らしい。修繕が必要な箇所を確認するのだという。
「君も興味があるかと思って」
「ぜひ」
すぐに返事をしてから、アルドは翌日の予定を頭の中で確かめる。幸い、その日は急ぎの用事もなかった。
視察に興味があると思って声をかけてくれたのだろう。それでも、明日も一緒に出かけられることが嬉しかった。
◇
翌日、水門へ着くと、川辺には修繕に使う石材や木材が積まれていた。現場を案内する職人から工事の進み具合を聞きながら、セドリックは手元の図面と水門を何度も見比べていた。
アルドも隣から図面を覗き込み、門扉の脇へ目を向ける。石壁に沿って、新しい木材で足場が組まれていた。
「この足場は、組み直したのですか」
「はい。増水した日に一度崩れまして。今は補強してあります」
職人が答えると、セドリックは川岸で道具を片づけていた別の男へ目を向けた。
「その日もここで作業を?」
「いました」
「水はどの辺りまで上がりましたか」
男は濡れた手を服で拭い、石壁の一か所を指した。
「ここまでです。あっという間でしたよ」
セドリックはそばまで行き、その高さを確かめる。
「次に水を止められるのはいつですか」
「五日後の予定です」
「水を止めるまでは、下での作業は待ってください」
「そうなると、完成は少し遅れますが」
「日程の変更はこちらから伝えます。それまでに進められる作業はありますか」
職人は少し考えてから、上流側の石壁を指した。まだ補修できる箇所が残っているらしい。セドリックは説明を聞きながら図面の余白にいくつか書き込み、今度はその図面をアルドの方へ向けた。
「アルドはどう思う? このまま進めると、資材を運ぶ道が狭くなるのが気になるんだけど」
示された場所を目で辿ると、工事が進むにつれて、今使っている道の半分近くを資材が塞ぐことになる。アルドは対岸に停められた荷車へ目を向け、そこから少し離れたところに架かる橋の位置を確かめた。
「あちらの橋を使えれば、運ぶ経路を分けられると思います。ただ、荷を積んだまま通れるかは確認した方がいいかと」
「そうだね」
セドリックも橋へ目を向け、隣にいた職人へ図面を示した。
「まず橋を見に行きましょう。問題なく荷車が通れるなら、資材を運ぶ道を二つに分けたい」
「分かりました」
職人が先に歩き出すと、セドリックもその後を追いながらアルドを振り返った。
「一緒に見てもらえる?」
「はい」
アルドは図面を受け取り、セドリックと並んで橋へ向かった。
意見を求められたことより、自分の答えがそのまま次の判断につながったことの方が嬉しかった。騎士として培ってきた経験も、自分が考えたことも、セドリックはきちんと聞いた上で受け取ってくれる。
橋を確認した後も、セドリックは作業員の話を一人ずつ聞いて回った。答えを急かすことはなく、声が聞き取りにくければ自分から近くへ寄り、足元へ泥が跳ねても気にせず説明に耳を傾けている。
その姿を見ていると、庭でニコの話を聞いていた時のことを思い出した。相手が四歳の子どもでも、現場の作業員でも変わらない。話が終わるまで待ち、分からないことがあれば尋ねる。アルドはそんなセドリックの隣に並び、そのまま歩調を合わせて歩いた。
視察を終えて帰りの馬車へ乗り込むと、セドリックが上着の裾についた泥を見下ろした。
「屋敷に入る前に落とさないと」
「乾いてからの方が取れます。今こすると広がりますよ」
裾へ伸ばしかけた手を止め、セドリックがこちらを見る。
「ニコのことを言えないね」
「今日は殿下の方が汚れています」
口にしてから、少しくだけすぎたかと思ったが、セドリックは気にする様子もなく、自分の裾を持ち上げて確かめていた。
「本当だ。君が一緒で助かったよ。橋のことも」
「お役に立てたなら何よりです」
「次に行く時も、一緒に来てくれる?」
アルドはすぐに頷いた。橋のことを認めてもらえたのも嬉しかったが、「次も」と言われた言葉の方が、いつまでも耳に残った。
