懐かしいあの味
ある日の執務室。ユウヤはおとなしく事務仕事を片付けている。
元々事務処理の能力がまともなレベルでないということもあるのだが、建国当初に比べると流石に事務量自体が落ち着いてきていることもあって、ユウヤにとってはさほどの負担でもない。
そもそも、皇帝であるユウヤは書類を読まずに署名をするだけでも業務は回るのだが、、真面目なユウヤはきちんと書類を細部まで読み込み、場合によっては担当者を呼び出して詳細の説明を求める。もっとも官僚も優秀な者が揃っているので、最近ではそんな必要がある案件もそうはない。
突如ドアがノックされるとともに、入ってきたのはヴィキである。
(ん? 今日の担当皇后はアディオラのはずだけど)
「どうした?」
「はい、これ」
ヴィキは手に持っていた書類をユウヤに渡す。
「何だ、これ?」
「ほら先週言ってた、生魚を食べるところがあるって件の調査報告」
「お、早かったな。どんな感じだ?」
「知らなーい。読んでないもん」
「読んでないって、お前……」
「職務でもないし、生魚なんて食べたくないもん」
「……」
ユウヤは呆れたが、他の皇后も生魚を食べるなんてとんでもないという顔をしていたので、この反応も仕方ないのかもしれない。
ユウヤは書類に目を落とす。どうやって調べたのかはわからないが、誰ぞ行ったことがある者が作成したのだろう、意外と詳細にまとまっていた。
場所はエピルス王国でも北の外れの田舎町、テッサロニキ。
どうやら山々に囲まれた小さな入り江にできた町で、はるか南に中程度の規模の町がある以外は、近くに集落一つない片田舎だ。よくこんなところに人が住んでいるものだ。
山に囲まれているため畑も狭いらしく、主な産業は漁業のみ。魚の干物を出荷して細々とやっているらしい。
「……この村でも生魚は一般的なわけじゃなくて、3軒しかしかない食堂のうち1軒が出しているのみ、か。お、魚の種類も書いてあるな。タイ、アジ、ブリ、カレイ、ヒラメ……なんだ、日本と変わらないじゃないか」
書類を舐めるように、隅々まで目を通し終わると、ユウヤは視線を上げる。
「十分だ。よくできた報告書だった。ご苦労だった、と作成者に伝えてくれ」
「え、私じゃなくて?」
「ヴィキは右から左に仕事を流しただけじゃないか」
「その流すのが大変だったのよ! エピルスに戻って、情報を知ってる貴族を探して……そんなど田舎のことを知ってる人なんてそうそういないから、ものすごーく手間がかかったんだから」
「わかったわかった」
ユウヤはむくれたヴィキの頭を撫でてやる。
「ご褒美に、その生魚を出す店に一緒に……」
「イヤよ!! 生魚なんて食べるわけないじゃない!」
舌を思い切り突き出し、断固拒絶するヴィキであった。
次の日。全曜日なので、通常業務はない。催事等もないため、ユウヤは完全に休日であった。
夜が明ける前に、ユウヤは眠い眼をこすりながら外出の準備をする。
漁師町だけあって、件の店は朝早くからやっているらしい。それはいいのだが、品切れになり次第営業終了になってしまうので、早めに行く必要がある。
ちなみに、行くのはユウヤ一人だ。ファニーくらいはついて来るかと思っていたのだが、生魚を食べるということは、よほど忌避感が強いらしい。まぁ、前世でも日本の刺身が有名になるまで、外国人の目からはよっぽど奇異に映っていたらしいが。
城の魔法陣でエピルスの王城に転移した後は、『飛翔』でテッサロニキに向かう。ヴィキのくれた資料の地図のおかげで、特に迷うこともなかった。
日が完全に明けたころ、ユウヤはようやくテッサロニキに到着した。町というより集落と言った方がいいくらいの、ごくごく小さい、うらぶれた港である。
