1. 与えられた場所
政略結婚から始まる、じれじれBLです。
全10話、完結まで執筆済みです。
※男性同士の恋愛描写があります。
※R15程度の親密な描写を含みます。
最後までお付き合いいただけましたら嬉しいです。
夕食前、アルドが窓の外へ目を向けると、庭の向こうから見慣れた姿がこちらへ歩いて来た。思っていたより早い帰宅に、アルドは立ち上がって玄関へ向かいかけ、ふと足を止めた。
誰かの帰りを待つことは、ずっと昔から当たり前だった。その意味が変わったのは、いつからだったか。
まだ、自分は誰かに与えられた場所で生きているのだと思い、姉の幸せのためなら、自分の人生くらい差し出せると考えていた頃も、アルドは夕食の席でマルタを待っていた。
◇
夕食の席に姉が来たのは、スープを温め直してもらった後だった。マルタは席につくと袖口の留め具を外し、ため息を吐く。給仕が皿を置く間も、眉間には薄く皺が残っていた。
「会議、長かったな」
「あなたまで待つことはなかったのに」
「俺も今戻ったところだ」
姉はアルドの髪へ目を留める。訓練の後に湯を使い、急いで着替えてきたので、まだ少し湿っていた。
「また若い子の相手をしてたの?」
「頼まれたからな」
「食事の後は休むのよ」
「分かってる」
「昨日もそう言って書庫へ行ったでしょう」
そこまで知られているとは思わず、パンを取る手が止まった。姉はようやく眉を緩め、自分の皿へスプーンを入れる。
給仕が下がると、アルドもスープを口へ運んだ。明日も早くから訓練があると言いかけて、向かいの姉が眉間を指で揉んでいることに気づく。
「そっちこそ休んだ方がいい」
「休むわよ……手紙を二通書いたら」
アルドが黙って見ていると、姉はスプーンを置いた。
「一通はあなたの礼服のことよ」
「俺のは今のでいい」
「前の式典で腕を上げにくそうにしていたの、忘れた?」
忘れてはいなかった。剣を振るう衣装でもないのだから、気にするほどではないと思っていただけだ。そう言えばまた話が長くなるので、アルドは渋々、今度採寸に行くと答えた。
マルタの婚礼までは、あと数か月だった。婚約者は王家と古くから付き合いのある公爵家の出で、幼い頃から城へ出入りしており、姉の婚約者になる前から、アルドもよく知る相手だった。隣国との緊張が和らぎ、ようやく日取りを決められたと聞いた時には、二人が普段以上に嬉しそうだったのを覚えている。
「剣まで新しくしろとは言わないけど、採寸に行くなら靴も見てもらって」
「靴も?」
「前から替えなさいと言ってるでしょう」
「まだ増えるのか」
姉は答える代わりにパンをちぎった。先ほどまでの眉間の皺はもう消えていた。アルドも食事に戻る。温め直されたスープからは、まだ湯気が立っていた。
こうして家族だけで同じ食卓につくのは、昔から変わらない。姉は忙しい時には先に食べていろと伝言を寄越したこともあったが、顔も見せずに一日を終えることは滅多になかった。どちらかが遅れる時には、もう片方が待っていた。
初めてこの部屋へ通された夜も、向かいの椅子にはマルタがいた。
両親を失った時、アルドは十歳だった。父は国王付きの護衛騎士で、母は王妃の実家である公爵家の分家筋にあたる伯爵家の出で、王妃とは従姉妹にあたった。年も近く、幼い頃から姉妹のように育ち、王妃付きの筆頭侍女を務めていた。
二人が亡くなったのは、国王夫妻が地方の視察を終え、王都へ戻る途中だった。山あいの街道へ差しかかったところで前方を倒木で塞がれ、ほぼ同時に後方から襲撃を受けた。高所から矢を射かけられたことで隊列は分断され、護衛の騎士たちは王族を逃がす者と、その場で敵を食い止める者に分かれたという。
父は国王たちを先へ逃がすため、数人の騎士とともに街道へ残った。母も傷を負いながら王妃を庇い、自ら囮となって追手を引きつけたという。