ふと見ると、外で長く過ごしたせいか、向かいに座るセドリックの手が赤くなっていた。
「手が冷えていませんか」
「ああ。少し」
アルドは脇に置いていたタオルを差し出した。受け取ろうとしたセドリックの指先が触れる。思っていたよりも冷たかった。
「戻ったら、温かいものでも飲みませんか?」
「うん。そうしよう」
返事があまりに早くて、アルドは少しだけ目を瞬いた。
「……お時間があればですが」
「あるよ」
今度は少し笑いを含んだ声で返ってきた。
屋敷へ着くと、それぞれ泥のついた服を着替え、二人で居間へ戻った。温かいお茶を飲みながら視察先で気になったことを話すと、セドリックは途中で口を挟まず、アルドが考えを付け足すたびに、その先を尋ねてくる。
アルドが話すたび、青灰色の目がまっすぐこちらを向く。その色を綺麗だと思ったことはあったが、今は自分の話を聞いてくれる時の眼差しの方が気になった。気づけば、視察のことだけでなく、道中で目についたものや王城で聞いた話まで口にしていた。
カップが空になる頃には、外で冷えた身体もすっかり温まっていた。それでもアルドは、すぐに席を立って私室へ戻る気にはならなかった。
◇
夕食を終えても、アルドは居間に残っていた。
セドリックが翌日の視察先の地図を卓へ広げると、向かいの椅子にいたアルドが立ち上がり、自然とその隣へ腰を下ろした。
「明日はこの辺りまで行くんだ」
「川を渡るのですか」
「うん。前に一度通ったことがある」
セドリックは地図の道を指で辿り、途中の分岐で止めた。
「ここで道を間違えたんだよね」
「案内の方は?」
「来てもらうはずだったんだけど、僕が先に出てしまって。近道を知っているつもりだったから」
アルドは地図へ顔を近づけ、細い線を目で追う。
「こちらへ入られたのですか」
「そう。通り抜けられると思ったら、途中で柵があって」
「……牧場ですね」
「羊にも会ったよ」
アルドの口元がわずかに動いた。セドリックは気づかないふりをして、その先を続ける。
戻ろうとした道にも羊が出てきて、仕方なく馬を下りることになった。ようやく迎えに来た案内役より先に牧場の主人に見つかり、急ぐなら柵を押さえていてくれと頼まれたのだ。
「押さえていたのですか?」
「羊が戻るまで」
とうとうアルドが声を立てて笑った。すぐに口元へ手をやったものの、笑いはなかなか収まらず、俯いたまま肩を揺らしている。
「申し訳ありません」
「いいよ。あの時の案内役にも笑われたから」
「殿下がなさる必要はなかったでしょうに」
「逃げられたら、もっと遅くなりそうだったんだ」
また笑い声がこぼれ、セドリックもつられて笑った。
庭でニコといる時に表情を緩める姿は見たことがあったが、自分の話でこんなふうに声を立てて笑ってくれたのは初めてだった。伏せた目にも、まだ笑いの残る口元にも、つい目がいく。別の話をすれば、また笑ってくれるだろうか。
「明日は案内の方を待ってください」
「そうする。君にまで叱られたくないし」
「叱ってはおりません」
「姉はそう言ってから叱るよ」
アルドが顔を上げる。今度は笑みを隠さないまま、地図へ目を戻した。
「この道は、雨の後だと通りにくそうですね」
示された道を二人で覗き込み、その後もしばらく地図を囲んで話を続けた。
セドリックがお茶を注ぎ足そうとしたところで、アルドが時計へ目を向ける。
「もうこんな時間でしたか」
「まだ早いよ」
「明日は視察でしょう」
もう少し一緒にいたかったが、アルドにも朝から予定があると聞いている。引き留めるのはやめ、セドリックが地図を畳み始めると、アルドも自然に手を伸ばし、反対側から端を揃えてくれた。
自室へ戻る途中も、先ほどの笑い声が耳に残っていた。あんなふうに笑ってくれるのなら、あの日道を間違えたことも、そう悪くなかった気がした。
◇
