第48話 「グラシアーヌ・アベラール」
王宮大広間は、水を打ったように静まり返っていた。
数百年ぶりに新たな領域が認定され、その創設者である銀星の魔女エマが壇上に立つ。
祝福と賞賛に包まれるはずだった式典は、彼女の次の一言を待つように、息を潜めていた。
エマは認定証を胸の前で静かに抱き、ゆっくりと会場を見渡した。
国王。
王族。
名だたる貴族たち。
宮廷魔術師。
騎士団。
衛兵隊。
そして、一番後方。
アベラール伯爵夫妻の姿もあった。
父は真っ直ぐ前を向いている。
その隣には後妻。
さらにその隣には、自分の名を名乗り続けてきた少女。
エマは小さく息を吸った。
「最後に、一つだけお願いがあります。」
よく通る声だった。
「私は今日、この領域の創設者としてここへ立っています。
ですが、それ以前に。
皆様へ名乗らなければならない、本当の名前があります。」
広間の空気が張り詰める。
エマは一歩前へ出た。
「私の本名は――」
わずかな間。
「グラシアーヌ・アベラールです。」
その名が響いた瞬間だった。
ざわめきが、大広間を駆け抜けた。
「……アベラール?」
「今、何と言った?」
「グラシアーヌ……?」
「アベラール伯爵家の令嬢の名では……。」
貴族たちが互いの顔を見合わせる。
アベラール伯爵の顔色が変わる。
後妻の指先が震えた。
それでもエマは続けた。
「私は、生まれた時からアベラール伯爵家の唯一の令嬢です。
アベラール家の血は、母から受け継ぎました。」
国王がわずかに眉を寄せる。
エマは静かに言葉を重ねる。
「アベラール家は、母の家でした。
代々続く当主家であり、母エマリーン・アベラールが唯一の継承者でした。」
広間のあちこちから息を呑む音が聞こえる。
「父は、その家へ婿養子として迎えられました。」
伯爵の肩がぴくりと震えた。
「私が生まれた時から、家督を継ぐ者は私一人でした。兄も妹もいません。
最初から、後継者は私だけでした。」
その一言が、貴族たちの認識を覆した。
彼らは、「姉妹のどちらが本物か」という話だと思っていた。
違う。
最初から、グラシアーヌ・アベラールは一人しか存在しなかったのだ。
「八歳の時、母が亡くなりました。」
エマの声は穏やかだった。
「その直後、祖父が亡くなりました。続いて祖母も亡くなりました。」
静寂。
「いずれも突然でした。」
誰も口を挟まない。
「その後、屋敷の使用人は次々に入れ替えられました。
家令も。侍女も。家庭教師も。
私を知る人は、一人ずつ屋敷から姿を消しました。」
会場の空気が重くなる。
「やがて。
女性と少女が家に住むようになりました。
私は、いなかったことになりました。」
誰かが小さく息を呑む。
「私の部屋は別の少女の部屋となり。
私の名前は、その少女の名前になりました。
私が受けるはずだった教育も。
私が継ぐはずだった家督も。
私が生きるはずだった人生も。
すべて、その子へ渡されました。」
その少女は俯いたままだった。
エマは責めるような目では見ない。
ただ事実だけを語る。
「母は亡くなる前、多くの方へ手紙を書きました。
私のことを、どうかお願いします、と。
何かあれば娘を守ってください、と。」
その言葉に、ヴィアンが静かに目を閉じた。
エマは続ける。
「王家へ。
騎士団へ。
親交のあった貴族家へ。
魔術師協会へ。
母は、できる限りの人へ助けを求めていました。」
広間が静まり返る。
「けれど。」
エマはゆっくりと首を横へ振る。
「誰も来ませんでした。」
その一言は、責める口調ではなかった。
だからこそ重かった。
「祖父母の死も。私の失踪も。当主家の唯一の継承者が突然消えたことも。誰も調べませんでした。」
国王の表情が固くなる。
「誰か一人でも。不自然だと思ってくださっていたら。
誰か一人でも。屋敷を訪ねてくださっていたら。
誰か一人でも。母との約束を思い出してくださっていたら。」
エマは静かに微笑んだ。
「母が誰にも裏切られていなかったと思えたと思います。そして私は今も、グラシアーヌ・アベラールとして生きていたかもしれません。」
その微笑みが、何よりも痛々しかった。
涙ではない。
怒りでもない。
諦めでもない。
ただ、もしもの未来を語る微笑みだった。
会場の誰も、目を逸らすことができなかった。
エマは胸に抱いた認定証へそっと視線を落とす。
「私は、今日。この領域を宣言するために、この場へ参りました。
誰かを裁くためではありません。復讐を果たすためでもありません。」
ゆっくりと顔を上げる。
スカイブルーにもミッドナイトブルーにも見える瞳が、広間の全員を真っ直ぐ見据えた。
「ただ、母の思いを。私という人間がこの国に確かに存在していたこと。
そして、その少女の人生が、静かに奪われたこと。
その事実だけを、この国の歴史へ残していただきたかったのです。」
その言葉が終わると同時に、大広間は完全な静寂に包まれた。
誰一人、言葉を発することができなかった。
その沈黙こそが、この告白の重さを物語っていた。




