第17話 「初めてのルズマイスの森」
エマが初めてルズマイスの森に足を踏み入れたのは、奴隷たちと暮らし始めて八ヶ月が経った頃だった。
ルズマイスの森は、カルヤライの森とは比べ物にならないほど深く、危険な場所だ。魔素の濃度が高く、高位の魔物が生息している。並の冒険者が入れば戻ってこれないことも珍しくない。一方で、ここにしかない希少な薬草や素材が多く、錬金術師や薬師には宝の山でもある。
ロンとラドスティンは、計画を聞いた時に揃って眉を上げた。
「……ルズマイスに、エマさんも行くんですか」
「ええ。私が採取場所を判断しなければならないので」
「危険です」とロンが真剣な声で言った。「あそこは上位の冒険者でも苦戦する」
「ロンさんとラドスティンさんがいれば大丈夫でしょう」
「問題は魔物だけではなく、魔素の濃度です。一般人が長時間いると、体に影響が出る」
「私は魔法使いです。魔素が濃い場所は問題になりにくい」
それは事実だった。魔法使いや魔女は、魔素を扱う能力があるため、濃い魔素の環境でも通常の人間より影響を受けにくい。特に銀星以上になると、その耐性は顕著になる。
ロンは渋い顔をしたが、最終的には頷いた。
「……分かりました。ただし、条件があります。エマさんは必ず俺かラドの視界内にいること。勝手に単独行動をしないこと」
「分かりました」
「本当に分かっているんですか、エマさん」
「分かっています。何ですか、その目は」
「エマさんは、大丈夫だと思うとすぐ突っ込んでいくので……」
(そんなに思われているのか、私は)
エマは少し苦笑した。度胸があると自認しているが、無謀だとは思っていない。ただ周りからはそう見えているらしい。
***
出発したのは早朝だった。
ロン、ラドスティン、エマの三人で馬車に乗り、カルヤライを越えてさらに奥へと向かった。ライリーとハインは王都で留守番だ。
馬車を降りて、森の入口に立った時、エマは少し息を吸った。
すぐに分かった。空気が違う。魔素が濃い。周りの草木が、普通の森とは違う色をしている。少し青みがかった緑、あるいは銀色に光るような白。それが魔素が染みた植物の特徴だ。
(……これは、素晴らしい)
エマは思わず口元が緩んだ。魔素が濃い場所は、彼女にとって不快ではなく、むしろ心地よかった。何か懐かしい感覚すらある。
「エマさん」
ロンが低い声で言った。
「……にやにやしていますよ」
「していません」
「していました」
ラドスティンが短く頷いた。二対一だ。エマは少し咳払いをして、表情を引き締めた。
「では、行きましょう」
***
森の中は、想像以上に美しかった。
魔素が可視化されている場所がいくつかあり、それが薄青い光のように漂っている。木の根元に苔が生え、その苔も淡い光を帯びている。普通の森にはない静けさがある。魔物の音さえ、どこか違う。
エマは夢中で採取した。ルズマイスにしかない薬草、魔素が染みた根、特殊な菌類。全部が欲しかった。
ロンとラドスティンが左右を警戒しながら、エマに続く。
二時間ほど採取を続けた頃、ラドスティンが素早く動いた。
背後から何かが来ていた。エマには分からなかったが、ラドスティンの耳はそれを捉えていた。剣を抜いた瞬間、木の間から大型の魔物が現れた。
熊に似た外見だが、全身に棘のような突起がある。ロンがすぐに動いた。
(ロンさんが、力を使っている!)