翌日の視察は予定が大幅に狂い、屋敷へ戻る頃には、すっかり遅い時間になっていた。
私室へ戻るため居間に入ると、中央の長椅子にアルドがいた。本を読んでいたらしく、セドリックに気づいて慌てて立ち上がった拍子に、膝掛けが床へ滑り落ちた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま。まだ起きていたんだね」
「夕食はもうお済みですか?」
「うん。向こうで食べてきた」
アルドは小さく頷き、床へ落ちた膝掛けを拾い上げた。
卓の上には、まだ使われていないカップが二つ並んでいる。セドリックはそこへ目を留めた。自分が戻ってきたら、一緒にお茶を飲むつもりだったのだろうか。そう考えた途端、長かった道中の疲れが少しだけ遠のく。
帰りを待っていてくれたことが、ただ嬉しかった。
「よければ、お茶を淹れましょうか?」
「ありがとう。君も付き合ってくれる?」
アルドがお茶の支度を頼みに行こうとしたので、セドリックは先に呼び鈴を鳴らした。
「ここで待っていよう」
長椅子へ腰を下ろして隣を示すと、アルドも手にしていた本を卓へ置き、その隣へ腰を下ろした。
「今日は迷わずに済んだよ」
「それは何よりです」
返ってきた声には、少しだけ笑いが混じっていた。
呼び鈴に応じた使用人が茶の支度を整えて下がると、セドリックは上着の前を緩め、視察先の橋の話を始めた。
地図を広げると、アルドは先日の報告書の内容を踏まえ、増水時には避けた方がいい道を示す。道中で判断に迷ったことを話せば、別の道を選んだ理由まで尋ねてくれた。
しばらく話すうち、隣からの返事が少しずつ遅くなる。アルドはカップを置き、目元へ手をやりかけて下ろした。
「眠い? 大丈夫?」
「失礼しました」
「謝らなくていい。待っていてくれて嬉しかった」
アルドがこちらを見る。
こちらを見てくれたことさえ嬉しくて、セドリックは思わず笑った。帰りを待っていてくれたことも、こうして隣で話を聞いてくれていることも、今夜は何もかもが少し特別に思えた。
少し眠そうに細められた目を見ているうちに、触れたいと思った。頬にかかる髪を払うくらいなら、きっと嫌がられない。そう思いながら、セドリックはアルドの頬へゆっくりと手を伸ばした。
「お帰りを待つのも務めですから」
頬へ向かっていた手が、その途中で止まった。
あと少しで触れるはずだった指先を、セドリックはそのままゆっくりと引いた。
――務め。
ついさっきまで特別に思えていたものが、その一言でまるで違う形に見えた。
帰りを待っていてくれたのではない。伴侶として、待つべきだと思っていただけなのかもしれない。隣に座って話を聞いてくれたことも、何度も一緒に出かけてくれたことも、自分が誘えば断らなかったことも。
どこまでがアルド自身の望みだったのだろう。
勝手に距離が縮まったと思い込み、少しくらい触れても許されるのではないかとまで考えていた自分が、急にひどく恥ずかしくなった。
「……そっか」
どうにかそれだけ返して、セドリックは膝の上で手を握った。
「無理に起きていなくていいんだよ。次は先に休んで」
「承知しました」
アルドは迷う様子もなく答えた。
その素直さに、胸の奥がまた少し沈む。待っていてほしいと言えば、アルドはきっと次もそうしてくれる。けれど、それが自分と過ごしたいからなのか、伴侶としてそうすべきだと思っているからなのか、もう分からなかった。
アルドが卓のカップへ手を伸ばしたので、セドリックは使用人に任せればいいと止めた。アルドはすぐに手を引き、小さく礼を言う。
ほんの少し前まで、隣にいることがあんなに嬉しかったのに。今は何を頼んでも、何を誘っても、それをアルド自身が望んでいるのか分からない。
「……明日の予定は?」
「午前中は王城へ。午後はこちらに戻るつもりです」
――では、午後に。
そこまで浮かんだ言葉を、セドリックは飲み込んだ。
