第11話 調合
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毒を作る工程は、薬を作る工程と何も変わらなかった。 そのことが、賢治には一番堪えた。
夜哭き菫から有効成分を抽出する。理刻で分子を「視る」。不要な原子団を切り離し、必要な官能基を導入する。手順は抗菌剤を精製したときと全く同じだ。 違うのは、目的だけだった。
人を治すか、殺すか。 その一点だけが違っていて、手の動きは同じで、精度も同じで、かかる時間もほとんど同じだった。
賢治は小屋の床に座り、陶器の欠片の上でボールペンの先を使い、分子レベルの作業を続けていた。 インドール骨格の5位——ヒドロキシ基がついていた位置を、カルボキシル基に置換する。次に、ピリジン環の窒素原子の隣にフッ素を一つ導入する。
これで完成だ。
ヴィオラ・ドロップの多幸感を誘発するセロトニン受容体への親和性が消え、代わりに心筋のカリウムチャネルを阻害する構造が残る。投与後三十分から一時間で不整脈が発生し、心室細動を経て心停止に至る。 外傷は一切残らない。この世界の医学では、「急に心臓が止まった」としか判断できない。
——完璧な毒だ。
賢治はその言葉を頭の中で転がし、それから吐き気を堪えた。 「完璧な毒」という言葉を、自分の仕事に対する評価として自然に受け入れかけている。その事実が、吐き気の本当の原因だった。
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毒の試作が終わった直後、ナディアが飛び込んできた。 走ってきたのだ。この女が走るのを、賢治は初めて見た。
「リナが攫われた」
血の気が引く、という表現を、賢治はこのとき初めて体で理解した。指先から温度が消えていく感覚。視界が一瞬だけ白くなり、すぐに戻る。
「赤牙か」
「ドラガンが直接出てきた。第六環の東路地で、うちの走り屋三人が捕まった。リナと、あと二人。——ドラガンがリナの腕を掴んで、こう言ったらしい」
ナディアの声が低くなった。
「『蒸留師とかいう鼠を連れてこい。そうすりゃこのガキは返す。三日待つ。四日目には——指から送る』」
賢治の手が、メモ帳の上で止まった。
「……リナの状態は」
「殴られてはいない。まだ。ドラガンは交渉材料を傷つけない程度の知恵はある。だが——」
「だが?」
「あの男が本気で怒ると、知恵が吹き飛ぶ。噂じゃない、あたしが直接見たことがある」
ナディアが壁にもたれた。いつもの余裕がない。黒い目が据わっている。
「三年前、赤牙の下っ端がドラガンの女に手を出した。ドラガンはそいつを広場に引きずり出して、硬化した拳で——殴った。一発。一発だけだ」
ナディアが息を吸った。
「頭が割れた。石の拳で人間の頭を殴るとどうなるか、あたしはあのとき初めて知った。——西瓜と同じだ」
賢治は黙っていた。
「ドラガンの理刻は身体硬化だ。肉体を石に変える。防御だけじゃない。硬化した体で殴れば、それ自体が凶器になる。石の塊が人間の速度で動く。剣で斬っても弾かれる。槍で突いても通らない。第六環で十年、あの男に正面から勝てた人間はいない」
「……時間制限があるんだろう。硬化中は呼吸が止まる」
「二分だ。だが——二分もあれば、この路地の端から端まで走って、途中の人間を全員殴り殺せる。時間制限は弱点じゃない。二分の間は、あの男は不死身だ」
賢治はメモ帳に目を落とした。 陶器の欠片の上に、透明な液滴——毒の試作品が載っている。
「……リナを取り返す方法は」
「正面から行ったら死ぬ。カティアの理刻——瞬歩っていう、目で追えないほどの速さで短距離を跳ぶ能力だが——あれでドラガンに近づいても、硬化されたら斬れない。マーラの力でも、石になった体は砕けない。ザハールなら——あの人なら或いは。だがザハールは動かないだろう。ヴォルクの許可なしには」
「ヴォルクは」
「報告した。答えは——『三日以内に蒸留師が解決しろ。それが試験だ』」
試験。
賢治は唇を噛んだ。ヴォルクは赤牙の襲撃を、賢治への試験に使っている。リナの命を天秤に載せたまま、賢治がどう動くかを見ている。助けを求めるか。逃げるか。——それとも、自分の力で解決するか。
