第32話 「十八歳の誕生日」
冬の終わりに、エマは十八歳になった。
誕生日を誰かに祝われる経験は、エマにはほとんどなかった。
母が生きていた頃は毎年小さなお祝いをしてくれた。高価なものではない。焼き菓子だったり、少しだけ良いお茶だったり、それだけだ。
それでも母は毎年言った。
「生まれてきてくれてありがとう」
エマは当時、その言葉の意味をよく分かっていなかった。
母が死んでからは、誕生日を祝われることはなくなった。
伯爵家で誰かがエマの誕生日を気にしたことはない。
いつ生まれたのか。
何歳になったのか。
そんなことを知ろうとする人もいなかった。
だから今年も、特に何かが起きるとは思っていなかった。
***
その朝、目が覚めた時から少し違和感があった。
いつもなら聞こえる物音が少ない。
ライリーが帳簿を開く音も、ハインが朝食の準備をする音も聞こえない。
エマは首を傾げながら着替えを済ませ、階段を降りた。
すると、食堂の方から何か甘い香りがした。
(……珍しい)
足を向ける。
扉の前まで来ると、誰かが慌てるような小さな音が聞こえた気がした。
エマは気にせず扉を開いた。
***
食堂には全員がいた。
テーブルの上には料理が並んでいる。
パン。
スープ。
卵料理。
いつもより少し豪華な朝食。
そして中央には、大きな丸いケーキが置かれていた。
エマは数秒ほど何も言わなかった。
全員も何も言わない。
妙な沈黙だった。
最初に口を開いたのはエマだった。
「……何ですか、これは」
ライリーが咳払いを一つした。
「誕生日のお祝いです」
「誕生日」
「はい」
「誰のですか」
ライリーが少しだけ眉を動かした。
「エマさんのです」
ハインが吹き出した。
ロンも口元を押さえている。
ラドスティンだけは真顔だったが、肩が少し揺れていた。
エマは数秒考えてから言った。
「そうでした」
「忘れていたんですか」
「少し」
正直に答えると、全員が何とも言えない顔になった。
「誰から聞いたんですか」
「リアムさんです」
ライリーが答えた。
「なるほど」
「問題でしたか」
「いいえ」
エマは首を横に振った。
問題ではない。
ただ少しだけ、驚いている。
自分の誕生日を覚えていてくれる人がいることに。
***
「怒りましたか?」
ハインが恐る恐る聞いた。
「怒っていません」
「嬉しくないですか?」
エマは少し考えた。
嬉しい。
でも、その言葉を口にするのが少し照れくさい。
全員がこちらを見ている。
期待しているのが分かる。
だからエマは小さく息を吐いた。
「……嬉しいです」
その瞬間。
ハインの顔がぱっと明るくなった。
「良かった!」
ロンも少し笑った。
ラドスティンも口元がわずかに緩んでいる。
ライリーだけは平静を装っていたが、どこか安心したようだった。
「ケーキはライリーさんが焼いたんですよ!」
「……ライリーさんが?」
「マーサさんのレシピを参考にして。うまくできたかは分かりませんが」
ライリーが少し早口で答えた。
エマはケーキを見た。
少しだけ形が歪んでいる。
店で売るなら失格かもしれない。
でも、不思議と綺麗に見えた。
誰かが自分のために作ったものだからだろう。
「切りますね」
ナイフを手に取る。
全員分を均等に切り分ける。
自然とそうしていた。
母もそうしていた気がする。
昔の食卓の記憶が少しだけ蘇る。
あの頃は二人だった。
今は六人いる。
人数は増えたのに、不思議と寂しさは減っていた。
***
食事をしながら、エマは窓の外を見た。
冬の終わりの柔らかな光が差し込んでいる。
暖かな匂い。
誰かの笑い声。
食器の触れ合う音。
(十八歳、か)
八歳で母を亡くした。
十四歳で冒険者になった。
十五歳で家を出た。
十六歳で店を持った。
そして十八歳。
昔の自分に言っても信じないだろう。
こんな朝が来ると。
こんな食卓があると。
こんな人たちが隣にいると。
「ありがとうございます」
エマは言った。
全員に向かって。
ロンが言う。
「当然です」
ハインが言う。
「おめでとうございます!」
ラドスティンが言う。
「おめでとう」
ライリーも少し微笑んだ。
「十八歳ですね」
エマは一人ずつ顔を見た。
朝日が差し込んでいる。
温かいケーキの匂いがする。
誰も急かさない。
誰も奪わない。
ただ一緒に食卓を囲んでいる。
(これが家族、なのかな)
まだよく分からない。
でも。
その言葉は少しだけ温かかった。
エマは小さく微笑んだ。
その日の朝は、いつもより少しだけ長く続いた。




