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間もなく、間延びした茹でたまごのように滑らかな(闇に浮かぶそれはむしろ滑らかな窪みのようだ)金属体が東の闇から文字通り音もなく浮かび上がってきた。路面派の私は宙に浮かぶ宇宙船や飛行機はとくに好きでもなく興味もないのだが、正直その圧倒的に巨大な闇の窪みに(たぶんもう失くしていた)目を輝かせる類の純粋な鳥肌を立ててしまった。そしてまたいつかは搭乗してみたい、と思った。
「あっ、EF88-505だっ!」妻は息子の影響で宇宙船に詳しい。
「あいつが好きなやつか?」
「違うは。貨物よ。でも月まで三時間で行っちゃうの」はしゃぐ声は暗い水面の波よりも大きい。
「早く起こしてやれよ」機体が近づくにつれ、目の前の鉄柵を握っている手の力は強くなっていた。体半分くらい乗り出したい気持ちだ。
「バカじゃない?」
妻は呆れ顔をした。
「さっき家から駐車場まで、わたしが何のために背負ったと思っているの?」
息子がいい加減寝られるよう、わざわざ出かけたことを私はくみ取れてはいなった。そしてまた彼女がたまには二人で何かを見上げていたかった気持ちも察してはなかった。
無音のまま、地上にいる者の腹の底にまで響く波動を空間へ飛ばした圧倒的な金属の浮遊体は、ちょうど月を隠す位置で白い腹に縦列する識別灯の発光を強めた。止まっていたデジタルウォッチは一転、バックライトを点滅させながら時間表示を遡らせる。時計と上空を交互で見ているうちに、蘇生したビンテージな「時」は30時間くらい戻り、成層圏での揺れに備えることとなる貨物船は完全に闇へ消えた。海の上には横滑りした薄い月が浮かんでいるだけだった。耳鳴りのような静かな波が護岸を打ち続けた。妻は珍しく私の手を握った。直に骨を感じられる、心なしか節が大きくなった母親の手だった。
まだずっと若く恋人同士だったころ、私たちはよくショベルヘッドに乗って色々なものを見に行ったものだ。卒業を迎える涙色の春風や、雷を孕む夏の雲。秋になると暴れはじめる野生の熊を双眼鏡で探し、冬には珍しく凍った近場の滝……もちろん今夜のように星のないよく晴れた夜空もわざわざどこかまで見上げに行った。食費を削りハイオクガソリンを買っていた私たちは手をつなぎ、人目がなければ長いキスをした……でも今更求められたらと密かに困っている私を見透かし、それはありませんから、と彼女は手を離した。
幼いころ、峠道の曲がり角に立ち止っていた小鹿を跳ねた車に乗っていたことのある妻は、それこそつい先日ママ友達と休火山まで焼き立てパンを食べに行ったときのように赤い雨が降っていない限りソナー・モードに切り替えたりはしない。
まだお酒も抜けきってはいないでしょ? と自ら運転席に座り、寝てもいいからねと微笑む。ようするに、明日もお仕事がんばってくださいと言っているのだ。
私は助手席で目をつむり動いているのか、いないのかわからない静かな車内で、後部座席で深夜の内海を彷徨い漕ぐ息子のリズムに耳を傾けながら想う。
ミヨたちは生前の思い出話をしないわけじゃないのかもしれない。ただ話をするときは、絶対に他言しない相手を選ぶだけなのではないだろうか。死んでみると生きていたこと自体がかけがいのないことだったと痛感し、そんな日々のなかにあった特別な出来事は一体どれほど大切な秘密となろう。だから彼らはそれに見合う場面と相手を選ぶのだ。ともすれば広いこの世の中、案外日常的にどこかで誰かがミヨ自身の話を耳にしていることだってあり得る。いやむしろそうなのかもしれない。だとしたら息子のように、実は妻もどこかのミヨからこっそり何かを打ち明けられていてもおかしくはない。
夫にも話せない秘密。そしてまた私も妻にさえ語ろうとは思わない息子が語った彼らの秘密。なるほどなんだか不倫話しのようだ。私は微笑み頭を窓に寄りかけた。
……息子がクラスのミヨに打ち明けると、ミヨは息子に語った。たぶんミヨは、ある時点まで友達とうさぎは似たような気持ちだったのではあるまいか? と考えはしなかっただろうか。でも息子は死ななかった。直前まで拒むように逆さだった彼の生命は、しかしついには向きを変え、死ぬ気で頭から飛び降り肺を膨らませた。だからどうしてもうさぎの最後の気持ちがわからず疑問に満ちていたのか?
星を数え過ぎたかつての友ならうまく説明し得ただろうか……




