第16話 「灰銀の魔女」
半年が経つ頃、エマの店は王都でも指折りの魔法道具・薬品店として広く認知されるようになっていた。
噂は王都の外にも広がり始めていた。他国の商人が取引を求めてくることも増え、遠方の都市から品物を郵便で注文する客も出てきた。
二つ名も増えていた。「宵星の魔女」と呼ぶ者は最初から多かったが、今では「星喰いの魔女」と呼ぶ声もある。理由は定かではないが、エマが扱う薬品の質が群を抜いており、他の魔術師の仕事を食ってしまうからだという説もある。また「灰銀の魔女」と呼ぶ者もいた。これはエマが常に地味な灰色がかった作業着を好んで着ていること、そして銀星であることから来ているらしい。
「二つ名が増えましたよ」とライリーが帳簿を整理しながら言った。
「どれが一番多いですか」
「宵星の魔女が一番定着しています。次いで灰銀の魔女。星喰いの魔女は……少し怖いですね」
「私は星を喰っていませんよ」
「エマさんがどう思うかは関係なく、世間がそう呼ぶんです」
エマは少しだけ眉を上げた。
(星喰い、か。まあ、呼びたければ呼べばいいけれど)
エマには、二つ名への執着がない。名前というものに、元々執着がないのだ。理由は、自分でも分かっている。今はその理由を深く考えないようにしている。
***
問題が起きたのは、その翌月のことだった。
夜半過ぎ、エマが作業をしていると、一階から音がした。結界の警報ではなく、もっと小さな音。鍵をこじ開けようとしている音だ。
エマは一瞬で作業を止め、魔素を手に集めた。
しかしその前に、一階で激しい音がした。続いて、聞き覚えのある声がした。ロンの声だ。
エマが急いで一階に降りると、扉の前にロンとラドスティンが立っていた。外には三人の男がいる。うちの一人は腕を抑えて蹲っている。もう一人は逃げようとしている。
「エマさん、大丈夫ですか」
「私は大丈夫です。あなたたちが先に気付いていたんですか」
「見張りをしていました」とラドスティンが静かに言った。「最近、不審な影があったので。今夜は来ると思っていた」
「……言ってくれれば良かったのに」
「エマさんを心配させたくなかったので」
エマは少し複雑な顔をした。心配させたくないという気遣いは、ありがたい。ありがたいのだが、報告してほしかった気もする。
ひとまず、取り押さえた男たちを衛兵に引き渡す手続きをした。ライリーが記録を取り、ハインが衛兵を呼びに行った。
衛兵が来て、男たちを連れていった後、エマは全員を集めた。
「ありがとうございます。助かりました」
素直に礼を言った。ロンもラドスティンも少し照れたような顔をした。
「でも次からは、事前に報告してください。私も一緒に考えたい」
「……分かりました」
「エマさんを守るのが俺たちの仕事ですが」とロンが少し言い訳するように言った。「エマさんの意見も大事ですね」
「そうです。報告してもらえると、私も安心できるので」
(安心、か。私が誰かに安心を求めるとは、以前なら思わなかったな)
エマは内心そう思ったが、言葉には出さなかった。
***
強盗事件の翌週、別のトラブルが持ち込まれた。
午前中に来たのは、四十代の商人風の男性だった。顔に脂が光っていて、目が落ち着かない。
「魔女さん、少し話を聞いてほしい」
「どうぞ」
「実は……この近くで薬品店をしている者なんですが。魔女さんの店が繁盛しているせいで、うちの客が減っているんですよ。同業者として、少し話し合いたいことがあって」
エマはすぐに察した。競合の店が、圧力をかけに来た。
「何を話し合いたいですか」
「商品の価格帯を合わせていただきたいんです。魔女さんの値段が安すぎて……」
「私は安く売っているわけではありません。適正価格で売っています」
「でも……うちは生活があって」
「それは、あなたの経営の問題です。私がそれに合わせて値段を上げる義務はありません」
男性は少し顔を赤くした。
「こちらを潰すつもりですか」
「潰すつもりなど全くありません。私はただ自分の店を普通に経営しているだけです。それの影響を受けるかどうかは、他の店の問題です」
「……これ以上客を取られると、困る」
「それは申し訳ないですが、私にはどうしようもありません」
男性は何か言いかけて、止まった。エマの声に怒りも同情もなく、ただ静かな確信があるのを感じ取ったのかもしれない。
男性は結局、何も言わずに帰っていった。
(また来るかもしれない。もっと手段を変えて)
エマは少し警戒心を上げた。商人の圧力は、強盗より面倒なことがある。なぜなら、対処が複雑になるから。
***
案の定、翌週には別の形で問題が来た。
エマの店の噂が王宮の貴族の間に広まり、「魔女の店は法外な値段を取っている」という悪評が流されていると、常連の商人が教えてくれた。
「どこの誰がそんなことを?」
「はっきりとは分からないですが、エコ商会と繋がりのある貴族方面からという話で……」
エコ商会は、王都最大の薬品・魔法道具の商会だ。エマの店が伸びることで、一番損をしている大手。
(なるほど。そういう手段できたか)
エマはしばらく考えた。
悪評を流すなら、実績で上書きするしかない。魔術師教会に証明書を発行してもらうか。あるいは、貴族顧客を増やして当事者から評判を守るか。
「ライリーさん、今の顧客の中で、貴族のお客様は何名いますか」
「五名です。使用人を通じて購入されている方が三名、直接いらっしゃる方が二名」
「そのお客様には、今後も変わらず良いものを提供します。それと、魔術師教会に品質証明書の発行をお願いしたいと思います。申請しておいてください」
「了解です。それと、もう一つ提案があります」
