↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
紫の雫(ヴィオラ・ドロップ) ——異世界に転移した薬学者は、毒と薬で裏社会の頂点に立つ —   作者: イロハ
第一部「灰の檻」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/46

第11話 調合

***


 毒を作る工程は、薬を作る工程と何も変わらなかった。  そのことが、賢治には一番堪えた。


 夜哭き菫から有効成分を抽出する。理刻で分子を「視る」。不要な原子団を切り離し、必要な官能基を導入する。手順は抗菌剤を精製したときと全く同じだ。  違うのは、目的だけだった。


 人を治すか、殺すか。  その一点だけが違っていて、手の動きは同じで、精度も同じで、かかる時間もほとんど同じだった。


 賢治は小屋の床に座り、陶器の欠片の上でボールペンの先を使い、分子レベルの作業を続けていた。  インドール骨格の5位——ヒドロキシ基がついていた位置を、カルボキシル基に置換する。次に、ピリジン環の窒素原子の隣にフッ素を一つ導入する。


 これで完成だ。


 ヴィオラ・ドロップの多幸感を誘発するセロトニン受容体への親和性が消え、代わりに心筋のカリウムチャネルを阻害する構造が残る。投与後三十分から一時間で不整脈が発生し、心室細動を経て心停止に至る。  外傷は一切残らない。この世界の医学では、「急に心臓が止まった」としか判断できない。


 ——完璧な毒だ。


 賢治はその言葉を頭の中で転がし、それから吐き気を堪えた。  「完璧な毒」という言葉を、自分の仕事に対する評価として自然に受け入れかけている。その事実が、吐き気の本当の原因だった。


***


 毒の試作が終わった直後、ナディアが飛び込んできた。  走ってきたのだ。この女が走るのを、賢治は初めて見た。


「リナが攫われた」


 血の気が引く、という表現を、賢治はこのとき初めて体で理解した。指先から温度が消えていく感覚。視界が一瞬だけ白くなり、すぐに戻る。


「赤牙か」


「ドラガンが直接出てきた。第六環の東路地で、うちの走り屋三人が捕まった。リナと、あと二人。——ドラガンがリナの腕を掴んで、こう言ったらしい」


 ナディアの声が低くなった。


「『蒸留師とかいう鼠を連れてこい。そうすりゃこのガキは返す。三日待つ。四日目には——指から送る』」


 賢治の手が、メモ帳の上で止まった。


「……リナの状態は」


「殴られてはいない。まだ。ドラガンは交渉材料を傷つけない程度の知恵はある。だが——」


「だが?」


「あの男が本気で怒ると、知恵が吹き飛ぶ。噂じゃない、あたしが直接見たことがある」


 ナディアが壁にもたれた。いつもの余裕がない。黒い目が据わっている。


「三年前、赤牙の下っ端がドラガンの女に手を出した。ドラガンはそいつを広場に引きずり出して、硬化した拳で——殴った。一発。一発だけだ」


 ナディアが息を吸った。


「頭が割れた。石の拳で人間の頭を殴るとどうなるか、あたしはあのとき初めて知った。——西瓜と同じだ」


 賢治は黙っていた。


「ドラガンの理刻は身体硬化だ。肉体を石に変える。防御だけじゃない。硬化した体で殴れば、それ自体が凶器になる。石の塊が人間の速度で動く。剣で斬っても弾かれる。槍で突いても通らない。第六環で十年、あの男に正面から勝てた人間はいない」


「……時間制限があるんだろう。硬化中は呼吸が止まる」


「二分だ。だが——二分もあれば、この路地の端から端まで走って、途中の人間を全員殴り殺せる。時間制限は弱点じゃない。二分の間は、あの男は不死身だ」


 賢治はメモ帳に目を落とした。  陶器の欠片の上に、透明な液滴——毒の試作品が載っている。


「……リナを取り返す方法は」


「正面から行ったら死ぬ。カティアの理刻——瞬歩っていう、目で追えないほどの速さで短距離を跳ぶ能力だが——あれでドラガンに近づいても、硬化されたら斬れない。マーラの力でも、石になった体は砕けない。ザハールなら——あの人なら或いは。だがザハールは動かないだろう。ヴォルクの許可なしには」


