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2. 送り出す手

 隣国の使者との会談が終わる頃、アルドはマルタに呼び出され、執務室へ向かった。廊下では会談を終えた重臣たちと何人もすれ違ったが、見慣れた顔ばかりなのに、いつもより話し声は少なかった。


 扉の前に控えていた侍従へ到着を告げ、中へ通される。マルタは机に残された書類から顔を上げ、アルドを見た。


「話しておきたいことがあるの」

「和平について?」

「ええ。その一つとして、王族同士の婚姻が提案されたわ」


 アルドは眉を寄せた。


「婚姻?」

「まだ案の段階よ」


 長く緊張の続いていた二国だったが、双方の代替わりをきっかけに、関係を見直す動きが始まっていた。新たな君主のもとで和平に向けた話し合いが重ねられ、その一つとして王族同士の婚姻が提案されたのだという。二つの王家が縁を結ぶことで、今後も互いを敵としない意思を示すためだった。


 この国では、同性同士の婚姻も珍しいものではない。特に王侯貴族では、家を継ぐ立場にない者が性別にかかわらず婚姻を結ぶこともごく普通にあった。そのため、今回の話でも相手の性別が問題になることはなかった。


 隣国の女王はすでに結婚しており、未婚の王族は二十三歳になる弟のセドリックだけだった。


「こちらからは姉さんが?」

「そういう案が出ているわ。セドリック殿下をこちらへ迎えてはどうかと」


 そこで初めて、アルドは机の隅に置かれた名簿へ目を向けた。数か月後に控えたマルタの婚礼へ招く人々の名が並んでいる。つい先日まで、誰をどの席へ案内するか二人で話していたものだった。


「今の婚約はどうなる」

「その案を受ければ、解消することになるわ」


 マルタの声が少し硬くなった。


「だから私は同意していないの。和平のためとはいえ、すでに決めた婚姻を簡単になかったことにはできないわ」


 アルドは黙って名簿へ目を落とした。姉と婚約者が、ようやく迎えられるはずだった婚礼だ。国境の緊張が続く間は日取りを決められず、マルタが即位してからも忙しさが重なり、二人は長い間待ち続けてきた。


 それが、ようやく数か月後にまで近づいている。


 名簿に並ぶ名前を見つめているうちに、アルドは先ほどの話を思い返した。


「王族同士の婚姻であれば、姉さんでなくてもいいのか」


 マルタが顔を上げる。


「どういう意味?」

「俺も王家の一員だ」


 何を言おうとしているのか気づいたのか、マルタの表情が変わった。


「駄目よ」

「まだ何も言ってない」

「聞かなくても分かるわ」


 マルタははっきりと言った。


「私の代わりに、あなたが結婚するつもりでしょう」


 否定するつもりはなかった。


 マルタは椅子から立ち上がり、机を回ってアルドの前まで来る。


「私の結婚は私が決めるの。あなたが代わる必要はない」

「王族同士が婚姻を結べば、和平の話は進めやすくなるんだろう」

「それ以外にも方法はあるわ」

「なら、その一つとして俺の話も聞いてほしい」


 マルタは口を閉じた。


 アルドは一度息を整え、自分の考えを話した。正式に王家へ迎えられた以上、自分もその一員だ。二つの王家が縁を結ぶことに意味があるのなら、自分でもその役目は果たせる。それなら姉も、長年待っていた婚約者との婚礼を諦めずに済む。


「あなたに今、決まった相手がいないからって、代わりに結婚すればいいという話じゃないのよ」

「相手のことは、これから知ればいい」

「それだけじゃないわ」


 マルタの声が少し強くなった。


「私がセドリック殿下と結婚するなら、殿下にこちらへ来ていただく話になる。でも、あなたが結婚するなら同じではないでしょう」


 アルドは黙った。


「あなたは向こうへ行くことになる。暮らしたこともない国で、知っている人もいない。どんな立場になるのかも、向こうのどこで暮らすのかも、まだ何も決まっていないのよ」


「それは、これから決めればいい」

「そういうことを言っているんじゃないの」


 マルタは困ったように息を吐き、アルドの肩へ手を置いた。


「あなたがこれからどこで暮らして、どんな毎日を過ごすのか。その全部が変わるかもしれないって話をしているの。婚礼を挙げて終わりじゃない。その先もずっと向こうで生きていくことになるのよ」