ライリーが少し表情を引き締めた。
「悪評を流した相手には、法的な対抗手段もあります。名誉毀損として、教会または王国の法廷に訴えることができます。もちろん証拠が必要ですが……今後、証拠を集めておくことを勧めます」
エマは少し驚いた。
(ライリーさん、そういうことも知っているのか)
「……詳しいですね、法律のことが」
「冤罪で奴隷になりましたからね。自分が法律で守られなかったので、逆に詳しくなりました」
ライリーが軽い口調で言ったが、その言葉の重さに、エマは少し黙った。
(冤罪で奴隷になった……法律で守られなかった。それは、私と似ている)
エマも、法律が機能しなかった場所から来ている。祖父母の死も、名前を奪われたことも、法律では守られなかった。だから法律を信用していない。
でも、ライリーは法律を利用することを覚えた。使えるものは使う、という発想。それはエマにはなかった視点だった。
「分かりました。証拠を集めておきます。ライリーさん、手伝ってもらえますか」
「もちろんです」
ライリーが少し笑った。その笑みには、珍しく素直な温かさがあった。
***
結果として、悪評の件は思いの外早く収まった。
エマの貴族顧客の一人が、エコ商会と対立関係にある商家の令嬢だった。その令嬢が「魔女の店の品質は素晴らしい、悪評を流しているのは妬みだ」と貴族の社交の場で公言してくれたのだ。
エマはそれを後から知った。
「……私は何もしていないのに、助けてもらえたんですか」
「信用されている客がいれば、そういうことが起きます」とライリーが言った。「エマさんが普段から誠実に商売をしていたからです」
「……そういうものですか」
「そういうものです。人間不信のエマさんには、少し意外かもしれませんが」
エマはその言葉に、少し反応した。
「人間不信、というのを、分かっていたんですか」
「最初から。でも、それがエマさんの本質ではないとも思っています」
「……どういう意味ですか」
「人を信用できないのに、困っている人には手を貸す。法外な値段を取れるのに、払えない人には融通する。奴隷を雇っておいて、十年後に解放すると言う。矛盾だらけですよ、エマさんは」
エマは少し黙った。
「……矛盾している自覚はあります」
「矛盾しているのが、エマさんです」
ライリーは笑いながら言ったが、その言い方は批判ではなかった。むしろ、温かさがあった。
(矛盾している、か。そうだな……誰も信用できないのに、信用してほしいと思う。それが本当のところかもしれない)
***
その月の終わり近く、ヴラトコという街から手紙が届いた。
差出人の名を見て、エマは少し目を細めた。
(ラキア……久しぶりだな)
ラキアは、エマが王立図書館に通っていた頃に知り合った魔術師だった。当時エマは十二歳、ラキアは二十代だった。図書館で錬金術の本を探していると、偶然探していた本が同じで、そこから話すようになった。
ラキアはエマの素質を見抜いて、独学で学んでいるなら師匠を紹介すると言ったことがあった。エマは断った。誰かに師事することへの抵抗があったからだ。ただ、図書館で会うたびに情報交換をする仲ではあった。
エマが伯爵家を出た後は、連絡先を知らせた数少ない人の一人だ。
手紙の内容は、久しぶりの近況報告だった。ヴラトコで薬草研究をしていること、珍しい素材が手に入ったので興味があれば分けること。そして、エマの噂がここまで届いていること。
「……ラキアさんが噂を聞いていたか」
エマは少し苦笑した。王都の外にまで評判が届いているとは、改めて実感する。
返事を書いた。素材の件は喜んで、と書いた。近況も少し書いた。奴隷を四人雇ったこと、店が繁盛していること。
(今度、ヴラトコに行けるだろうか。あそこには珍しい薬草があると聞いている)
それはまた今度の話だ。今は、今やるべきことがある。
***
半年の終わり、エマは購入した奴隷の件についてブロンソンに報告に行った。
アルドスの応接室で、ブロンソンはエマの話を聞いた。
「四人の様子は?」
「それぞれ元気です。仕事もうまくいっています」
「……それは何よりです」
ブロンソンは少し柔らかい表情で言った。
「ラドスティンの腕を治してくれたと聞きました」
「試みた甲斐がありました。うまくいって良かったです」
「ラドスティンは、七年間、欠損を抱えたままでした。うちで引き取った時も、欠損した状態では高い値はつかないと言う者もいましたが……私は、人の値段を体の完全さで決めるのは好かんので」
エマはブロンソンを少し見た。
(この人は、本当に真っ当な人だ。奴隷商人らしくない、という意味で)
「ブロンソンさんは、なぜ奴隷商を続けているんですか」
エマはふと、そう聞いた。なぜそんなことを聞いたのか、自分でも少し意外だった。
ブロンソンは少し考えてから言った。
「奴隷という制度自体は、私も好きではありません。でも、この制度がある限り、悪い奴隷商がいる限り、私が真っ当な商売をすることで、少しでもましな選択肢を作れると思っている」
「……それは、崇高な考え方ですね」
「崇高でもなんでもない。商売として成立すれば、それでいい。ただ、商売のやり方として、真っ当な方を選んでいるだけです」
エマは少し笑った。
(商売として成立すれば、それでいい。そういう言い方が、この人らしい)
「私も、似たような考え方かもしれません」
「そうですね。あなたは商売のやり方が真っ当だ」
ブロンソンが少し目を細めた。
「あの子たちを、よろしくお願いします」
「はい。よろしくお願いします」
エマは深く頷いた。
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