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紫の雫(ヴィオラ・ドロップ) ——異世界に転移した薬学者は、毒と薬で裏社会の頂点に立つ —   作者: イロハ
第一部「灰の檻」

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第9話 幕間:第二環の日々

 美智子は毎朝、同じ時間に目を覚ます。


 二つの太陽のうち赤い方が窓硝子——この世界にも硝子はある、第二環の住居には——に当たる角度で、だいたいの時刻がわかるようになった。


 石造りの部屋は日本の二DKほどの広さがあり、木組みの寝台にはちゃんとした綿の敷布が敷かれている。第七環の藁束とは比べ物にならない。


 だが、美智子はこの部屋が嫌いだった。


 壁が冷たい。石の壁は、どれだけ暖めても体温を吸い取る。


 そして何より——この部屋は、黒木家の屋敷の離れだった。


 与えられた住居。与えられた食事。与えられた安全。すべてが「黒木剛の厚意」という名の鎖でできている。


 朝食の支度をする。


 この世界のパンは硬い。バターに相当する獣脂を塗って焼くと、なんとか食べられる。果物を切り、水を汲み、木の皿に並べる。


 日本にいた頃と同じ手順で、異世界の食材を使って、家族の朝食を作る。


 違うのは、椅子が一つ空いていることだけだった。


「葵、起きなさい」


 奥の寝台で丸くなっている娘の背中を揺する。


 葵は最近、起きるのが遅くなった。転移前は朝に強い子だったのに。


「……んー……」


 黒髪のツインテールがほどけたまま、葵が薄目を開ける。丸い目の下に、うっすらと影ができている。


 十四歳の少女の顔にあるべきではない影。


 転移から一ヶ月。葵はまだ笑う。笑うけれど——笑い方が変わった。口の端だけで作る笑い。目が笑っていない笑い。


 美智子は、それに気づいている。気づいていて、どうすることもできない。


「今日は訓練場に行くんでしょう。遅れるわよ」


「……うん」


 第二環の理刻保持者の子弟は、毎日訓練場に通う。葵には理刻がない。


 だが「理刻保持者の家族」として、基本的な護身術と読み書きの教育を受ける権利がある。


 権利、と言えば聞こえはいい。実態は——能力のない子供が、能力のある子供たちの中で息を殺して座っている時間だった。


 翔太はもう家にいない。


 三週間前に出ていった。「俺がここにいても葵が危ない」とだけ言い残して、朝の暗いうちに姿を消した。


 第七環の賢治のところに行ったのだと、美智子は確信している。


 止めなかった。止められなかった。


 翔太の袖口の裂け目を見たとき——あの裂け目の意味を理解したとき——美智子は息子を引き留める言葉を失った。


 訓練場は、第二環の中央広場に隣接した石造りの建物だった。


 天井が高く、床には砂が敷き詰められている。壁際には木製の武器や盾が架けられ、中央の空間で若者たちが打ち合っている。


 転移者の子弟は全部で十二人。そのうち理刻を持つのは四人。


 残りの八人は葵と同じく「家族枠」で、訓練には参加するが実戦の組み手には入れない。


 蓮はいつも訓練場の中央にいた。


 百七十五センチの細身の体が、攻撃系理刻の赤い光を纏って打ち合いをしている。相手は現地の少年騎士二人。


 蓮の動きは素人目にも鋭く、二人を同時に相手にして余裕がある。


 だが葵が怖いのは、蓮の強さではなかった。


 打ち合いの合間に、こちらを見る目。


 蓮は戦いながら、葵の方をちらりと見る。父親と同じ冷たい目で。品定めするように。何かを計算するように。


 葵は壁際で膝を抱え、蓮の視線を避けるように俯いた。


「——大丈夫?」


 隣から声がかけられた。


 顔を上げると、赤みがかった茶髪をポニーテールに束ねた少女が立っている。釣り目。小麦色の肌。


 葵より頭一つ背が高い。現地の少女だった。


 エルザ。十七歳。下級騎士の娘で、訓練生の一人。


 葵にとって、この訓練場で唯一まともに口をきいてくれる相手だった。


「大丈夫。……ちょっと、眠いだけ」


「嘘ばっかり。——またあいつが何かした?」


 エルザの声は小さいが、釣り目の奥に怒りが光っている。


 「あいつ」が誰を指すかは明白だった。


 葵は首を振った。何かされたわけではない。


 蓮は葵に直接手を出さない。出さないからこそ怖い。


 いつ出されるかわからない恐怖が、じわじわと日常を蝕んでいく。


「翔太さんがいた頃は、あいつもここまでじゃなかったのに」


 エルザが腕を組んだ。


 翔太の名前を出すとき、ほんの僅かだけ声が変わったことに、葵は気づいた。


 だが今はそれどころではない。


「お兄ちゃんは——自分で出ていったの。お母さんを守るために」


「守る……? あんたのお兄ちゃんがここを出たら、守る人がいなくなるじゃない」


「わかってる。でも——お兄ちゃんがここにいたら、蓮くんがお兄ちゃんをもっと——」


 葵は言葉を切った。


 壁に背をつけ、膝を抱え直した。


 制服のスカートは、もう穿いていない。この世界の麻の長衣に替えた。


 日本の制服を着ていると、現地の子供たちに奇異の目で見られるからだ。


 ツインテールもやめた。髪を一つにまとめるようになった。


 目立ちたくない。誰の目にも留まりたくない。


