3. ヴェールの向こう
大聖堂へ続く控えの間へ通されると、式官が待機する場所を示した。窓から入る光が床の模様を照らしている。参列者の声は奥の扉の向こうから聞こえ、まだそちらには出ないよう告げられた。
セドリックは濃い青灰色の礼装に身を包んでいた。襟や袖口には銀糸で細い刺繍が施され、胸元には王家の紋章を象った留め具がある。普段の式典より華やかな装いだったが、鏡で見てもまだ、自分がこれから婚礼を挙げるという実感は薄かった。
手袋を直していると、姉がこちらへ歩いてきた。王冠をつけたその姿を見ていると、これから結婚するというより、いつもの式典を待っているような気分になった。
「眠れた?」
「よく寝たよ」
「それなら結構。これからしばらくは屋敷にいる時間を増やしてね」
「そのつもりだよ。しばらくは屋敷でできる仕事をすることにした。慣れない場所で、最初から一人で過ごすのも落ち着かないだろうから」
姉は頷き、上着の胸元を確かめると、そのまま次の予定へ向かうため控えの間を出ていった。セドリックは見送ってから、改めて式の手順を頭の中で確かめる。進行は覚えているし、その後の祝宴も段取りは決まっている。
結婚相手が変わったと知らされた時も、事情を聞けば納得できた。アルド本人が申し出たのだという。隣国の女王の弟で、長く騎士として王家に仕えてきた人らしい。
互いを敵としない証として、二つの王家が縁を結ぶ。アルドもこの婚姻を受け入れているのなら、共に穏やかに暮らしていければそれでいい。自分にその役目が回ってきたことにも、不満はなかった。
アルドは昨日の夕方、迎賓館へ入ったそうだ。この国では、婚礼を控えた二人は式の前に顔を合わせず、当日もヴェールを上げるまでは互いの顔を見ないのが古くからの慣例になっている。
到着を知らせる書状には、出迎えへの丁寧な礼が記されていた。整った文字と簡潔な文面は、事前に見た絵姿から受けた印象にもよく合っていた。
同じ王都にいながら、まだ一度も顔を合わせていない。絵姿のアルドは騎士の正装に身を包み、口元を引き結んでいた。短く整えた茶色の髪で、落ち着いた顔立ちをしていた。
実際に話をしたら、どんな人なのだろう。絵姿では生真面目そうに見えたが、こちらが普段通りに話しても困らせないだろうか。そんなことを考えているうちに、扉の向こうのざわめきが次第に静まっていく。
式官に促され、セドリックは大聖堂へ入った。高い天井の下を進み、奥で待つ姉の前で足を止める。
参列者には、隣国の女王マルタと、その婚約者の姿もあった。軽く目礼を交わしたところで、式官が合図を送る。
音楽が変わり、セドリックが振り返るのと同時に、扉がゆっくりと開いた。
その向こうから、ヴェールを掛けた人影がゆっくりと姿を現した。
白に近い灰色の上衣に、刺繍の入った長い外套。歩みを進めるたびに裾が静かに揺れ、それに合わせて頭から掛けられた薄いヴェールも肩の後ろでゆるく波打つ。
まだ距離があり、表情までは見えないが、近づいてくるにつれ、肩の線や衣装の刺繍が少しずつはっきりと見えてくる。
絵姿で見ていた人が、今こうして自分の結婚相手として歩いてきているのだと、初めて実感した。
隣まで来たその人は、自分よりわずかに背が高かった。絵姿より肩も少しだけ広く、セドリックは自然と顔を上げた。
アルドが隣へ並ぶと、式官に促されて互いに手を差し出す。セドリックがその手を取ると、手袋越しに触れた指がほんの少し握り返してきた。
小さな動きなのに、隣に立つ人がこれから自分の伴侶になるのだという実感が、先ほどより少しだけ強くなった。
二人で正面へ向き直ると、姉の隣に立つ式官が婚姻の文言を読み上げ始めた。両家の名が呼ばれ、今日の婚姻によって二つの王家が縁を結ぶことが告げられる。
隣のアルドは背筋を伸ばしたまま、静かに聞いていた。肩にかかるヴェールがわずかに揺れる。横顔も布越しにしか見えず、どんな表情をしているのかまでは分からなかった。