「分かってる」

「本当に?」


 返事をしようとしたアルドを、マルタはまっすぐ見た。


「あなたはいつも、できるかどうかで考えるでしょう。役に立てるならやる。自分が我慢すれば済むなら、それでいいって」


 アルドは何も言わなかった。


「でも、これは任務じゃないのよ」


 肩に置かれた手へ、少しだけ力がこもる。


「あなたの人生の話をしているの。そこで幸せに暮らせるのか、寂しくないのか、自分が何を望んでいるのか。そういうことも考えてほしいのよ」

「……俺が行けば、姉さんは今の婚約を諦めなくて済む」

「ほら、また私の話をしてる」


 言われて、アルドは口を閉じた。


「私はあなたに、私のために人生を決めてほしいわけじゃないの。あなたには、あなたの幸せを選んでほしい」


 その言葉に、アルドはすぐには返せず、その日の話はそこで終わった。


 数日後、もう一度話を切り出しても、マルタの返事は変わらなかった。それでもアルドが譲らずにいると、今度は姉の婚約者に声をかけられた。


 王家と古くから付き合いのある公爵家の次男で、幼い頃から城へ出入りしていた人だ。アルドにとっても、姉の婚約者になる前からよく知る相手だった。


 二人で話したいと言われ、中庭の回廊へ出る。並んで腰を下ろすと、彼はしばらく庭を眺めてから口を開いた。


「私たちの結婚を心配してくれたんだろう」

「姉さんから聞いたのか」

「ああ」


 彼はアルドへ顔を向けた。


「だが、これは私たちが考えることだ。君が代わりに自分の人生を差し出す必要はない」


 そう言われることは分かっていた。


 アルドは庭へ目を向ける。子どもの頃から何度も歩いた場所だ。この人とも、マルタとも、ここで過ごした時間はいくらでもある。


「俺にもできることがあるなら、したい」

「君は昔からそうだな……自分にできることを見つけたら、すぐに引き受けようとする」

「悪いことじゃないだろう」

「悪いとは言っていない。ただ、今回は君のこれからにも関わることだ」


 アルドが黙ったまま首を振ると、彼はしばらくこちらを見ていたが、それ以上は何も言わなかった。


◇


 それからも何度か話し合いを重ね、マルタはようやく話を進めることに同意した。


 隣国へアルドの申し出を伝え、セドリック本人の意思も確かめる。隣国での立場や住む場所についても調べ、返事が届くたびにアルドへ書状を見せてくれた。


 相手のことも、その先の暮らしのことも、自分で決められるように一つずつ確かめてくれている。それが分かっていたから、書状を読み終えるたびに「本当にこの人でいいのか」とマルタに尋ねられても、アルドはそのたびに頷いた。


 その夜、食卓を片づけてもらった後で、姉と二人で届いた絵姿を広げた。そこには、淡い灰金色の髪に青灰色の瞳をした青年が描かれている。セドリックはアルドより二つ下で、外交や各地の視察を担っているらしい。


「優しそうね」

「そうだな」

「あなたより愛想もありそう」

「俺はそんなに愛想がないか?」

「自覚なかったの?」


 思わず姉を見ると、マルタは何でもない顔で絵姿へ目を戻していた。アルドも改めて見ると描かれた表情は柔らかく、少なくとも気難しそうな相手には見えなかった。


 マルタは絵姿を置くと、今度は書状を手に取った。アルドの方へ屋敷の図面を寄せ、庭が広いことや、王宮からも近い場所にあることを説明する。


 これから自分が暮らす場所だ。


 見慣れない部屋や庭を図面で追っているうちに、向こうで暮らすことが急に現実味を帯び始め、アルドは図面の端へ手を置いた。


「嫌になったら、決まる前にちゃんと言うのよ」

「嫌ではない」

「じゃあ、向こうでしてみたいことはある?」


 問われても、アルドはすぐには答えられなかった。


 姉の婚礼を守ること。和平の役に立つこと。結婚を引き受けた理由ならいくらでも答えられる。けれど、自分が向こうで何をしたいのかは、これまで一度も考えたことがなかった。