ロンの全身から、獣人特有のオーラが漏れ出た。体が一回り大きくなるように見えた。人間の時には隠れている、獣人の力が表に出ている。
エマはそれを見て、思わず目を丸くした。
(綺麗だ)
それが最初の感想だった。畏怖ではなく、美しさを感じた。ロンの力が、この魔素の濃い森の中で輝いているように見えた。
ラドスティンとロンが連携して、魔物を追い払った。大きな音が響き、魔物は森の奥に逃げていった。
二人が振り返ると、エマがそこに立って、目を輝かせていた。
「……すごかったです」
「……怖くなかったですか」
「怖くはなかったです。二人が強いので」
ロンが少し呆れた顔をした。普通の反応ではない。ただエマは本当に怖くなかった。二人が隣にいるという事実が、それだけ大きかった。
「それと、ロンさんの力……綺麗でした」
「……綺麗?」
「獣人の力が出た時の。見とれてしまいました」
ロンは少し間を置いた。その顔が、わずかに赤くなったように見えた。
「……隠している人が多いのに、そんなふうに言う人がいるとは」
「なぜ隠すんですか。美しいのに」
「差別されるからです」
「……そうですね。それは理不尽だと思います」
エマは静かに言った。ロンは少し黙って、それから言った。
「……エマさんにそう言ってもらえると、少し気が楽です」
(ロンさんも、ずっと隠してきたんだ。自分の一部を)
エマはそれ以上は言わなかった。ただ、ロンが少し軽くなったことが分かった。それで十分だった。
***
採取の終わりに、エマは奇妙な場所を見つけた。
森の奥のやや開けた場所。そこだけ魔素が特に濃く、地面から薄い光が漏れている。まるで地面の下に何かがある、そういう感じだ。
エマは立ち止まった。
(これは……)
魔素が、自分に向かってくるような感覚。引き寄せられるような。
手を地面に近づけてみた。すると、地面から漏れる光がほんの少し動いた気がした。エマの手に向かって。
「エマさん、何をしているんですか」
ラドスティンが声をかけた。
「……この場所、魔素が特別に濃いんです」
エマは少しの間その感覚を確かめた後、立ち上がった。
「帰りましょう。十分採取できました」
ロンとラドスティンがほっとした顔をした。
帰り道、エマの荷物は一杯だった。ロンとラドスティンも荷物を持ってくれている。馬車に乗り込んで、王都への道を戻りながら、エマはさっきの感覚を頭の中で反芻した。
(あれは……)
***
王都に戻ると、ライリーとハインが出迎えた。
ハインがエマの荷物を受け取り、素材の多さに目を丸くした。
「すごい量ですね……これ全部、ルズマイスで?」
「そうです。見てください、これ。シルバーフェンの生葉。カルヤライでは手に入らない素材です」
「……銀色の葉っぱだ。綺麗ですね」
「魔素が高い場所でしか生えない。これで作れるポーションの種類が増えます」
エマが嬉しそうに話すのを見て、ハインも笑った。
ライリーは帰ってきたロンを見て、少し眉を上げた。
「何か問題がありましたか」
「少し。大きな魔物に遭遇した」
「エマさんは大丈夫でしたか」
「……怖くなかった、と言っていた」
ライリーが天井を見上げた。
「そうですか。まあ、そうですよね。エマさんですから」
「俺は、もう少し怖がってほしかったが」
「怖がっていないのではなく、信頼しているんだと思いますよ、ロンさんのことを」
ロンは少し黙った。ライリーの言葉は軽いが、的確なことが多い。
(信頼……エマさんが、俺を)
ロンはそれを素直に受け取るのが、少し怖かった。裏切られた経験があるから。しかし、エマが「綺麗だった」と言った時の顔を思い出すと、それが怖れではなく、別の何かになっていく。
(…………まあ、もう少し経ったら、考えよう)
ロンは自分の気持ちを棚上げにして、荷物の整理を手伝い始めた。
***
その夜の食事は、いつもより少し賑やかだった。
ルズマイスの話をしていると、ライリーが珍しく饒舌になった。
「シルバーフェンが手に入ったんですか。それなら、以前エマさんが作れなかった複合ポーションが作れるじゃないですか」
「そうです。それが一番嬉しいところで」
「複合ポーションって何ですか」とハインが聞いた。
「傷の回復と体力の回復を同時にやる薬です。単独のポーションを重ねて飲むより効果が安定する。でも材料が難しくて……シルバーフェンが必須素材の一つだったんです」
「それが作れたら、また評判が上がりますね」
「そうですね。値段はそれなりにしますが」
「取れる人から取る方針ですから、問題ないでしょう」
ライリーが軽く言い、エマも軽く笑った。
ラドスティンが静かに言った。
「今日、エマが採取をしている時……楽しそうだった」
全員がラドスティンを見た。普段あまり感想を言わない人だから。
「良いことだと思う。楽しいのは」
エマは少し笑った。
「楽しかったです。また行きたいです」
「……次も、一緒に行く」
ラドスティンの言葉は短いが、その中に宣言のような確固たるものがあった。エマはそれを聞いて、少し胸が温まった。
(一緒に行くと言ってくれる人が、いる)
それが当たり前になっていることに、エマはまだ少し驚いている。慣れていないのだ。誰かが自分のそばに、積極的にいようとすることに。
でも、悪くない。
エマはその気持ちを、胸の中に静かにしまった。




