第10話 赤い牙
リナが血を流して戻ってきたのは、契約成立から四日目の昼だった。
亜麻色の髪が泥で汚れ、額の左側が裂けていた。浅い傷だったが、出血量が多い。頭部は血管が密集しているから当然だ——賢治はそう判断しながら、自作の止血剤を布に染み込ませてリナの額に当てた。
「何があった」
「……届け物の帰りに。三人。第六環の東の路地で」
リナの声は震えていなかった。薄い緑色の目が、怒りで濃くなっている。この少女は泣かない。第七環の子どもは泣き方を忘れている。
「男? 女?」
「男が二人。女が一人。——蛇の刺青をしてた。首のところに」
賢治の手が止まった。
ナディアを見た。ナディアの黒い目が、同じ結論に達していた。
「赤牙だ」
ナディアが壁にもたれ、腕を組んだ。
「第六環の東半分を仕切ってる犯罪組織。灰の商会とは十年来の縄張り争いをしてる。ボスの名前はドラガン。——暴力が好きな男だ。ヴォルクみたいに計算で動くタイプじゃない。気に入らなければ殴る。逆らえば殺す。部下が怖がって従ってるだけの、シンプルな恐怖政治」
「ヴィオラ・ドロップが赤牙の縄張りに食い込んだか」
「そうだ。今まで第六環東部の薬物市場は赤牙が独占してた。粗悪な草の煎じ薬だが、他に選択肢がなかったから売れていた。——そこにうちの品が入ってきた。品質が桁違いだから、客が一斉に流れた」
「赤牙が黙っているわけがないな」
「ああ。だからリナが殴られた。次は殴るだけじゃ済まない」
リナが額の布を押さえながら、賢治を見上げた。
「……あたし、もう走れる。大丈夫」
「大丈夫じゃない。今日は休め」
「でも——」
「休め」
賢治の声に、いつもとは違う硬さがあった。リナが口を閉じた。
この男が怒ることは滅多にない。だが怒ったとき——声ではなく、目の温度が下がる。リナはそれを、理屈ではなく動物的な勘で感じ取った。
赤牙のアジトは、第六環の東端にある廃屋の地下だった。
ナディアの情報だ。正確な住所、入口の数、番兵の配置まで把握している。この女の情報網は、相変わらず常識外れだった。
「ボスのドラガンは直接出てこない。下っ端がリナを殴ったのは、様子見だ。こちらの反応を見てる。やり返してくるなら全面戦争、引き下がるなら呑み込む。二択を迫ってきてる」
賢治は小屋の藁束の上でメモ帳を開いていた。
「赤牙の戦力は」
「構成員は四十人前後。理刻持ちは三人。ドラガン本人が最強で、理刻は——筋肉硬化系。自分の体を石のように硬くできる。殴っても切っても通らない。そのかわり動きが鈍くなる」
「弱点は」
「硬化中は呼吸も止まる。長くて二分。それを超えると窒息する。——あと、内部からの攻撃には対応できない。表面を硬化するだけだから、毒を飲ませれば普通に効く」
「……毒」
賢治がメモ帳から顔を上げた。
ナディアの黒い目と、賢治の目が合った。
「今の話を聞いて、あんたが最初に考えたのは毒を盛ることだろう」
「……否定はしない」
「否定しなくなったところが、あんたが変わった証拠だ」
ナディアの声は平坦だったが、そこには微かな——観察者の冷静さがあった。この女は賢治の変化を見ている。記録している。いつか必要になるときのために。
その夜、ヴォルクから呼び出しがかかった。
廃倉庫。いつもの場所。いつもの配置。
だが、ヴォルクの隣に——もう一人、見慣れない人物がいた。
小柄な少女。赤毛のツインテール。丸顔。百五十センチ。見た目は完全に子供だが、腰に短剣を二本差している。大きな目が賢治を見て、にっこりと笑った。
「えへへ。蒸留師さんだ。思ったよりおじさんだねー」
甲高い声。無邪気な笑顔。だが——目だけが笑っていない。目の奥に、油灯の炎が映っていない。反射すらしない、吸い込むような黒い瞳。
「カティアだ」
ヴォルクが紹介した。
「切り込み隊長。赤牙の件で動いてもらう予定だったが——先にあんたに会いたいと言ってな」