 アルドは図面へ目を落とした。屋敷の横には、大きな庭が描かれている。


「……庭が見たい」


 今思いついたのは、それくらいだった。


 そう答えると、マルタは少しだけ笑った。


◇


 両国で改めて話し合いが行われ、セドリックとアルドの婚姻が正式に決まった。マルタの婚礼も、予定通り進められることになった。


 出発までの日々は慌ただしかった。騎士としての仕事を引き継ぎ、婚礼衣装の採寸を受け、挨拶に訪れる人たちにも応じる。


 寂しくなると言ってくれる者も多かった。相談事を抱えた若い騎士には後任を紹介し、それでも困ることがあれば手紙を書いてほしいと伝えた。


 荷物を整理していると、マルタが小さな箱を持って部屋へ来た。


 母の裁縫箱だった。


「これも持っていくでしょう?」


 十歳のあの日、繕いかけのシャツと一緒に城へ持ってきたものだ。シャツは今も自分の部屋にしまってあるが、裁縫箱は自分では使うこともなく、いつからかマルタに預けていた。


 受け取って蓋を開けると、中身はほとんど昔のままだった。糸の並びも、小さな鋏が収まっている場所も覚えていた。


 アルドが箱を膝に乗せたまま黙っていると、マルタは向かいの椅子へ腰を下ろした。


「置いていくものは、そのままでいいわ。部屋も残しておくから」

「戻れるか分からないのに?」

「いつ帰ってきてもいいようにしておきたいの」


 マルタは机の上の本を一冊取り、旅の間に読むかと尋ねた。もう読んだと答えると、新しい本が必要かと聞かれた。


「向こうで探す」

「そう。気に入る本が見つかるといいわね」


 婚姻を結べば、これからは向こうで暮らしていくことになる。思い立った時に、この城へ戻れるとは思っていなかった。

 姉の婚礼には戻るつもりだが、その先のことは分からない。それでも、そう言ってくれる姉を安心させたくて頷いた。


「そうだな」

「じゃあ、お茶にしましょうか」


 お茶を飲みながら、マルタは子どもの頃の話ばかりした。厩へ行ったまま戻らず城中を探させたこと。初めて着た礼服の袖を、その日のうちに汚したこと。剣の稽古を始めたばかりの頃、手にできた豆を隠していたことまで覚えていた。


「そんなことまで覚えてるのか」

「覚えてるわよ」

「忘れてくれていいことばかりだな」

「嫌よ。せっかく覚えてるのに」


 マルタは当然のように言って、冷めかけたお茶を飲んだ。言われるまで忘れていたこともあったが、それを姉が今も覚えていることが、少し不思議だった。


 そんな話をしているうちにカップは空になり、気づけばいつもより遅い時間になっていた。


◇


 出発の朝、マルタは馬車のそばでアルドの外套の襟を直し、いつものように顔色を確かめた。


「困ったことがあったらいつでも知らせるのよ」

「ああ」

「困っていなくても手紙は書いて。何を食べたとか、庭に何が咲いていたとかでもいいから」

「分かった」


 マルタは襟から手を離し、そのまま肩を一度撫でた。すぐに手を下ろすのかと思ったが、指先はしばらくそこに残ったままだった。


 アルドが顔を上げると、マルタは何か言いかけるように唇を開き、それから少しだけ笑った。幼い頃から何度も見てきた顔なのに、今はその表情の奥に、送り出すことを惜しむ気持ちが滲んでいるように見えた。


「幸せになってね」


 静かな声だった。


 ただ無事でいてほしいというだけではなく、向こうで大切にされて、自分のために笑って暮らしてほしい。そんな願いまで込められているようで、アルドはすぐには言葉を返せなかった。

 返事の代わりに頷くと、肩に置かれていた手がゆっくり腕へ下りた。離れていくはずの手なのに、最後まで名残を惜しむように、指先だけがしばらく触れていた。


「帰りたくなったらいつでも帰ってきなさい……理由なんてなくていいから」


 マルタの後ろでは、婚約者もこちらを見ていた。アルドは姉の婚礼には必ず戻ると約束し、二人に挨拶して馬車へ乗り込んだ。


 馬車が動き出してからも、しばらく窓の外に残る二人を見ていた。姿が見えなくなり、城門を抜けたところでようやく膝の上へ目を落とす。


 ――帰ってきていいと言ってくれた。


 それでも、自分から申し出た婚姻だ。簡単に引き返すつもりはない。愛されなくても、冷たく扱われても構わない。和平のための婚姻なのだから、自分がうまく振る舞えばいい。


 姉が予定通り婚礼を挙げられ、自分も二国の和平の役に立てる。それで十分だった。


 ――これで少しは恩を返せる。


 アルドはそう考えながら、揺れる馬車の中で手を組んだ。

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