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彼は濡れたままの髪で手を振った

 彼は濡れたままの髪で手を振った


 この四年間、毎年私の母がバスの到着場所で待っていて、私たちは順番に抱擁され彼を家まで送る。母は彼のことを名前では呼ばずに「お兄ちゃん」と呼んでいた。いつも高原での出来事を自慢し足らないまま、夕刻の人の影すらもよそよそ伸びてしまうほど、ひと気のない大きな家の、大きくて幅広くもあり間違いなく物悲し気な門の前で別れた。

 あの年、ずいぶんと背の伸びていた彼が最後になることを母も知っていたので、すっかり目の高さが並んでいた彼へ長々と、しかし同じ内容の謝意を繰り返すだけの礼を言った。その一方で、最後まで望んでいた彼の親への挨拶はついに叶わなかった。彼がインターホーンを押すと、ある種結界のような鉄の扉が無言のまま内側へ開くだけで、母がインターホンの小型カメラに向けお辞儀をし挨拶している間に、やはり小型カメラ用の小さな銀色の照明は消えた。耳を赤くして申しわけなさそうに謝る彼へ、今年こそ残りの休みは毎日でも遊んであげてねと彼の腕や肩やらを擦るように触れ、そのような約束を母は求めた。そのとき彼は全く卸したてだった複雑な感情を排斥しようとしたのだと思う。眼を潤ませて頷いたのだ。しかし実際に叶ったのは彼が60年振りのジャンパーとして、各テレビ局にニュース速報のテロップを流させ、少なからず動揺した世間をしばらく賑わせることとなる一週間ほど前の半日だけだった。


 夏休みも終わりに近づいたある日の朝、彼は突然に私の家を訪ね近所のプールへ誘った。残っている宿題の量と休みの日数を照らし合わせ、ようやく尻に火のついた私はちょうど計算ドリルを広げたところだった。仕事を探しにも行かず、ガソリンも買えないバイクを玄関前でせっせと磨いていた半裸の父が応対し、どうしようか迷っていた私に、そんなもんどうでもいいから行って来いと、驚くくらいわずかばかりの小銭をくれた。


 私たちは「けのび」することすら不可能なくらいに込み合う、騒がしい水へ浸かり、一時間ごとにとられる休憩時間には観覧席の端に常にいる地元では有名な、バスタオルの臭いミヨのおじさんに水をひっかける悪戯をしたり、迷子になって泣いている小さな女の子を監視員室まで連れて行ったりして二時間ばかりを過ごした。そして髪を濡らしたまま出口にある屋台のおでんを買うとき、彼はおごってくれた。そのとき私は自分の父親が今仕事をしていないことを初めて誰かに告白した。彼はなんでもなさそうにちょっと微笑み、でもあのバイクかっこいいねと言った。

 手押し屋台の傍にある四つのパイプ椅子は埋まっていて、缶ビールを手に立ち食いしている大人や、目を擦ったり、耳の中を執拗に気にする水着のままの子供たちもそこここにいた。

「鉄がむき出しって感じだよね。乗せてもらったことあるの?」

「背中に縛りつけられて乗ったことがあるらしいけど、覚えていなんだ」

「ふ~ん」

「仕事してお金ができたらガソリンを買いに行くつもりらしいよ。今はタンクの中にそこへ行けるだけしか残っていなくて、でも満タンに入れて戻ってきても、また入れに行く分しか残らないんだって。あのタンクってすごく小さかったでしょ? だから」

 父は祖父から譲り受けるとすぐに祖父の反対を押し切り長いフロントホークを手元まで縮めタンクもさらに小ぶりなピーナツに取り換えていた。

「本当?」彼は出汁に浸かりすぎたはんぺんの欠片を吹きだして笑った。

「たぶんつまらない冗談だと思うけど」

「また乗せてもらえるといいね」

「どうかな」

 あのころの私は母と同じ気持ちだった。お金がないのだし、乗らないならとっとと売ればいいのにと。

「うらやましいよ」

「あの邪魔なバイクが?」私はちくわぶに塗ったマスタードを少し指先で取るとスチロール容器の端へ戻した。

「いろいろがさ」

 彼は私に尻を向けたまま屋台を覗き込んだ。

 私にはその「いろいろ」が何を指していたのかそのときはよくわからなかった。

一応遠慮して断ったが、もう一品ずつ彼が買ってくれた「具」を食べ終わると、私たちは屋台の後方にある、色褪せた青いバケツへスチロールの舟型容器と割りばしを捨てた。そろそろ塾に行く時間だから、彼は濡れたままの髪で手を振った。

 夕方になり総菜屋のパートから帰ってきたばかりで揚げ物臭い母へ、彼と一緒に市営プールに行ったことを告げるととても喜んでいた……



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