「三日。毒は——あと一日で完成する」
「完成してどうする。ドラガンに飲ませる方法がないだろう」
「考える」
「考えて、三日で?」
「二日で考えて、一日で実行する」
ナディアの黒い目が、賢治を見た。 この女は情報屋だ。嘘を見抜く。はったりも見抜く。だが——このとき、ナディアが賢治の目に見たのは、嘘でもはったりでもなかった。
計算だった。
追い詰められた男が、感情ではなく計算で状況を見ている。怒りでもなく恐怖でもなく、ただ——変数を並べて、解を探している目。
「……あんた、やっぱり普通じゃないな」
「普通だったらこの世界で生きていけない。——ナディア、ドラガンの食事の習慣を調べてくれ。何を食べるか、誰が用意するか、毒味役はいるか。全部だ」
「二日で?」
「一日半。残りの半日は計画に使う」
ナディアは三秒黙った。それから、外套の襟を正して扉に向かった。
「一日半。——あたしの情報網を、全部使う」
扉が閉まった。
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その夜、小屋の外で聞き慣れない足音がした。
ナディアではない。リナでもない。翔太でもなかった。
足音は小屋の前で止まり、扉は叩かれなかった。代わりに、低い女の声が聞こえた。
「おはようございます。——起きていらっしゃいますか」
敬語だった。第七環で敬語を使う人間は珍しい。丁寧さが不自然なほどに整っている。声は若い。二十代前半か。
賢治は藁束の下に毒の試作品を押し込み、メモ帳を閉じてから扉を開けた。
女が立っていた。
銀がかった金髪のショートボブ。碧い目。色白で、細身。黒い外套を羽織り、腰に投げナイフの鞘を複数つけたベルトを巻いている。身長は百六十二センチほど。 顔立ちは整っているが、表情が——無い。笑ってもいない。怒ってもいない。ただそこに在るだけの、ガラス玉のような碧い目が、賢治を真っ直ぐに見ている。
「セレナと申します。本日より、蒸留師殿の護衛を務めます。ヴォルクさまの命です」
護衛。 賢治はその言葉を三秒で翻訳した。監視だ。
ヴォルクが動いた。毒の調合を任せたということは、賢治の重要度が上がったということだ。重要な駒には見張りをつける。
「……中に入るか」
「いえ。外におります」
「立ったままか」
「はい」
「何時間でも?」
「ご命令があるまで」
賢治はセレナの碧い目を見た。 嘘はない。この女は本当にここに立ち続けるつもりだ。感情の色が見えない。忠誠とも義務とも違う、もっと機械的な——自分自身を道具として運用している人間の目だった。
「……好きにしろ」
扉を閉めた。
***
翌日——残り二日目の昼。
「佐伯さーん、いるー?」
明るい声。馴れ馴れしい口調。 城島雄一だった。
三十五歳。元営業マン。転移者の中では数少ない「第七環でもやっていける」タイプの男で、百七十センチの中肉中背、日焼けした丸顔にいつも人懐こい笑みを貼りつけている。目は細く、笑うと完全に線になる。理刻は持っていない。だが口の上手さと愛想の良さで、第七環の住人たちと最も早く馴染んだ人間の一人だった。
扉を開けると、城島が片手を上げた。
「よう。元気?——おっと」
城島の目が、扉の横に立つセレナを捉えた。
「誰、この子。すっごい美人じゃん。佐伯さん、いつの間にそんなコネ作ったの」
セレナは城島を一瞥し、何も言わなかった。存在しないものを見るような目だった。城島は気にしない。このタイプの男は、無視されても気にならないか、気にならないふりが上手い。
「で、佐伯さん。ちょっと相談なんだけどさ」
城島が小屋に入り、壁にもたれた。賢治は作業台の前に座ったまま動かなかった。
「最近さ、第六環の辺りですっごい薬が流行ってるって話、聞いた?」
賢治の指が止まった。 止まったのは一瞬だけだったが、城島の目はそれを見逃さなかった。営業マンの目だ。相手の微細な反応を読む訓練を十年以上積んでいる。
「一滴で天国に行けるってやつ。蒸留師とかいう人が作ってるって。——いやあ、すごいよね。こんな世界に来ても商売できる人はできるんだなあ」
