第5話 「レンタル奴隷制度」
翌日の夕暮れ時。私はカウンターに突っ伏し、昨日と同じように終わりの見えない数字の羅列と格闘していた。
視界が時折チカチカと明滅する。脳が「これ以上は無理だ」と警報を鳴らしているが、指先は重い鉄の棒でも動かすかのように、ゆっくりとしか動かない。
「お疲れ様です、魔女さま。……おっと、今日は一段と真っ白だ。幽霊が店番をしているのかと思いましたよ」
軽快なベルの音と共に現れたのは、馴染みの顔だった。
王都でも最大手の『アルドス奴隷商』で支店長を務めるリアムさんだ。彼は三十代で、明るくて仕事熱心な男性だ。近くの奴隷商アルドスの王都支店の店長をしている。エマの店の常連で、奴隷商で取り扱う薬品はほとんどここで購入している。
それだけでなく、彼自身も何かと用を見つけてはふらりとやってくる。
「……リアムさん」
「いつもの二本、買いに来ました。……それと、今日は提案がありまして」
「また何か変なもの持ち込もうとしてます?」
「変なものじゃないですよ! 真面目な話です」リアムは少しむっとしながらも、すぐ笑顔に戻った。「うちの店、王都支店でもレンタルサービスを始めたんです」
「レンタル?」
「奴隷の一時貸し出しです。今まで地方店だけでやってたんですけど、王都でも需要があると判断して。素材採取とか、護衛とか、家事手伝いとか、短期間だけお願いしたいっていうお客様に、うちの奴隷を貸し出すんです」
リアムさんはカウンターに丁寧に代金を置くと、私の顔をじっと覗き込んだ。その瞳には、単なる常連客としての社交辞令ではない、真剣な懸念が混じっている。
「エマさん。あなたの腕は一流、価格は適正。……ですが、経営者としては危うすぎます。いい加減、限界でしょう?」
「……そんなことないわ。私は、一人で大丈夫」
「大丈夫なわけないでしょう。昨夜も不届き者が入ったと聞きましたよ。結界で追い出したそうですが、いつか寝首を掻かれるかもしれない。それに、その書類の山。あなたの本業は、帳簿付けではなく調合のはずだ」
言い返そうとして、私は口を閉ざした。反論する気力さえ、今の私には残っていなかった。
そして、エマは少し考えた。
「奴隷、ですか」
「ええ。エマさん、一人でやるのが大変そうって、ご近所の方々からも聞いてますよ。採取にも行けてないでしょう?」
「……採取は、ギルドにも依頼してます」
「でも品質が安定しないって以前おっしゃってましたよね。自分で採取するのが一番いいって。それに、夜間の防犯も心配だって、ギルドマスターが」
余計なことを言ってくれたものだ、とエマは思う。しかし嘘ではないから、反論もできない。
「奴隷なら、契約がある。情報漏洩もない。裏切れない、ということですか」
「そうです。もちろんうちはきちんとした商売をしていますから、乱暴な扱いをされるのは困りますが、エマさんなら大丈夫でしょう。一度、試してみる気はありませんか?」
エマは少し黙った。
人間は信用できない。だが奴隷には契約がある。契約は法律で守られている。それは――信用できる、のだろうか。
(裏切れない仕組みがある。それなら……)
「……分かりました。一度、見に行きます」
リアムが明るい顔になった。
「良かった! では明後日の午後、いかがでしょう」
***
その夜、エマは二階の作業場で、いつもより少し早めに手を止めた。
窓から夜空を見る。王都の空は明るくて、星はあまり見えない。それでも雲の切れ間から、いくつかの星が見える。
(お母さんは、星が好きだったな)
ふと、そんなことを思う。今もたまに、何かの拍子に母のことを思い出す。栗色の髪に、こちらと同じ不思議な色の瞳。優しい声。いつもエマを「グラシア」と呼んでいた。
グラシアーヌ。それが、エマの本当の名前だった。今は誰も知らない。知る必要もない。
エマは窓を閉め、作業場の灯明を落とした。
明後日、奴隷商に行く。どんな人間がいるのだろう。どんな事情を持った人たちが、あそこにいるのだろう。
少しだけ、気になった。
ほんの少し、だけれど。
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