王族は全員無事に王都へ戻ったが、両親は戻らなかった。
二人が王家を守って命を落としたことは、すぐに国中へ知らされた。父も母も以前から王宮の内外で慕われていたため、葬儀にはアルドの知らない人まで大勢訪れた。
大人たちから何度も声をかけられたが、誰が何を言っていたのかはほとんど覚えていない。葬儀を終えて王宮近くの屋敷へ戻ると、母が繕いかけていた自分のシャツが窓際に残っていたことだけ、妙にはっきり覚えている。
身寄りを失ったアルドは、王家に引き取られることになった。正式に家族として迎えたいと国王夫妻へ頼んだのは、十五歳だったマルタだと後に聞いた。
数日後、迎えに来た王家の使者の中にはマルタもいた。母に連れられて王宮を訪れた際に何度も顔を合わせていたが、五つ年上のマルタはすでに王族としての教育に忙しく、二人きりで話した記憶はほとんどなかった。
使用人たちが荷物をまとめる中、マルタはアルドのそばにいた。持っていきたいものはないかと何度も尋ねられたが、そのたびにアルドは首を振った。何を選べばいいのか分からなかった。
ふと窓際へ目を向けると、机の上に自分のシャツが置かれていた。袖口のほつれを母が繕いかけていたもので、まだ針に糸が通ったままだった。それを見ていると、マルタが隣にしゃがんだ。
「それも持っていきましょうか」
「まだ直ってない」
「そうね。でもそのまま持っていきましょう」
マルタは針を抜き、シャツを丁寧に畳んで薄い布で包んだ。そばにあった母の裁縫箱も一緒に持っていくよう使用人へ頼んだ。
家を出る時になっても、アルドはその包みだけは自分で抱えていた。馬車に乗ってからも膝の上に置いたまま、ずっと下を向いていた。
城に着いてからも、アルドはほとんど口を利かなかった。王宮には母に連れられて何度も来たことがあり、そこでの作法も、食事の席での振る舞いも知っていた。それでも、今日からここで王族の一員として暮らすのだと思うと、見慣れていたはずの場所がまるで違って見えた。
食堂では用意された席についたが、料理が運ばれてきても手を伸ばせなかった。向かいに座ったマルタはしばらく何も言わず、それから給仕へ声をかけ、温かいスープを頼んだ。
「これだけでも飲まない?」
「……いらない」
「そう?うちの料理人が作るスープ、美味しいのよ」
そう言って、マルタは自分の分を一口飲んでみせた。
「ほら、美味しい」
アルドはしばらく器を見つめ、少し迷った後にスプーンを取った。一口飲むと、思っていたより腹が空いていたことに気づく。そのまま皿が空になるまで夢中で飲んでいる間、マルタは何も言わずに見守っていた。
最後の一口を飲み終えると、マルタはようやく少し安心したように表情を緩めた。
食事の後、用意された部屋へ案内されても、アルドはなかなか寝台に入れなかった。王宮で夜を過ごすのは初めてだった。昼間なら何度も歩いた場所なのに、夜になると急に心細くなった。
机の上には、家から持ってきた母の裁縫箱と、包んだままのシャツが置かれていた。それを何度も確かめるように見てから寝台へ入った。灯りを消してもらった後も、なかなか眠れなかった。
しばらくすると、控えめに扉を叩く音がした。誰だろうと思うより先に、扉の向こうから聞き慣れた声が続いた。
「まだ起きてる?」
マルタだと分かり、アルドは寝台の中から小さく返事をした。
「……うん」
返事をすると扉が開き、マルタが灯りを手に部屋へ入ってきた。寝台のそばまで来ると、アルドの顔を覗き込む。
「少しここにいてもいい?」
アルドが頷くと、マルタは椅子を寝台のそばへ寄せた。
「眠るまでいるから」
そう声をかけると、持ってきた本を開いた。
アルドも何も言わず、寝台の中で身体を小さくした。マルタもそれ以上は話しかけず、静かに頁をめくっていた。
目を閉じても、しばらくすると気になってまた開け、マルタを見る。そのたびに、マルタは同じ場所にいた。