城島の声は明るい。世間話のトーンだ。 だが、目が笑っていなかった。細い目の奥で、計算が回っている。
「……聞いたことはある」
「だよねー。佐伯さん、元々薬の研究してたんだっけ。もしかして知り合いとか——」
「知らない。俺は近所の人間に薬草の塗り薬を分けてるだけだ」
城島は三秒間、賢治を見つめた。 それから、にっこりと笑った。
「だよね。佐伯さんがそんなことするわけないか。——いやー、でも不思議だよね。第七環から出てくる薬がなんで第六環で売れるのかなーって。ま、いいや。また来るよ」
城島が出ていった。 扉が閉まった後、賢治はメモ帳の端に短く書いた。
『城島——注視。』
今は城島に構っている余裕はない。リナが先だ。
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残り二日目の夜。ナディアが戻ってきた。
情報の束を、口頭で叩きつけるように報告する。
「ドラガンの食事は一日二回。朝と夜。作るのは専属の料理番が一人。名前はグレゴリー。五十代の男で、ドラガンに二十年仕えてる。忠誠心は高い——が、半年前から腰を痛めてて、薬師に通ってる」
「毒味役は」
「いる。ドラガン直属の側近、ニコルという男。食事の前に必ず毒味する。問題は——こいつが異常なほど舌が鋭い。味の変化を即座に見抜く。普通の毒は全部弾かれる」
「この毒は無味無臭だ」
「味はな。だがニコルは味だけじゃない。食感の変化も見る。液体の粘度、口当たりの微妙な差——全部チェックする。あいつの舌は理刻並みだ」
賢治は黙って考えた。 無味無臭でも、溶媒に溶かしたときに粘度が変わる可能性はある。水溶液にすれば変化は最小限だが、ゼロではない。
「ドラガンは何を飲む」
「酒だ。安い蒸留酒を、木の杯で飲む。——本人は味がわかるわけじゃない。ただ、強い酒を量で飲む。そういう男だ」
「蒸留酒か」
賢治の目が光った。 蒸留酒——アルコール度数の高い酒。エタノールが主成分。この毒はインドール誘導体だから、エタノールへの溶解度は水より高い。しかも蒸留酒は味が強い。微量の添加物による粘度変化は、アルコールの刺激で完全にマスクされる。
「毒味役のニコル。あいつも酒を味見するのか」
「する。杯に口をつけて一口飲む。それで異常がなければドラガンに渡す」
「一口で?」
「ああ、一口だ」
賢治はメモ帳に数字を走らせた。 この毒の致死量は体重一キロあたり〇・〇三ミリグラム。体重九十キロのドラガンなら二・七ミリグラムが必要。だが毒味役が一口飲むことを前提にすると——
「ナディア。毒味役のニコルの体重は」
「……は? そんなもん知るわけないだろう」
「見た目で。太ってるか、痩せてるか」
「痩せてる。背も低い。百六十ちょっとか」
百六十センチの痩身。推定体重五十五キロ前後。致死量は一・六五ミリグラム。
杯一杯が約百ミリリットルだとする。そこに三ミリグラムの毒を溶かす。毒味役が一口——十ミリリットル飲むと、摂取量は〇・三ミリグラム。致死量の五分の一。死なない。心臓が少しだけ不規則に打つ程度で、自覚症状はほぼない。
だがドラガンが残り九十ミリリットルを飲めば——二・七ミリグラム。致死量。
「……量を調整する。毒味役は死なないが、ドラガンは死ぬ。そういう濃度に合わせる」
ナディアの目が見開かれた。
「毒味をすり抜けるのか」
「すり抜けるんじゃない。毒味役が飲む量と、ドラガンが飲む量の差を利用する。——毒は量だ。パラケルススが五百年前に言った。『すべての物質は毒であり、毒でないものはない。量だけが毒と薬を分ける』」
ナディアは賢治を見つめた。
「……あんた、製薬会社で何やってたんだ。本当に」
「薬を作ってた。——毒の作り方も、同じ教科書に書いてある」
ナディアは何も言わなかった。 五秒ほど賢治の目を見つめ、それから小さく頷いた。
「で、酒瓶にどうやって入れる」
「そこだ。——カティアの瞬歩で、宴会の直前に酒瓶に混入できるか」
「場所がわかれば。宴会場は地下のホールだ。酒瓶は棚に並べてある。番兵は入口に二人。地下への階段に一人」