朗読が終わると、式官に促され、セドリックは繋いでいた手を離してアルドへ向き直る。ヴェールの縁に指をかけ、布が髪に引っかからないよう、両手でゆっくり持ち上げた。
ヴェールの下の茶色の瞳と目が合った。
――綺麗だと思った。
大聖堂の窓から差し込む光を受け、茶色の瞳が瞬いて見えた。短く整えられた髪も、すっと通った鼻筋も、絵姿で見ていたものと同じはずなのに、目の前にいるアルドはまるで違って見える。
もっと近くで見たい。この目が笑ったところを見てみたい。話をしている時にはどんな顔をするのだろう。自分の名前を呼ぶ時にも、こんなふうにまっすぐ見てくれるのだろうか。
つい先ほどまでは、相手がどんな人であっても穏やかに暮らしていければそれでいいと思っていた。二つの国のために結ばれる婚姻であり、自分はその役目をきちんと果たせばいい。それ以上のことなど考えていなかった。
それなのに今は、目の前のアルドと結婚するのだと思うだけで胸が高鳴った。
これから同じ屋敷へ帰り、毎日顔を合わせ、言葉を交わし、今はまだ知らない表情も見ることができる。
ああ、これは間違いない。
一目惚れだ。
すぐそばで姉が小さく咳払いをし、セドリックはようやく自分がまだヴェールを持ち上げたままだと気づいた。アルドの目には、先ほどまではなかったわずかな戸惑いが浮かんでいた。
我に返り、慌ててヴェールを肩の後ろへ送ると、姉も何事もなかったように式を進め、婚姻の誓いを求めた。
「誓います」
思ったより大きな声が出た。アルドがこちらを見てから、同じ問いかけに落ち着いた声で誓いを返す。
式官が合図を送ると、従者が二人の前へ指輪を運んできた。二人とも手袋を外して預け、セドリックがそのうちの一つを受け取る。
アルドの手を取ると、先ほど手袋越しに触れた時とは違い、今度は指先の温度がそのまま伝わった。
アルドの指へ通そうとするが、手が震えないよう意識したせいか、かえって時間がかかった。アルドは何も言わず、こちらの動きを待っていた。
続いてアルドがもう一つの指輪を受け取り、今度はセドリックの指へ通す。指の付け根まで収まった輪へ目を落とし、それからアルドの手にも同じ指輪があることを確かめた。
誓いの口づけを促され、セドリックはアルドへ向き直った。
正面から向かい合うと、やはりアルドの方がわずかに背が高い。一歩近づくと、アルドは少しだけ顔を傾けて目を閉じた。その動きは落ち着いていたのに、距離が縮まるにつれて肩へ力が入っていく。触れる寸前には、息まで止めているように見えた。
慣れていないのだろうか。
そう思うと、急いで触れる気にはなれなかった。驚かせないようゆっくり距離を詰め、ほんの一瞬だけ唇を重ねた。
唇を離すと、アルドが小さく息を吐いた。閉じていた目がゆっくり開き、すぐ近くであの茶色の瞳と目が合った。
やっぱり綺麗だと思った。
もう少し見ていたかったが、ここは大勢が見守る婚礼の場だ。名残惜しく視線を外し、参列者へ向き直ると、大聖堂に拍手が広がった。
拍手が静まるのを待ち、姉が参列者へ向き直った。
「ここに、セドリックとアルドの婚姻が成立したことを宣言します」
もう一度、参列者から拍手が起こった。
アルドが深く一礼すると、先ほどまでヴェール越しにしか見えなかった横顔が、今ははっきりと見えた。
姉は二人の前まで歩み寄り、まずセドリックを見てからアルドへと視線を移す。
「ようこそ、アルド。今日からこの国もあなたの家です」
アルドは静かに頭を下げた。
「ありがとうございます、陛下」
姉も小さく頷き、二人を参列者の方へ送り出した。
◇
祝宴は王城の大広間で開かれた。席につくまでにも次々と祝いの言葉をかけられ、そのたびにアルドは丁寧に応じていた。セドリックは隣に立ちながら、気づけば何度もその横顔へ目を向けてしまい、そのたびに慌てて挨拶に来た相手へ向き直った。
ようやく二人の席へ着くと、給仕が飲み物を注ぎに来た。先ほどまで途切れなく続いていた挨拶から少しだけ解放され、セドリックはアルドの方へ顔を寄せて声を落とす。