「ああ……なつかしいな」
打ち寄せる波と絶え間ない波音。息を吸い込むと、胸は潮の香りで一杯になる。
「海なんて、いつ以来だろう……ああ、この世界に来て、魔法の練習をした時以来か……おっと、早く店に行かないとな。……あれかな」
一軒の建物、というか大きめのあばら家に目星をつけ、ユウヤは戸を開ける。
店に入ると、それほど多くない客の目が一斉にユウヤに集まる。なぜかどの顔も、一様に驚愕の表情を浮かべていた。客の一人が、おずおずと声をかける。
「あ、あんた……一体……ひょっとして、話に聞いた『魔人族』か?」
「ん? ああ、そうだ。この辺じゃ珍しいのか?」
「珍しいも何も、魔人族なんざ始めて見たぜ。本当にいるんだな……何でこんなところに?」
「この店で生魚を食わせてくれるって聞いて来たんだけどな」
「あぁ、刺身か。おぉい大将、客だぞ」
店の奥から、男が一人出てきた。天使族には珍しくがっしりとした体格にいかつい顔、手には包丁を持っている。
大将もユウヤを見て一瞬ハッとした表情を見せたが、すぐに気を取り直したようだ。
「ウチの食い物は少し変わってるが、いいのか」
「刺身、だろ? それを食いに来たんだ」
「……物好きな魔人だな。そこの席に座んな」
ユウヤはカウンター席に座る。カウンターも椅子も粗末な造りだが、清潔に保ってあるのがわかる。
「で? 何の刺身が食いたいんだ?」
「そこに書いてある、刺身の盛り合わせをくれ。色々食いたいんでな」
店主は答える代わりに、手元にある様々な魚の柵を少しずつ切りつけ始めた。
(ほう)
ユウヤは思わず見惚れる。いかつい見た目に似ず、その手つきは意外なほどに洗練されていた。包丁もよく手入れをされているようだ。
「ほらよ」
ほどなく、ユウヤの目の前に大きな皿が置かれた。五種類の刺身が、シンプルながらも奇麗に盛り付けられている。量が5人分くらいあるような気がするが、嫌がらせか何かだろうか。もっとも、大食漢のユウヤにとっては全く問題ないが。
「そこの瓶の中身を小皿に取って、刺身をつけて食ってくれ」
大将がユウヤの側にあった瓶に向かって顎をしゃくる。
瓶の中身は半透明の、茶色い液体であった。一見醤油に見えたが、が少し舐めてみるとあからさまに味が違う。
(醤油……なわけはないか。この味は、ひょっとして……)
「悪くないな。これ、煎り酒か?」
「お!? 魔人族のくせに、良く知ってるな。お前、料理人か何かか?」
「まぁな」
煎り酒とは、日本酒に梅干しや鰹節などを入れて煮詰めた、昔の日本の調味料だ。
(まぁ、この世界には日本酒も鰹節もないから、日本の煎り酒とは味が違うんだろうけどな)
今度は箸で刺身を一切れ、持ち上げてみる。日本のそれより多少大振りに切りつけてあるが、食べにくいほどではない。断面の美しさと、角が奇麗にたっていることが、大将の腕前と包丁の手入れの良さをよく示していた。
ちょこっと刺身を煎り酒につけ、おもむろに口に運ぶ。
(やっぱアジか。うん、臭みもないし、脂ののりもいい。この大将、あなどれないな)
矢も楯もたまらなくなったユウヤはエールを頼み、後はエールと刺身の往復運動を延々と繰り返す。
(こっちはヒラメ、これはタイ……ん?昆布締めにしてあるのか……この世界にも昆布締めがあるのか。これはアマダイかな……ああ、やっぱりそうだ。このモチモチした食感、たまらんなぁ……)
大量にあったはずの刺身が、見る見るうちになくなっていく。エールは既に5杯目だ。ただ生の魚を捌いて出すだけのシンプルな料理を、大将の目利きと仕事のレベルの高さとユウヤの刺身への渇望が、最高の逸品に変貌させていた。
