第10話 「一人では知らなかったこと」
ハインが少し困ったような顔で作業場に顔を出した。
「エマさん、お客様なんですが……少し特殊なご依頼です」
「特殊ですか」
エマは調合していた薬瓶の蓋を閉めた。
「説明するより聞いた方が早いと思います」
「分かりました」
エマは手を洗って店先へ向かった。
応接席には三十代半ばほどの女性が座っていた。
黒髪を後ろでまとめた落ち着いた雰囲気の女性だったが、どこか元気がない。
エマが向かいに座ると、女性は小さく頭を下げた。
「初めまして」
「初めまして。今日はどうされましたか」
女性は少し迷うように視線を落とした。
そして静かに口を開く。
「飼っていた犬が亡くなったんです」
その一言で、エマは大体の事情を理解した。
「先月、老衰で」
女性は膝の上で手を握った。
「十五年、一緒にいました」
十五年。
犬としては長生きだ。
それだけ長い時間を共に過ごしたのなら、家族と言ってもいい。
「最後は眠るように逝きました。苦しまずに。でも……」
女性は少し笑った。
泣きそうな顔で。
「家に帰ると、まだいる気がするんです」
エマは何も言わず続きを待った。
「玄関を開けると走って来そうで」
「……」
「夜になると寝床を見てしまうんです」
女性の目が少し潤んだ。
「もういないのに」
しばらく沈黙が落ちた。
やがて女性が言う。
「形見が欲しいんです」
「形見」
「その子がいた証を残したくて」
エマは少し考えた。
普通なら人形師に頼む依頼だろう。
だが自分にできることもある。
「その子に似せた人形なら作れます」
女性が顔を上げた。
「本当に?」
「はい」
エマは頷いた。
「さらに記憶魔法を使えば、鳴き声を保存できます」
「鳴き声……?」
「触れると、その子の声が聞こえるようにできます」
女性の目が大きくなった。
「そんなことが……」
「できます」
エマは静かに言った。
「ですから、その子のことを教えてください」
そこから一時間以上。
女性は犬の話をした。
名前はレオン。
黒い毛並みの大型犬。
食べることが大好きで、特に焼いた肉の匂いに弱かったこと。
雨の日でも散歩に行きたがったこと。
主人の帰宅時間になると必ず玄関で待っていたこと。
雷が苦手だったこと。
子供には優しかったこと。
寝る時はいつも右を下にして丸くなったこと。
年を取ってからは階段を嫌がったこと。
どんな風に尻尾を振ったか。
どんな風に甘えたか。
どんな声で鳴いたか。
女性は次から次へと話した。
エマは黙って聞いた。
途中でハインがお茶を注ぎ足す。
女性は気付いていない。
思い出を話すことに夢中だった。
やがて女性がはっとしたように顔を上げた。
「ごめんなさい」
「何がですか」
「依頼より思い出話ばかり」
エマは首を振った。
「大丈夫です」
「でも……」
「その子を知らなければ作れません」
女性は少し目を見開いた。
エマは続ける。
「どんな姿だったかだけじゃなくて、どんな子だったかも知りたいんです」
女性の目から涙が一筋零れた。
「ありがとうございます」
小さな声だった。
依頼が終わり、女性が帰った後。
ハインがお茶を片付けながら言った。
「エマさん、優しいですね」
「そうですか?」
「普通の職人ならもっと早く話を切り上げてます」
エマは少し考えた。
「でも、あの人は話したかったんだと思います」
「話したかった?」
「レオンのことを」
ハインは少し黙った。
「そうかもしれませんね」
「忘れたくなかったんでしょう」
エマはそう言った。
自分も母のことを忘れたくないと思うことがある。
だから少しだけ分かった。
数日後。
今度は夫婦が訪れた。
四十代ほどの夫と、少し若い妻。
妻のお腹は大きく膨らんでいる。
妊娠後期なのだろう。
二人とも酷く緊張していた。
席に着いてからも、夫は何度も手を握り直している。
「どうされましたか」
エマが聞くと、夫が口を開いた。
「医師に言われたんです」
声が重かった。
「妻の目の病気が悪化していると」
妻は俯いている。
「出産まで手術はできません」
「……」
「その間に片目の視力を失う可能性があるそうです」
静かな部屋だった。
妻が震える声で言った。
「もし悪化したら」
その先が続かない。
夫が代わりに言った。
「生まれてくる子供の顔を見られないかもしれない」
エマは二人を見た。
恐怖だった。
病気への恐怖。
出産への不安。
未来への不安。
全部が混ざっている。
「大丈夫です」
エマはすぐに言った。
二人が顔を上げた。
「視力低下を抑える薬があります」
「……本当に?」
妻の声が震えた。
「妊婦の方でも使える成分で作れます」
「失明しませんか」
「出産までの間なら十分維持できます」
夫婦の顔から力が抜けた。
今にも泣き出しそうだった。
「ありがとうございます」
夫が深く頭を下げる。
「まだ早いです」
エマは少し笑った。
「薬が完成してからにしてください」
その夜。
夕食後。
珍しくライリーが帳簿を見ながら言った。
「今日のご夫婦ですが」
「はい」
「あれ、利益率だけ考えたら赤字ですよね」
食堂が静かになった。
ハインが少し慌てる。
「ライリーさん」
「事実です」
ライリーは真顔だった。
エマは答える。
「そうですね」
「認めるんですか」
「事実なので」
ライリーは少し肩を竦めた。
「普通はもっと取ります」
「払えなさそうでした」
「だから安くした」
「はい」
ライリーは帳簿を閉じた。
「ですが不思議なんですよね」
「何がですか」
「それで店が回っていることです」
エマは首を傾げた。
ライリーは続ける。
「常連率が異常に高い」
「そうなんですか」
「紹介率も高い」
「そうなんですか」
「口コミも増えている」
「そうなんですか」
「全部把握してないんですか」
呆れたような声だった。
ハインが吹き出した。
ロンも少し笑っている。
「エマさんらしいですね」
ハインが言う。
「私は薬を作っているだけです」
「それだけじゃないですよ」
ロンが静かに言った。
「助けられた人は覚えています」
食堂が少し静かになった。
ライリーも頷いた。
「結局、そういうことなんでしょうね」
「?」
「困っている人を助ける」
ライリーは少し笑った。
「経営としては非効率です」
「そうですか」
「ですが、だから繁盛している」
エマは少し考えた。
よく分からなかった。
ただ。
困っている人を助けたいと思うのは本心だった。
それで店が続いているなら、悪いことではないのだろう。
食後のお茶を飲みながら、エマは四人の顔を見た。
人を信用できないと思っていた。
今も完全には信用していない。
それでも。
こうして同じ食卓を囲み、笑う時間は嫌いではなかった。
むしろ最近は少しだけ――好きになっている気がした。