「疲れていませんか」
「大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
すぐに返事があり、セドリックは次の言葉を探した。普段、来賓を相手に話す時には困らない。旅の様子でも、食事でも、話題はいくらでもある。けれど、どれも今はどこかよそよそしく思えた。
「旅の間、困ったことはありませんでしたか」
結局、あらかじめ用意していたような質問になった。アルドは道中が穏やかだったことを話し、迎えの者へ礼を伝えてほしいと言った。
「川沿いの道を通られたのですね」
「はい。途中で水門を見せていただきました」
視察で訪ねた場所だったので、セドリックも構造を知っていた。アルドは実際に水位が変わるところを見たらしく、説明しながら指先を上下させる。
儀礼的な受け答えではなく、アルドがこうして自分から言葉を足してくれるのは初めてだった。セドリックが尋ねると、さらに少しずつ話してくれる。そのやり取りが心地よく、先ほどまで話題を探していたことも忘れて聞いていた。
料理が運ばれてきても、アルドはほとんど手をつけなかった。長旅の疲れだろうか。それとも、慣れない場所で食欲がないのか。セドリックは気になったが、皆の前で理由を尋ねるのも躊躇われた。
皿を下げに来た給仕へ、アルドが小さく頭を下げる。
「すみません。せっかく用意していただいたのに」
給仕は一瞬驚いたようにアルドを見たが、すぐに一礼して皿を下げた。
そのやり取りを見ながら、セドリックは少しだけ口元を緩めた。自分や姉に向ける丁寧な態度は、王族同士の礼儀だからだと思っていた。けれど、料理を運んだ給仕にまできちんと礼を伝える姿を見ていると、それだけではないらしい。アルド自身の気遣いなのだと分かると、それが妙に嬉しかった。
給仕を見送ってから、セドリックはアルドへ声をかけた。
「無理はしないでください」
「ありがとうございます。少し緊張しているだけです」
次の料理にも、アルドはほとんど手をつけなかった。皿が替わるたびに申し訳なさそうにするので、セドリックも気にはなったが、無理に勧めることはしなかった。
デザートに焼いた果物が運ばれてくると、アルドの視線が皿の上で止まった。少し迷ったあと、ナイフとフォークを手に取り、小さく切り分けて一口食べる。
それまでほとんど変わらなかった表情が、ほんの少しだけ和らいだのを見て、セドリックは思わずその横顔を見る。
事前に好きなものを尋ねた際、アルドが挙げていたものの一つで、今日の献立に加えてもらっていた。口に合うかまでは分からなかったが、もう一口食べるのを見て、胸の内でほっとする。
「お口に合いましたか」
「はい。美味しいです」
「よかった。お好きだと聞いていたので、今日の献立に入れてもらったんです」
アルドが手を止め、こちらを見る。
「私のために?」
「少しでも慣れたものがあった方が、落ち着けるかと思って」
アルドは少し黙った後、皿へ目を戻した。
「ありがとうございます」
先ほどまでより、その声はわずかに柔らかかった。もう一口食べるのを見て、セドリックもようやく肩の力が抜ける。
気に入ってもらえたらしい。それだけのことが、思っていた以上に嬉しかった。
その後も、祝辞や乾杯の合間に少しずつ言葉を交わした。水門の話の続きを聞いたり、料理のことを話したりしているうちに、デザートの皿はいつの間にか空になっていた。
まだ話し足りなかったが、これからは同じ屋敷で暮らすのだから、時間はいくらでもある。屋敷へ戻ったあとも、もう少しアルドのことを知ることができるだろうか。
ふと手元へ目を落とすと、今日アルドにはめてもらった指輪があった。その向こうには、同じ指輪をつけたアルドの手がある。
今朝まで、婚礼が無事に済めばそれでいいと思っていた。けれど今は、今日アルドと縁が結ばれたことが、ただ嬉しかった。