また自分から誘えば、アルドはきっと断らない。そう思ってしまった今は、その返事を素直に喜べる気がしなかった。
「そう。ゆっくり休んで。おやすみ」
「おやすみなさいませ」
アルドは頭を下げ、自分の部屋へ戻っていった。
扉が閉じてからも、セドリックはしばらくそのまま動けなかった。長椅子へ背を預け、先ほどまでアルドが座っていた場所へ目を向ける。
――引き留めればよかったのかもしれない。
◇
翌日の夕食後、アルドはいつものように居間へ向かった。
セドリックはすでに長椅子に座っており、その隣には昨日まで自分が座っていた場所が空いていた。ほんの少し迷ったものの、アルドはそこへ向かわず、卓を挟んだ向かいの椅子へ腰を下ろした。
昨夜、先に休んでいいと言われたこともあり、今日も当然のように隣へ座り、遅くまで話に付き合わせるのは違う気がした。
そのまま互いに一日のことを話しながら、お茶を飲む。会話が途切れることはなく、セドリックの態度もいつもと変わらなかったが、昨日まで気にならなかった卓一つ分の距離が、今夜は妙に目についた。
カップにはまだ半分ほど残っていたが、アルドはそれ以上口をつける気になれず、静かに席を立った。
「では、お先に失礼します」
セドリックがこちらを見て、何か言いかけるように口を開いた。アルドはその場に足を留めたが、少し待っても言葉は続かなかった。
「……うん。おやすみ」
「おやすみなさいませ」
私室へ戻って扉を閉めても、すぐに寝台へ向かう気にはなれなかった。もう少し話していてもよかったのではないかと思う一方で、自分から戻ると言ったのだから、今さら引き返す理由もない。
それからも、食事は変わらず一緒に取った。顔を合わせれば話をし、庭や王城であったことを聞かれることもある。ただ、以前のように夕食の後まで二人で居間に残り、時間を忘れて話すことは少しずつ減っていった。
ある日、庭でニコと話している最中にふと屋敷へ目をやると、二階へ続く廊下の向こうに淡い灰金色の髪が見え、一目でセドリックだと分かった。
以前なら、そのまま庭へ下りてきて話に加わることもあった。今日も来るのかと思って見ていたが、セドリックは足を止めることなく、廊下の奥へ消えていった。
「アルド? どうしたの?」
ニコの声に呼ばれ、ようやく視線を戻す。
「……何でもない」
アルドはニコの話へ耳を傾け直した。それでもしばらくの間、セドリックが消えていった廊下の方が気になって仕方がなかった。
「今日はセドリック様、来ないの?」
ニコも同じ方を見ながら尋ねる。
「そうだね……忙しいんだよ」
「そっか」
残念そうな声に、アルドはもう一度屋敷へ目を向けた。そこにはもう、セドリックの姿はなかった。
帰宅を待つのも、もうやめた方がいいのだろうか。
そう考えると、あの夜のことを思い出す。長い視察を終えて疲れて帰ってきたセドリックを、自分は遅くまで話に付き合わせてしまった。先に休んでいいと言われたのだから、次からはそうすればいい。
けれど、本当は待っていたかった。
前の晩に二人で笑ったことを思い出し、今日はどんなことがあったのかを聞きたくて居間に残っていた。帰ってきたら一緒にお茶を飲んで、また話ができればいいと思っていた。眠くなれば先に休むつもりだったが、寝る時間を過ぎても席を立つ気にはなれず、セドリックの顔を見ると、なおさら私室に戻りたくはなかった。
それなのに、自分はあの時、待っていた理由を務めだと言ってしまった。
あれ以来、セドリックから誘われることは少なくなった。忙しくなっただけなのかもしれないし、これまで毎日のように時間を作ってくれていたのも、新しい暮らしに慣れるまで気を遣ってくれていただけなのかもしれない。
そう考えれば、何もおかしくはなかった。
それでも、寂しかった。
いつの間にか、会えることを当たり前のように待つようになっていた。話を聞いてもらえれば、もっと聞いてほしくなる。今日会えれば、明日も会いたいと思う。