カティアが賢治の周りをくるくると歩いた。品定めしている。犬が新しい物を嗅ぐように。
「へー。全然強そうじゃないのに、ヴォルクさんが気に入ってるんだ。ふーん。面白い匂いがする。薬の匂い? ちょっと甘い。えへへ」
賢治は動かなかった。この少女の「えへへ」は愛嬌ではない。鞘鳴りだ。刃物が鞘の中で遊んでいる音に似ている。
ヴォルクが本題に入った。
「赤牙がうちの縄張りに手を出し始めた。あんたの走り屋を殴ったのも、その一環だ」
「知ってる」
「うちとしても放置はできない。——潰す。ただし、正面からやれば被害が出る。ドラガンの理刻は厄介でな。硬くなられると、カティアの剣でも通らない」
カティアが頬を膨らませた。
「通るよぅ。ちょっと時間かかるだけ」
「お前の『ちょっと』は二十秒だ。二十秒あればドラガンは逃げる。——だから蒸留師。あんたの出番だ」
ヴォルクの細い目が、賢治を見据えた。
「ドラガンの硬化を無効化するか、硬化の上から効く薬——いや、毒を作れるか」
賢治は三秒黙った。
内部からの攻撃。ナディアが言っていた通りだ。表面を硬化しても、口から入った毒物は胃壁から吸収される。血流に乗って全身に回る。硬化は外骨格のようなものだ。中身は生身のまま。
作れるか、と聞かれれば——作れる。
夜哭き菫のインドール誘導体を少し改変すれば、心筋に選択的に作用する化合物が合成できる。不整脈誘発。心停止。
作れる。
問題は——作るかどうか。
「……作れる」
声が出た。自分の声が、自分のものではないような感覚があった。
「ただし、条件がある」
「言え」
「俺の手は汚さない。毒は渡す。使うのはそちらだ。俺は調合するだけだ」
ヴォルクは微かに笑った。
「それは——自分の手で殺したくない、ということか」
「そうだ」
「……まあいい。結果が同じなら、過程はどうでもいい。三日で用意しろ」
カティアが跳ねるように立ち上がった。
「やったー! ドラガンの硬いの、ずっとウザかったんだよねー。これで切り放題だ。えへへ」
笑顔で人殺しの話をする少女を、賢治は目の端で見た。
——この少女に渡す毒を、自分が作る。
「俺の手は汚さない」と言った。だが——毒を調合した時点で、手は汚れている。包丁を作った鍛冶屋が「俺は刺していない」と言うようなものだ。
わかっていた。わかった上で、そう言った。
自分に嘘をつくことで、一歩を踏み出す。佐伯賢治の「堕ち方」は、いつもこの形式だった。
小屋に帰り、ナディアに報告した。
「ヴォルクは赤牙を潰すつもりだ。俺に毒を作らせる」
「断らなかったのか」
ナディアの声に、いつもの平坦さがなかった。
「断れると思うか。あの男の前で」
「断れないのと、断らないのは違う」
賢治はナディアを見た。
ナディアは見返した。黒い目が、賢治の目の奥を探っている。
「……あんたは変わり始めてる。藤原の脚を治したときと、今の目が違う。わかってるのか」
「わかってる」
「わかってて進むのか」
「進むしかない。赤牙を放置すれば、次にリナが殴られるんじゃなくて——殺される。お前もだ。俺もだ。守るために毒を作るのと、楽しみで毒を作るのは違う」
ナディアは五秒間黙った。
「……それ、自分に言い聞かせてるだろう」
賢治は答えなかった。
メモ帳を開き、新しいページに分子構造を描き始めた。
インドール骨格の5位ヒドロキシ基を外し、代わりにカルボキシル基を導入する。心筋のカリウムチャネルに作用する構造。地球の製薬研究で、副作用として心停止を引き起こすことが知られている骨格パターン。
副作用を、主作用にする。
薬の裏返しが毒であることを、賢治は誰よりも知っている。
ナディアは何も言わず、小屋を出ていった。
扉の隙間から夜風が入り、油灯の炎が揺れた。
賢治はメモ帳に書き続けた。
分子構造。投与量。溶解度。致死量の推定。
ペンを持つ手は——まだ震えていた。
まだ、震えている。
だが、ペンは止まらなかった。




