第9話 「星の降る店」
奴隷たちと暮らし始めて、一ヶ月が経った。
最初は慌ただしかった生活も、少しずつ形になり始めている。
朝になると、誰かが先に起きている。
ハインが食堂を掃除していることもあれば、ロンが水を汲みに行っていることもある。ライリーが帳簿を広げている日もあった。
以前の店は静かだった。
良く言えば落ち着いていた。悪く言えば、人の気配がなかった。
今は違う。
朝から誰かの声が聞こえる。
食器の音がする。
笑い声も聞こえる。
それが少し不思議だった。
そして店の評判も、以前よりさらに良くなっていた。
一番大きく変わったのは接客だった。
エマが一人で店を切り盛りしていた頃は、どうしても手が足りなかった。
薬を調合している最中に客が来る。
相談を受けている最中に別の客が来る。
素材を整理している時に呼ばれる。
そのたびに作業を中断していた。
結果として待たせてしまうことも多かった。
今は違う。
「いらっしゃいませ」
店に入ってきた客へ、ハインが笑顔で声をかける。
「本日はどのようなご用件でしょうか」
柔らかい口調。
丁寧な態度。
しかも覚えが早い。
薬の知識はまだ勉強中だが、どの相談をエマに回すべきかの判断はかなりできるようになっていた。
「腰痛ですか。ではこちらへどうぞ」
「薬草茶のご相談ですね」
「少々お待ちください。エマさんをお呼びします」
店の流れが止まらない。
以前より明らかに客の回転が良くなった。
エマは作業場からその様子を見ながら思う。
(ハインさん、本当に向いていますね)
本人は人見知りだと言っていたが、接客になると別人のようだった。
素材の品質も安定した。
ロンとラドスティンのおかげだった。
カルヤライの森への採取は、以前は危険を避けるため外注することも多かった。
しかし今は違う。
護衛がいる。
しかも優秀な。
そのため鮮度の高い薬草を定期的に確保できるようになった。
ある日も採取から戻ったロンが、大きな籠を置いた。
「カルヤライです」
中を見る。
葉に傷がない。
色も良い。
香りも強い。
最高品質だった。
「すごいですね」
思わずそう言うと、ロンは少しだけ胸を張った。
「採る場所を変えました」
「場所?」
「人があまり入らない場所があります」
「そんな場所があったんですか」
「はい。ラドスティンと見つけました」
横にいたラドスティンが無言で頷く。
森を歩く能力。
危険察知能力。
採取技術。
そういったものは、長年生き残ってきた二人の方が上だった。
エマは薬草の価値は分かる。
しかし森そのものを読む力はない。
だから素直に感心した。
「ありがとうございます」
「当然です」
ロンが即答した。
最近よく聞く言葉だった。
そして何より大きかったのが帳簿だった。
店を閉めた後。
エマはライリーのまとめた帳簿を見ていた。
見やすい。
とにかく見やすい。
売上。
在庫。
仕入れ。
利益。
全部が一目で分かる。
数字が綺麗に整理されていた。
(……帳簿って、こんなに分かりやすいものだったの?)
本気でそう思った。
横にはエマ自身が付けていた過去の帳簿が置いてある。
比較してみる。
そして数秒後。
そっと閉じた。
「エマさんの帳簿ですか?」
「はい」
「どうでした?」
「……私、よくこれで経営していましたね」
ライリーが吹き出した。
「そこまでですか」
「そこまでです」
エマは真顔だった。
「全体像は合っています」
ライリーが帳簿をめくる。
「売上も利益も計算できています」
「なら問題ないのでは」
「問題は記録方法です」
ぴたりと指を止めた。
「ここです」
「どこですか」
「なぜ材料費を薬草の種類ごとではなく、気分で分けているんですか」
「気分ではありません」
「では何ですか」
「私なりの分類です」
「説明できますか」
「……できます」
「お願いします」
エマは説明した。
三分後。
ライリーは頭を抱えた。
「やっぱり独特ですね」
「そうですか」
「他人が見たら分かりません」
「他人に見せる予定がありませんでした」
「それが一人でやる限界です」
きっぱりと言われた。
エマは少し考える。
そして素直に頷いた。
「そうですね」
「認めるんですね」
「間違っていたら認めます」
「意外です」
「そうですか?」
「もっと頑固な人かと思っていました」
「頑固ですよ」
エマは即答した。
「でも合理的じゃない頑固さは嫌いです」
ライリーが少し笑った。
その言葉はエマらしかった。
夜。
店を閉めた後。
全員で食卓を囲んでいた。
ハインが今日の接客の話をしている。
ロンが採取の報告をしている。
ラドスティンは静かに聞いている。
ライリーが売上の話をしている。
その光景を見ながら、エマは少し考えた。
一ヶ月前。
この店には自分しかいなかった。
朝も夜も一人だった。
困った時も一人だった。
成功しても失敗しても一人だった。
それが当たり前だった。
誰かに頼ることもなかった。
頼れると思ったこともなかった。
でも今は違う。
接客はハインがいる。
採取はロンとラドスティンがいる。
帳簿はライリーがいる。
気づけば自分の知らないところで、みんなが店を支えていた。
以前より忙しいはずだった。
客も増えた。
仕事も増えた。
けれど不思議と楽だった。
むしろ余裕がある。
自分がやりたいことを考える時間すらできていた。
(……一人で全部やる必要はなかったんですね)
そんな当たり前のことを、今さら理解した。
食堂ではハインが何か失敗談を話していて、ロンが珍しく笑っている。
ラドスティンも少しだけ口元が緩んでいた。
ライリーは呆れた顔をしている。
賑やかな声が響く。
エマはその光景を見ながら、静かにお茶を飲んだ。
温かかった。
店の中も。
胸の奥も。
少しだけ。
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