 十四歳の少女が、透明になろうとしている。


 エルザがぽんと葵の頭に手を置いた。


「あたしがいるから。——あいつがあんたに近づいたら、あたしがぶっ飛ばす」


 葵が顔を上げた。


 エルザの釣り目が、本気だった。冗談ではない。


 この少女は本当にやるだろう。そして蓮に返り討ちにされるだろう。


 能力の等級が違いすぎる。


 それでも——葵は、転移してから初めて、少しだけ口元が緩んだ。


 第二環には、茶屋がある。


 日本の喫茶店のようなものだ。この世界の茶——赤い葉を煮出した、苦くて渋い飲み物——を出す小さな店。


 貴族や上級市民が情報交換に使う。


 美智子は週に一度、ここに来る。賢治との連絡手段として。


 直接会うことはできない。第七環と第二環の間には四つの環がある。行き来は不自然すぎる。


 だからナディアの情報網を通じて、茶屋の女主人経由で短い手紙をやり取りしている。


 今日の手紙は一行だけだった。


『もう少しだけ待ってくれ。——K』


 Kはケンジのイニシャル。転移者の中で「賢治」とカタカナ表記する人間はいないから、暗号としては十分だった。


 もう少し。一ヶ月前も同じことを書いていた。


 美智子は手紙を折りたたみ、茶を一口飲んだ。


 苦い。この世界の茶にはまだ慣れない。


 隣の席で、二人の貴族の男が話していた。


「——最近、第六環で妙な薬が出回っているらしいぞ」


「薬? 薬師の煎じ薬か」


「いや、違う。もっと——純粋なもの。匂いがしない。一滴で気持ちが——まあ、その、天にも昇る心地だそうだ」


「それは薬じゃなくて毒だろう。どこの誰が作っている」


「わからん。蒸留師、とかいう名前だけが出回っている。顔も出自も不明。第七環の辺りが出所だという噂だが——」


 美智子の手が止まった。


 茶碗を持つ指が、微かに震えた。


 蒸留師。


 薬。


 第七環。


 美智子は化学者ではない。分子構造も精製技術も理解しない。


 だが——夫が二十年間、何を研究してきたかは知っている。


 夕食の席で聞かされた話の半分も理解できなかったが、「薬を作る」「物質を分ける」「純度が大事」という断片は記憶に残っている。


 第七環で、純度の高い薬を作る人間。


 美智子は茶を飲み干した。


 苦さが、胃の底まで落ちていった。


 賢治さん、あなた——何をしているの。


 聞きたかった。聞けなかった。


 手紙に書くわけにはいかない。この世界には検閲がないとは限らない。


 美智子は茶代を銅貨で払い、店を出た。


 第二環の大通りを歩きながら、空を見上げた。


 二つの太陽が並んで輝いている。日本の空ではない。日本の太陽ではない。


 だが、夫を心配する気持ちだけは——どの世界でも、同じだった。


 その夜、部屋に戻ると、葵がまだ起きていた。


 寝台の上で膝を抱え、窓から見える月を眺めている。


 二つの月が、青白い光で部屋の床に影を落としている。


「葵。明日も早いでしょう、もう寝なさい」


「……お母さん」


「何?」


「お父さんは——もう帰ってこないの?」


 美智子の足が止まった。


 葵の丸い目が、月光の中でこちらを見ている。


 十四歳の目だった。子供の目だが、子供だけの目ではなくなりつつある。


「帰ってくるわ。お父さんは、帰ってくる人よ」


「……うん」


 葵は窓から目を逸らし、布団を被った。


 信じているのか、信じていないのか。美智子にはわからなかった。


 美智子は寝台に横たわり、天井を見つめた。


 石の天井に、月光の影が揺れている。


 ——賢治さん。


 ——もう少し、って言ったけど。


 ——「もう少し」の間に、この子たちがどんどん壊れていくの、あなたは知ってるの。


 声には出さなかった。


 手紙にも書かなかった。


 ただ、石の天井に向かって、唇だけが動いた。


 翌日。


 第二環の正門に、一人の男が到着した。


 護衛の騎兵に囲まれ、きちんとした服装をまとい——この世界の貴族に好意的に迎えられた新たな転移者。


 均整の取れた体格。清潔に整えられた黒髪。目尻が下がる人懐こい笑顔。白い歯。


 中井亮介。三十二歳。


 転移時に大阪にいたため初回の転移に含まれなかったが、一ヶ月遅れで別の漂着現象に巻き込まれたらしい。


 理刻の鑑別を受け——模倣系『鏡写し(ミラーコート)』、上位第三等級と判定された。


 高位の理刻持ち。加えて、教養があり、礼儀正しく、コミュニケーション能力が高い。


 黒木剛が即座に目をつけた。


「中井くんか。——使えそうだな」


 黒木の書斎で、二人は会った。中井は深々と頭を下げた。


 あの完璧な笑顔で。


「お世話になります、社長。——ところで、佐伯さんもこちらに?」


 黒木は鼻を鳴らした。


「佐伯? あいつは等級外だ。第七環に行ったよ。あそこがお似合いだろう」


「そうですか……。残念です。あの人にはいつもお世話になっていたので」


 中井の声には、丁度よい量の悲しみが含まれていた。


 多すぎず、少なすぎず。相手に「善い人だ」と思わせる、正確に調合された感情表現。


 黒木はそれを見抜けなかった。


 見抜ける人間は——おそらく、この世界に一人しかいない。


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