結婚する前には、何一つ望んでいなかったはずなのに、いつの間にか望むことばかり増えていた。
しばらくして、ニコが花壇の端から小さな灰色の石を拾って戻ってきた。上の方が二つ尖っていて、猫の顔のようにも見える。
「ねこ!」
「……確かに、そう見えるな」
「セドリック様にも見せて」
「自分で見せてあげなくていいのか」
「明日になったら忘れちゃうかも」
そう言ったところでトーマに呼ばれ、ニコは返事をしながら走っていった。アルドは石についた土を払い、落とさないよう上着のポケットへしまった。
夕食の時に見せればいい。そう思っていたが、その日はセドリックが来客の対応で遅くなるらしく、先に食べていてほしいと伝言があった。アルドは一人で夕食を取り、食事を終えてからもしばらく居間に残っていた。
上着のポケットには、ニコから預かった石が入ったままだった。
石を見せるだけなら、書斎まで行っても不自然ではないだろう。そう考えると、自分から会いに行く理由ができたことに少し安堵した。
石をポケットへ戻し、書斎の方へ歩き出すと、廊下の先から話し声が聞こえてきた。扉がわずかに開いている。そのまま近づこうとしたところで、中からセドリックの笑い声が聞こえた。
アルドは思わず足を止めた。
隙間から見えた相手は、屋敷でも何度か顔を合わせたことのあるセドリックの護衛騎士だった。何を話しているのかまでは分からないが、騎士が何かを言うたびにセドリックが声を上げて笑い、相手も遠慮なく言葉を返している。
――親しい相手とは、こんなふうに話すのか。
胸の奥がざわついた。自分にも、あんなふうに笑ってほしい。何かを言うたびこちらの様子を確かめるのではなく、もっと気楽に言葉を返してほしい。自分の知らない顔をほかの相手へ向けていることが、どうしても面白くなかった。
その感情に気づいた途端、アルドは手の中の石を強く握った。何を考えているんだ、と自分を戒めるように指へ力を込める。
姉の代わりにこの国へ来て、セドリックと婚姻を結んだ。国同士の関係を繋ぐための結婚で、初めから恋情など求められてはいなかった。それでもセドリックはずっと優しく、知らない屋敷で困らないよう気を配り、好きなものを尋ね、庭へ誘い、話をすれば最後まで聞いてくれた。触れる時にはこちらの様子を確かめ、少しでも迷えば待ってくれた。
いつの間にか、それを自分だけに向けられたものだと思い始めていた。
――けれど、違った。
知らない国へ来た伴侶が困らず、この婚姻を穏やかに続けられるよう、気を遣ってくれていただけなのだ。そう考えれば、これまで向けられてきた優しさも、不思議なものではなかった。
自分だからではなかった。
そう思うと、胸の奥にあったものがゆっくりと冷えていった。あの夜、自分もセドリックと笑って話をした。もう一度あんな時間を過ごしたいと思った。今夜も石を見せることを口実に、その続きを期待してここまで来た。
今日会えれば、明日も会いたい。そんなことまで考えるようになったのは、自分だけだった。
今ここで書斎へ入れば、セドリックはきっと騎士との話を切り上げ、いつものようにこちらを向いてくれるだろう。けれど、それは自分に会いたかったからではない。
アルドは石をポケットへ戻す。
――もう、これ以上勘違いしない方がいい。
そのまま、扉に近づくことなくその場を離れた。
私室へ戻り本を開いたものの、同じところを何度読んでも内容は頭に入らなかった。諦めて本を閉じると、机の上に置いた灰色の石が目に入り、さっきの笑い声をまた思い出した。
ニコは明日、セドリックに見せたかと聞くだろうから、朝食の時に渡せばいい。ただそれだけのことなのに、今夜見せられなかったことが妙に心に残った。
水をもらおうと居間へ出ると、ちょうど書斎の方からセドリックが歩いてきた。思いがけず顔を合わせ、アルドはその場で足を止める。