二度、三度と確かめるうちに、次に目を開けるまでの間が少しずつ長くなっていき、気づけばそのまま眠っていた。
翌朝、目を覚ました時には、マルタの姿はなかった。
◇
城での暮らしにも少し慣れた頃、隠していた怪我が見つかったことがあった。
訓練場で騎士たちが使っていた木剣を借り、見よう見まねで振っているうちにバランスを崩して足首を捻った。少し休めば治ると思い、そのまま黙っていたが、夕食の席につこうとした時、足を庇うように歩くアルドを見て、マルタはすぐに気づいた。
「足、どうしたの」
「何でもない」
「何でもない歩き方じゃないでしょう。ちょっと見せて」
誤魔化しきれず、アルドは椅子に腰を下ろして靴を脱いだ。足首は赤く腫れていた。それを見たマルタは眉を寄せ、すぐに医師を呼ばせた。
「少し捻っただけ」
「それを決めるのはあなたじゃないわ」
医師が足首を診ている間も、アルドは平気だと言い張った。マルタは隣でそれを聞きながら、呆れたように息をつく。
「次はちゃんと言って。私がいなければ、近くにいる人にでもいいから」
「……分かった」
手当てを終えて食卓へ戻ると、温かい料理が改めて用意されていた。
「どうして訓練場にいたの?」
「父さんみたいに剣を使えたらと思って」
マルタは少し黙ってから、アルドを見る。
「剣を習いたいの?」
「……うん」
少し考えた後、マルタは頷いた。
「分かったわ。まず足を治してからね」
それから数日後、医師の許可が出ると、マルタは訓練場まで一緒に来てくれた。
◇
父と母が王家を守って命を落としたことは、幼い頃から知っていた。それが自分にとって何を意味するのかは、年齢を重ねるにつれて少しずつ分かるようになった。
アルドは、自分がここにいられるのは両親のおかげなのだと思っていた。家族として迎えられ、姉に大切にされるほど、いつか自分も何かを返さなければという気持ちは強くなっていった。何もできない子どもの頃から、ここに置いてもらった。その厚意に、いつまでも甘えているわけにはいかない。
足が治ってから始めた剣の稽古にも、次第にのめり込んでいった。父と同じ騎士になれば、自分もこの家族の役に立てる。
騎士になってからは、マルタの護衛として視察に同行し、軍事の相談を受けることも増えた。頼られるたび、自分にもようやく返せるものができたようで嬉しかった。
初めて遠方の任務から戻った日も、姉は報告より先に食事をさせた。疲れていないと答えても信じず、怪我がないかまで確かめた。そうして心配されるたび、アルドは次はもっと心配をかけずに役目を果たそうと思った。
「聞いてる?」
姉の声に、アルドは顔を上げた。向かいでは、マルタがこちらを見ていた。
「明日の採寸よ。午後でいいわね」
「ああ。空けておく」
「約束よ」
皿が下げられ、デザートに焼いた果物が運ばれてきた。子どもの頃からアルドの好物で、今でも時々食卓に並ぶ。マルタは自分の皿から一切れ取り、アルドの皿へ乗せた。
「姉さんも好きだろ」
「あなたほどじゃないわ」
「別に足さなくてもいい」
「そう言いながら食べるでしょう」
昔から同じことをする人だと思いながら、アルドは増えた一切れにもフォークを伸ばした。
食事を終えて廊下へ出ると、マルタは執務室の方へ向かった。アルドがその場に立ったままでいると、数歩先で振り返る。
「手紙を書くと言ったでしょう」
「二通だったな」
「増やさないわよ」
二通だけだと念を押し、マルタはそのまま廊下を歩いていった。アルドも今日は書庫へ寄らず、自分の部屋へ戻る。
明日は礼服の採寸があり、その次の日には姉の婚約者も食事に来る。しばらくは婚礼の話が続きそうだった。礼服や靴を新しくするのは面倒だが、姉の晴れの日に着るものなら仕方がない。
姉には幸せになってほしい。
そのために自分にできることがあるなら、何でもするつもりでいた。