「いい食いっぷりだな。まだ食うか?」
「そうだな。他の魚は何がある?」
「今日はもう残ってねぇな。刺身にできそうなのは……サンマが5尾くらいか。焼くならワタごと食えるが……」
大将が答えた瞬間、ユウヤがバン!とカウンターに手をついて立ち上がった。
「あるのか!? サンマ」
「な、何だいきなり……」
「全部くれ! 刺身でな」
「お、おぅ……」
大将はユウヤの態度に若干引きながらも、サンマを捌き始めた。
やはり大将の腕は大したもので、そのゴツゴツとした大きい手に似つかわしくなく、地味ながらも器用に、あっという間にサンマを捌いていく。
程なくしてユウヤの目の前に、大量の刺身となったサンマが乗った皿が置かれた。間髪入れずにユウヤは煎り酒をつけ、口の中に放り込む。ユウヤの口腔に、あの少し酸味のある、独特な味が広がった。
(ああ……これだ、この味だ)
前世のユウヤもサンマが好きであったが、元々それは焼きサンマのことであった。しかし、流通技術の発展のおかげか、刺身が出回るようになり、初めてサンマの刺身を食べてその味に衝撃を受けて以来、ユウヤの中ではサンマこそが最高の刺身という位置づけになってしまったのである。そう、タイでもヒラメでもマグロでも石鯛でもシマアジでもなく、サンマなのである。
(あ、そうだ、忘れてた)
それまでとは異なり、じっくりとサンマを味わっていたユウヤであったが、ふと『保管』で小瓶を取り出すと、小皿に少し開ける。細切りのショウガも輪切りのネギもちゃんと添えてあるのだが、やはりこれも必要だろう。
不審そうな顔になった大将が、ユウヤに声をかける。
「おい兄ちゃん、何だその、黒いのは」
「調味料だ。『醤油』という」
ユウヤは刺身を一切れ醤油につけて口に入れると満足そのものの表情になる。
「試してみるか?」
ユウヤは醤油を入れた小皿を大将に渡す。
大将は醤油にちょっとつけた小指を口に加え、暫く難しい表情を浮かべて吟味をする。
「……悪くは、ねぇな。魚醤に似てるが……臭みがねぇ」
「へぇ、魚醤を知ってるのか?」
「ああ、若いころにシェンノンに旅してな……ほら、その箸っていうのもシェンノンで知ったんだ。この店じゃ手づかみの奴も多いがな」
「あ、確かに、普通エピルスじゃ箸は使わないもんな」
「手を汚さずに食うにはいいんだが、使い方が難しいからな。……お前さんは器用に使ってるが、魔人族も箸を使うのか?」
「そういうわけじゃないんだけどな」
いつの間にやら、ユウヤの皿はきれいさっぱり空になっていた。エールは10杯ほど干しただろうか。
「出しといて言うのもなんなんだが……まぁ、よく食ったな」
大将が驚いたような、呆れたような表情になる。
「旨かったからな。いい店だ、また寄らせてもらうよ」
「おう。ところで、一ついいか?」
「何だよ」
「さっきの『醤油』だったか、うちにも置いてみたいんだが……高いのか?」
「まぁ、今のところそんなに普及してないし、安くはないかな。ただ……」
ユウヤは『保管』で小ぶりの樽を取り出す。
「旨いもんを食わせてくれた礼にこれを置いていくから、客の評判を聞いておいてくれ」
「おいおい、いいのか? 高いんだろ?」
「構わないぞ。ただ後日、色々頼むかもしれん。もちろん都度謝礼は払うつもりだし、無理なら断ってもいい。まぁこれはあいさつ代わりっていう所だ」
「……わかった。何でもとは言わんが、何かあったら言ってくれ」
こうして久々の味を存分に楽しんだユウヤは、店を後にしたのであった。もちろん、何時かこの味をインぺリアに広げたい、と思いながらである。