「まだ起きてたんだね」
「はい」
セドリックも足を止め、こちらを見る。
今なら部屋へ戻って石を持ってこられる。ニコの話をして、庭のことや今日あったことを話せば、もう少しだけ一緒にいられるかもしれない。
「何かあった?」
そう尋ねられ、アルドは口を開きかけた。
「……いえ。お仕事はもう終わられたのですか」
「うん。ちょうど今終わったところ」
少しお時間をいただけますか。
それだけ言えばよかった。
けれど、さっきの笑い声を思い出す。気を遣うこともなく、楽しそうに言葉を交わしていた二人の姿が、まだ頭から離れなかった。
自分が声をかければ、セドリックはきっと付き合ってくれる。疲れていても嫌な顔ひとつせず、いつものように話を聞いてくれるだろう。
それを、もう特別だと思わない方がいい。
「そうですか。では、ゆっくりお休みください」
「……うん。アルドもね」
「おやすみなさいませ」
「おやすみ」
アルドはそのまま私室へと戻った。
扉を閉めると、机の上に置いた石が目に入る。
これを見せたかった。ニコの話をして、そのまま何でもないことを話しながら、もう少し一緒にいたかった。
それでも、もう一度扉を開けて声をかけに行くことはできなかった。
アルドは石を手に取り、しばらく掌の中で眺めたあと、そっと机へ戻した。
◇
翌朝、アルドは朝食の席へ灰色の石を持っていった。
「これを」
差し出すと、セドリックは不思議そうに受け取り、掌の上で石を転がした。
「猫だ」
「昨日、ニコが見つけました。殿下にも見せてほしいと」
「そうだったんだ。ありがとう。後で本人にもお礼を言っておくよ」
セドリックは楽しそうに石を眺めたあと、自分のカップのそばへ置いた。
昨夜、あれほど迷って渡せなかったものは、ほんの短いやり取りでセドリックの手に渡った。
「今日は王城?」
「はい」
「帰りは?」
「昼過ぎには戻れると思います」
その後も、いつもと変わらない会話が続いた。アルドも普段通りに答えながら、カップのそばに置かれた小さな石へ一度だけ目を向けた。
◇
朝から曇っていた空は、昼過ぎになると細かな雨を落とし始めた。廊下の窓を雨粒が打ち、庭の花壇も薄い雨の向こうに霞んでいる。
王城から戻ったアルドが廊下を歩いていると、向こうからセドリックがやってきた。互いに足を止めたところで、あの日の言葉が不意に蘇る。
――雨が降ったら、部屋でお茶にしようか。
セドリックも、あの時の言葉を覚えているだろうか。そう思った時、彼も窓の外へ目を向けた。
アルドは少しだけ待ったが、セドリックの口からあの日の話が出てくることはなかった。結局、先に声をかけたのは自分だった。
「このあと、何かご予定はありますか」
「書類を読むだけだよ。何かあった?」
「……いえ」
一緒にお茶を飲みませんか。
そう言えばいいだけだった。
けれど昨夜、自分に向けられていた優しさまで、特別なものだと思わない方がいいと決めたばかりだった。用事もないのに時間を求めれば、セドリックはきっと断らない。そうしてまた、その優しさを自分の都合のいいように受け取ってしまうかもしれない。
「何かあれば書斎へ来てね」
セドリックはそう言って、しばらくこちらを見ていた。
アルドは小さく頭を下げた。
「また何かありましたら伺います」
「……うん」
そのまま歩き出す。何歩か進んでも、呼び止める声は聞こえなかった。
私室へ戻ると、アルドは窓辺に立ち、雨に濡れた庭を眺めた。あの日は、雨が降っても部屋で一緒に過ごせるのなら、それだけで嬉しかった。
今も、本当はそうしたかった。
窓を打つ雨音だけが、静かな部屋にいつまでも残っていた。
◇
それからアルドは、空いた時間を王城での仕事で埋めるようになった。
式典の準備には、こちらの作法を覚えるために役立つことも多く、騎士としての経験を生かせる仕事もある。招待客の名簿に目を通し、馬車の動線を確かめ、若い騎士から相談を受けることもあった。