「カティアなら番兵を避けて入れるか」
「入れるだろう。だが——問題が一つある」
「何だ」
「棚に酒瓶が十二本ある。ドラガンがどの瓶を開けるか、事前にはわからない。一本だけに入れたら、外れる可能性がある」
賢治は三秒黙った。
「全部に入れろ」
ナディアの口が、僅かに開いた。
「全部? 十二本全部に?」
「致死量を十二で割る。各瓶に入れる量は微量だ。カティアの作業時間も短くて済む」
「だが——それだと、ドラガンが一本しか飲まなかった場合、致死量に届かない」
「ドラガンは量で飲む男だと、お前が言った。宴席で一本で済ませるか?」
ナディアは黙った。それから、低く唸った。
「……三本は飲む。少なくとも」
「三本分で致死量に届くように調整する。毒味役が各瓶から一口ずつ飲んでも、分散されるから致死量には遠く及ばない。ドラガンだけが——杯を重ねるごとに、閾値に近づく」
「ドラガンは自分で自分を殺すのか。——酒を飲めば飲むほど、死に近づくのか」
「そうだ」
沈黙が落ちた。 油灯の炎が揺れ、二人の影が壁の上で歪んでいた。
「……残酷だな、あんた」
「残酷なのは毒じゃない。毒を必要とする状況だ」
「それ、自分に言い聞かせてるだろう」
賢治は答えなかった。 メモ帳に計算結果を書き込んだ。数字の列。濃度と体重と致死量。製薬会社の品質管理報告書と同じ書式で、人殺しの計画を記録した。
***
三日目の朝。毒が完成した。
陶器の欠片に載せた透明な液滴。見た目はヴィオラ・ドロップとまったく同じだ。匂いもない。味もない。舌に触れた瞬間に粘膜から吸収され、三十分後に心臓を止める。
名前が必要だった。
「静寂。心臓を静かに止めるから」
「……そのまんまだな」
「わかりやすい方がいい。間違って使われたら困る」
ナディアは何も言わず頷いた。名前などどうでもいい。中身が問題だ。この女はそういう優先順位で動く。
賢治は静寂を十二の小瓶に分注した。各瓶に微量ずつ。計算通りの配分。
「ヴォルクに届ける。——外の女には見せるな」
「セレナか。ヴォルクの目だ。毒の存在を知っているのと、完成品を見るのとでは情報の価値が違う」
「わかってる」
ナディアが十二の小瓶を布で包み、外套の内側に仕込んだ。
***
ナディアが出ていった後、賢治はセレナに声をかけた。
「セレナ」
「はい」
「何時間立ってる」
「本日は七時間ほどです」
「飯は食ったか」
「任務中ですので」
「七時間立ちっぱなしで飯も食わないのか」
「はい」
賢治は藁束の下から、翔太が持ってきた干し肉の残りを取り出した。
「食え」
セレナの碧い目が、干し肉と賢治の顔を交互に見た。
「……任務中です」
「食え。倒れられたら俺が困る。護衛が飢えて動けないんじゃ、護衛の意味がない。——それとも、ヴォルクは護衛を飢えさせろと命じたのか」
セレナは三秒間黙った。 それから、干し肉を受け取った。左手で。右手は投げナイフの柄にかけたまま。
「……いただきます」
小さな声だった。 敬語は崩れなかった。表情も変わらなかった。だが——干し肉を噛むとき、顎の動きがほんの僅かだけ早かった。
腹が減っていたのだ。七時間も。
賢治は何も言わず、小屋に戻った。 扉を閉める前に、一瞬だけ振り返った。月光の下で、銀がかった金髪の女が干し肉を齧っている。碧い目は正面を向いたまま。任務の姿勢は崩さない。ただ顎だけが動いている。
——この女も、誰かの道具だ。
賢治は扉を閉じた。 今夜、カティアが動く。 自分の作った毒が、人を殺す。
藁束の上に座り、メモ帳を開いた。
『静寂——完成。十二瓶に分注。 今夜、赤牙のアジトにカティアが潜入。 投与法:蒸留酒への混入。 設計通りに動けば、ドラガンは三杯目までに致死量に到達する。 毒味役は生存する計算。 計算が合っていれば——リナは帰ってくる。 合っていなければ——指が送られてくる。』
ペンを置いた。
毒を作った日の夜は、眠れないと思っていた。 三分で眠った。 そのことに気づいたのは翌朝だった。
——人を殺す道具を作った夜に、三分で眠れた。
賢治はその事実をメモ帳に書かなかった。 書けなかった。書いたら、認めることになるから。
***




