93.恋心
アッシュグレーに黒いまだら模様にラインが入った髪を、首を振って彼女はふわっと浮かせた。
歩き難そうな赤いヒールを響かせながら、猫人の女性はいつもとは違う屋上の様子に驚いた表情をしていた。夜風になびく濃紺のドレスと一緒に、髪と同じ色の尻尾が右に左に揺れている。
オレは彼女に近寄って行き、一瞬掛ける言葉を見失いながら、動揺を抑えて挨拶をすることにした。
〔こんばんわ〕
〔……こんばんわ〕
オレの方を見て、ビルの屋上で楽しそうに宴をしている他の獣人達にまた視線を戻した彼女が挨拶を返した。
一先ず、オレはねこの言語で彼女にこれまでの経緯と現在の状況とを伝えた。
すると、彼女は目に涙を浮かべ始めて、笑いながらその目元を擦った。
〔……そうなんだ、ありがとう!
良い人間もいるんだね。意地悪な人間かいやらしい人間しかこれまで見たことなかったから、すっごく驚いちゃった。
私、ターニャって名前。よろしくね〕
猫人女性のターニャは満面の笑顔をオレに見せてくれた。
涙で瞳がキラキラと輝いていて眩しくてたまらない。
でもなぜだろう。オレはターニャのことを直視出来ない。
なぜか無性に気恥ずかしい。
一体、これはなんなんだろう?
〔オレの名前はランド〕
〔ランドくん。
……ランドくんはいつもその姿なの?〕
〔?〕
〔……、ほら、獣人型に戻ったくれた方が、その……〕
〔??〕
どこか言い難そうにしているターニャを見ながら、オレは自分が獣人じゃなくて普通のねこなんだと明かそうとした。
すると彼女はハッとした様子で手を打った。しゃがんでオレと目線を合わせたターニャは尻尾を地面にくっつけたまま揺らした。
〔……! ごめん、ランドくんは私達と同じ獣人じゃないのね?
ランドくんが難しい話でもあんまりにもスラスラと話してるから、私てっきり猫人の子だって勘違いしてたの。
ごめんごめん〕
〔いや、大丈夫だよ。オレは猫人じゃなくて普通のねこだって、それを早く言えば良かったよね〕
〔いいのいいの。気にしないで。
そっかー、ねこちゃんだったかー。猫人だったら良かったのにな。
私達獣人は獣人型でお話するのが普通と言うか、礼儀みたいなものでね。獣型の時はお忍びの時とか潜入捜査する時とか、そういった非常時だけなのね。
だからなんか私、てっきりランドくんに姿を誤魔化されてお話されてるもんだと勘繰っちゃって。ごめんごめん〕
オレは今まで一度も思ったこと無かったけど、初めてなぜ自分が獣人に生まれなかったのかと後悔した。
屋上に繋がる後ろの階段口の扉が開いて、その奥から元気な声が聞こえてきた。
〔ターニャごめん待ったー? 最後のお客がしつこくって。……て、あっ、ヤバ、うるさいか〕
出て来たのは兔人女性だった。白く長い耳をピコピコ動かして口を押さえながらしきりに屋上の光景を眺め回して、「何これ」と呟いていた。
彼女の元に犬人族の男性が近付いて来て言う。
〔お疲れ様。これで夜の営業は終わりだな。
みんな、片付けを始めて! いつまでも騒いでいると見張りが上がって来てまた折檻を受ける。痛い目には合いたく無いだろう?
楽しかったけど、今夜はこれでお開きにしよう〕
白毛の犬人族の男性は、跳躍して質問を浴びせにかかる兔人女性に簡単な説明を言い聞かせている。
ターニャも兔人女性にオレから聞いた経緯を伝えると、再びオレの元へ戻ってきた。
〔ちょっとデートしようよ。私も獣型になるからきっと大丈夫、それなら見付からないから〕
ターニャが片目を瞑ってウインクするのを見ると、オレは自分の心臓が急速に高鳴っていることに激しい動揺を覚えた。
犬人に、「獣人型で裸になるのはやめろと言ってるだろ」と注意されながら、大事な部分を手で隠しつつ素っ裸になったターニャはシュルシュルと、これまた可愛らしいねこの姿になっていったのだ。
オレは服を脱いだ獣人型のターニャに興奮しつつ、ねこ型になって一糸纏わぬ姿のターニャに不思議な感覚を感じざるを得なかった。二つとも同じすっぽんぽんなのに。
ターニャは、〔ちょっとランドくんとお出掛けしてくる〕と周りへ言い放つとビルの屋上から階下へ飛び降りた。
そんなオレとターニャの様子を観察していたのか、ガンク達が隅の方でニヤニヤしていた。
「早く帰って来るのよ」
「憎いなーランド、デートかよ。羨ましー」
「逢瀬の土産話、私にしっかり聞かせてくれよ」
「フ。朝まではここに留まっている。よければ長居してきても構わぬぞ」
みんな、うるせー。
思いながらオレは急いでターニャを追ってビルから飛び降りた。
跳び歩くように前を進むターニャを見失わないように後を追いかけていく。
ピンと立ち上がった尻尾と、その下の形のいい彼女のお尻についつい目が向かってしまう。それにどうしても、前を歩くターニャの匂いなのかフェロモンなのかがオレの心を激しく乱してくる。
初めてのことだった。
オレはねこだ。それは間違いない。
それと同時に、オレは【転生者】だ。
つまり人間と同じ心をねこの体の内側に持っている。前世の記憶は今のところ無いんだけれど。
オレは獣人型のターニャの姿を見て、彼女の裸体を見て興奮した。そして、獣型になったターニャのお尻の方から強く流れてくる匂いを嗅いで、また止めどなく昂ってしまっているみたいだ。
オレは一体……。
オレはねこ……なんだよな? それともオレは人間なのか?
