ほしとり #3
ほしとり #3
彼女は何かを諦めたらしく仕事の手を休めた。そしてもう一度必ず歯を磨く約束を私に求め、明日の朝食に出すぶどうゼリーをこっそり分けてくれた。
いうまでもなく夜中の秘密ごとは食べ物の味覚に付加価値を与える。翌朝取り分けられた小皿で食べたときよりも、バットの中で揺れていた白ブドウのゼリーにはもっと透明感があり、甘味の中の酸味も少し強かった。それは優れた味覚の記憶として今でも生涯超えることのないゼリーなのだ……
私たちは一か所だけ明かりを点ける食堂で向かい合った。丸椅子に座るミヨのお姉さんは、同じミヨの新しい彼氏の愚痴とこの労働の、割に合わない給料の不満をテーブルに突っ伏し一人でしゃべり続けた。ときどきため息をつくとき私はゼリーの手を止めて顔を上げていた。
夏草の上とは全く違った夜中の静けさは、どこか整然としていた気がする。時間は前にしか進まないものだ、と幼い私に思わせたほどに。たぶん一緒にいたのがミヨだったから余計そう感じたのかもしれない。
「あっ、そう言えば」
ミヨのお姉さんは何かを急に思い出した。
「何かあったの?」
「何かってなに?」
「ここに来た理由よ」
「あぁ、なんでもないよ」なんだか、もうなんでもなくなっていた。
「あのさ、聞いてあげるの忘れててごめんね」
ミヨのお姉さんは疲れた働き者の手を伸ばすと私の頭を摩り、少し自嘲気味に笑った。
「どうあれ、どうしても自分には守れないルールでなければ、多少の辛さや寂しさを我慢しながら守らなければいけないのよ。大人になっても覚えておきなさいね」
ミヨのお姉さんは私と一緒に部屋まで付いてきてくれている途中でそのようなことを言った。大人になった私は今でも覚えていて、たぶん実行しています、とたとえ夢のなかでもいいから彼女に伝えたいものだ……
彼が参加資格を有した最後の年、彼はまたしても三つ四つを違えただけの解答用紙を提出せず、よって最終日のキャンプファイヤーの点火役も放棄してしまった。
「もし君がそうしたいならこの数字をあげるよ」と、明け方の芝生の上で冷たい朝露に目が覚めると言われたが、もちろん断った。
日の出前の東の空は、光にぼやけながら躊躇うことなく出来はじめる今日の青空へ向っていて、今年も多くの者がトイレの夢から目覚め出した。明け方にぐずる子供たちの声は静かに広がっていく。今はこれほどまで寒いのに数時間するとどれほど暑くなるか信じられなかった。私は今年こそ提出することを強く勧めた。でも彼は頑なに拒んだ。
結局その年は、少しでも長く起きていようとすらしない鼻もちならない奴が寝袋に収まると早々に、自宅のオートロック番号を書いて寝息を立てたその数の並びが、たまたま一番近い数(と言っても八十近くズレていた)となりドン引きするくらいの喜びを爆発させた。キャンプ中はしゃぎ過ぎると胸の中でヒューヒュー言う私のことを「フユヤマ フユキ」と呼び続けたそいつは、額や頬に粉をふくアトピー性皮膚炎の顔で勝ち誇り最終日のキャンプファイヤーに点火した。燃え上がる様を見ていた私は突然の赤い雨が土砂降りに降ってきて、こんな火なんか消えてしまいみんながみんな酷くがっかりすればいいと思っていた……
「たとえば紙にかいてある電話番号をどうしても最後まではきちんと押せない、そんな夢って見たことはある?」
彼自身は最後の年となる、帰りのバスのなかで隣に座る私に言った。たまにカラーの夢を見ることはあるけれど、そんなものは見たことがない、そう答えると彼は残念そうだった。
「なんだかとてもよく似ているんだ、どうしてもあとちょっとのところで最後まで(星を)数えきれないだ……」