頼まれれば断る理由もなく、引き受ける仕事は少しずつ増えていった。
何かに追われている間は、余計なことを考えずに済む。
気づけば、屋敷へ戻る頃には夕食の時刻を過ぎている日も増えていた。遅くなる日は朝のうちに短い書き置きを残し、夕食を取っておいてもらう。使用人から、セドリックが無理をしないようにと言っていたと聞くこともあった。
夜遅く屋敷へ戻り、セドリックがまだ書斎にいると聞いたことも一度や二度ではない。扉を叩けば、きっといつものように迎えてくれるだろう。
それでも、会いに行くことはなかった。
忙しいのだから、邪魔をしてはいけない。
そう思えば、声をかけない理由はいくらでも見つかった。
机の端には、姉から届いた手紙が置いてある。婚礼の準備が進んでいることや、その後にこちらを訪れる予定について書かれていた。
姉の婚礼には一度帰国するつもりだった。往復の日数を考えれば、それまでにできるだけ仕事を片づけておきたい。
そうして予定の空いたところへ仕事を入れているうちに、眠る時間まで少しずつ短くなっていった。
喉に痛みを感じたのは、式典の二日前だった。
話すことが多かったせいだろうと思い、喉にいいと言われるお茶を淹れてもらって、その日はいつもより早く寝台へ入った。
翌朝、目を覚ました時には身体がひどく重かった。起き上がろうとしたものの、頭の奥が鈍く痛み、すぐに枕へ戻る。夜の間に熱が出たのか、夜着の内側まで汗でじっとりと湿っていた。
朝食の時間が近づいていることは分かっていたが、足を下ろす気力もなく、そのまま横になっていると、控えめに扉が叩かれた。
「アルド? 起きてる?」
セドリックの声だった。
返事をしようとしたが、喉がひどく痛み、掠れた声しか出なかった。それでも聞こえたらしく、扉が開く。入ってきたセドリックは、寝台のアルドを見るなり表情を変えた。
「顔色が悪い」
「少し寝不足なだけです」
すぐそばまで来たセドリックの手が額に触れる。少し冷えた手が、熱を持った肌に心地よかった。
久しぶりに、こんな近くで見る顔だ。
ぼんやりした頭でそんなことを考えていると、額へ触れていた手が頬へ移る。
「熱い……今日はもう休んで。医師を呼ぶから」
「ですが……確認しておかなければならないことが」
「それは僕が聞く。君は寝て」
起き上がろうとして身体に力を入れたが、すぐに肩を押さえられた。強い力ではない。それでも今のアルドには、逆らえるほどの力が残っていなかった。
「汗で濡れてるね。身体を拭いて着替えた方がよさそうだけど、起きられる?」
「……はい」
そう答えて身体を起こしかけたが、すぐに目の前が揺れ、セドリックが背中へ腕を回し、倒れないよう支えてくれた。
「無理しないで」
そのまま呼び鈴を鳴らし、来てくれた侍女に湯と新しい夜着を頼んだ。
侍女が湯と夜着を置いて下がると、セドリックは用意されたタオルを手に取り、寝台の脇へ腰を下ろした。
「僕がやるよ」
「ですが……」
「今は休んで」
温かいタオルが首筋へ触れ、汗を拭うようにゆっくりと滑っていく。普段なら人に任せるようなことではないし、ましてセドリックにこんなことまでさせるつもりはなかった。
こんなことまでしてもらって申し訳ないと思う。それなのに、その手が離れるのは少し惜しく、近くにいてくれることは嬉しかった。
新しい夜着へ着替える時も一人ではうまく身体を支えられず、セドリックの肩を借りることになった。背中へ回された腕に身体を預けると、すぐそばの体温に、張っていた力が少し抜ける。
「……すみません」
「謝らなくていいから」
寝台へ戻されたところで咳が出た。身体を丸めるより先に、セドリックの手が背中へ触れ、そのままゆっくりと撫でてくれる。
アルドは目を閉じた。
背中に残る手の温かさに、少しだけ息をつく。
離れないでほしいと思ったことだけは、熱のせいにはできなかった。