オレは見付け様の無い問題に心を揺さぶられながらターニャの後を追って走った。
路地裏の細い道から抜け出ると、ターニャは第二番街中心地の方へ向かっていった。目の前にはこの辺りで一際背の高い巨大な時計塔が見えていた。誰もいない広場を突っ切りその真下へと進む。天空を突くように聳えるそれを見上げれば首が痛くなるほど高い。
〔ここお気に入りなんだ。上まで登ろう〕
〔うん〕
ターニャは勢いを付けて跳躍すると時計塔の壁をジグザグに何度も蹴りながらてっぺんの方まで向かっていく。オレも彼女に負けじと後を追う。
時計の針は零時三十四分くらいを指していて、ちょうど斜め右上から下へ一直線になっていた。
時計塔の見張り台にも誰も人はいなく、手摺に乗っかったターニャが、〔この上だよ〕とさらに上へとオレを誘った。
そこは眼下にメールプマインの街並みを一望出来る、見晴らし抜群の場所だった。
〔どう、絶景でしょ。気に入ってくれたら嬉しいな〕
〔うん。オレも好きだよ、高いところ〕
〔良かった。
たまにここまで景色を見に来るの。晴れた日には朝陽が凄い綺麗なんだよ〕
ターニャが前足を伸ばして太陽が顔を見せる方角を指し示した。
オレは朝陽が登る光景を想像した。
〔朝陽はね、人間に本当にどうしようもなく意地悪されて悲しくなった時に見に来るの。夜中にこっそりテントハウスを抜け出して。
すっごいんだよ。
見ると悔しかった事や悲しかった事がバカバカしくて小さな事に思えちゃうくらい新しいお日様が綺麗なんだ〕
時計塔の最頂部はドーム状の造りになっていて、その頂点から一本の鉄芯が伸び先端には王冠の様な丸い台がはめられていた。その王冠の内側に納まり、二匹でくっついて座った。
深夜のメールプマインの街は大通りの街灯を残してちらほらと明かりが灯っているくらいだ。人々のほとんどは寝静まっているようだった。
時折強風が吹くと王冠を固定する鉄芯がが不安定に揺れて慌てることもあったけれど、ねこ二匹分くらい十分に支えられる丈夫な造りのようだった。
ターニャが暗い街を見下ろしながら尋ねた。
〔……もし明日世界が終わっちゃうとしたら、ランドくんは何したい?〕
〔うーん……〕
強い風が断続して吹いて、オレと横のターニャの髭を揺らして後ろへ流れていく。目下の何処かで何かの音が響いてここまで届いた。
オレはもし明日で世界が終わってしまうのだとしたら、最後までガンク達と一緒にいたいこと、故郷のコカコ村に帰りたいこと、魚をたらふく食べたいこと、それとあとターニャのことを想った。
〔私はね。この場所で夕陽を見てみたい。朝陽を見ることはなんとか出来ても、お昼に仕事を抜け出してここまで来ることは出来ないから。
そうだ!
いつか、一緒にここに夕陽を見に来ようよ。絶対感動しちゃうから〕
〔うん〕
ターニャはオレの横にぴったりとくっついた。温かなターニャの体温が身体に伝わってくる。
オレは首を回してターニャの首後ろの辺りを舐めてあげた。オレの心臓は爆発しそうなくらい早鐘を打っていて、彼女に聞こえないかと不安になった。耳が良いオレ達だから隠そうとも絶対に聞こえてる筈だけど。
〔くすぐったいよぉ〕
〔ごめん。でも……〕
オレはもっと首を伸ばして、ターニャの深いところまで舌を回していった。
それからオレとターニャは色々な話をした。
今までのオレのこと。これからしたいオレのこと。
今までの彼女のこと。ターニャの希望や夢とかだ。
ターニャの故郷はもちろん猫人族の集落だ。ターニャ達猫人族は今や帝国軍に滅ぼされてしまったような状況にあるけれど、似たようなことはこれまでに幾度となく起こっていたらしい。
その度に彼ら猫人族は再び逃げ延びた先の新たな場所で再び集落を作り上げ、決して途絶える事無く何度も生活を続けてきたそうだ。
マズマのことを知っているか尋ねてみたけれど、ターニャは首を横に振った。マズマは長寿のねこだし、随分と昔のことだからマズマのことを知らなくても無理は無いと思った。
昔、ターニャが生まれるより遥か以前は今よりもっと自衛力が高い集落を形成していたらしくて、その頃の集落の長は仙猫と呼ばれるねこが治めていたそうだ。
今では仙猫は猫人族の神様のように崇め奉られているという。仙猫が死んでしまい、それから猫人族にとって不遇の時代が訪れてしまったらしい。
空がゆっくりと白み始めていき、暗闇のメールプマインの街に何本もの影が生まれていった。朧気で幻想めいた風景は少しずつ着実に現実的な輪郭を伴って変化していった。
早起きの鳥達が歓声を上げるように眼下の空を舞い、下からゆっくりと新鮮で冷たい朝の空気が足元へ伝わってきた。
夜の気配から守る為に魔力で伸ばした毛をずらして、隣で疲れて眠っている温かな彼女の背中をオレは優しく舐め上げていく。そうしていると、とても柔らかで穏やかな気持ちがじんわりと心を満たしていった。
オレも目蓋を閉じて心地好い心音に耳を傾けながら、ゆっくりとターニャが起きるのを待った。