「ヴォルクは」


「報告した。答えは——『三日以内に蒸留師が解決しろ。それが試験だ』」


 試験。


 賢治は唇を噛んだ。ヴォルクは赤牙の襲撃を、賢治への試験に使っている。リナの命を天秤に載せたまま、賢治がどう動くかを見ている。助けを求めるか。逃げるか。——それとも、自分の力で解決するか。


「三日。毒は——あと一日で完成する」


「完成してどうする。ドラガンに飲ませる方法がないだろう」


「考える」


「考えて、三日で?」


「二日で考えて、一日で実行する」


 ナディアの黒い目が、賢治を見た。  この女は情報屋だ。嘘を見抜く。はったりも見抜く。だが——このとき、ナディアが賢治の目に見たのは、嘘でもはったりでもなかった。


 計算だった。


 追い詰められた男が、感情ではなく計算で状況を見ている。怒りでもなく恐怖でもなく、ただ——変数を並べて、解を探している目。


「……あんた、やっぱり普通じゃないな」


「普通だったらこの世界で生きていけない。——ナディア、ドラガンの食事の習慣を調べてくれ。何を食べるか、誰が用意するか、毒味役はいるか。全部だ」


「二日で?」


「一日半。残りの半日は計画に使う」


 ナディアは三秒黙った。それから、外套の襟を正して扉に向かった。


「一日半。——あたしの情報網を、全部使う」


 扉が閉まった。


***


 その夜、小屋の外で聞き慣れない足音がした。


 ナディアではない。リナでもない。翔太でもなかった。


 足音は小屋の前で止まり、扉は叩かれなかった。代わりに、低い女の声が聞こえた。


「おはようございます。——起きていらっしゃいますか」


 敬語だった。第七環で敬語を使う人間は珍しい。丁寧さが不自然なほどに整っている。声は若い。二十代前半か。


 賢治は藁束の下に毒の試作品を押し込み、メモ帳を閉じてから扉を開けた。


 女が立っていた。


 銀がかった金髪のショートボブ。碧い目。色白で、細身。黒い外套を羽織り、腰に投げナイフの鞘を複数つけたベルトを巻いている。身長は百六十二センチほど。  顔立ちは整っているが、表情が——無い。笑ってもいない。怒ってもいない。ただそこに在るだけの、ガラス玉のような碧い目が、賢治を真っ直ぐに見ている。


「セレナと申します。本日より、蒸留師殿の護衛を務めます。ヴォルクさまの命です」


 護衛。  賢治はその言葉を三秒で翻訳した。監視だ。


 ヴォルクが動いた。毒の調合を任せたということは、賢治の重要度が上がったということだ。重要な駒には見張りをつける。


「……中に入るか」


「いえ。外におります」


「立ったままか」


「はい」


「何時間でも?」


「ご命令があるまで」


 賢治はセレナの碧い目を見た。  嘘はない。この女は本当にここに立ち続けるつもりだ。感情の色が見えない。忠誠とも義務とも違う、もっと機械的な——自分自身を道具として運用している人間の目だった。


「……好きにしろ」


 扉を閉めた。


***


 翌日——残り二日目の昼。


「佐伯さーん、いるー?」


 明るい声。馴れ馴れしい口調。  城島雄一だった。


 三十五歳。元営業マン。転移者の中では数少ない「第七環でもやっていける」タイプの男で、百七十センチの中肉中背、日焼けした丸顔にいつも人懐こい笑みを貼りつけている。目は細く、笑うと完全に線になる。理刻は持っていない。だが口の上手さと愛想の良さで、第七環の住人たちと最も早く馴染んだ人間の一人だった。


 扉を開けると、城島が片手を上げた。


「よう。元気?——おっと」


 城島の目が、扉の横に立つセレナを捉えた。


「誰、この子。すっごい美人じゃん。佐伯さん、いつの間にそんなコネ作ったの」


 セレナは城島を一瞥し、何も言わなかった。存在しないものを見るような目だった。城島は気にしない。このタイプの男は、無視されても気にならないか、気にならないふりが上手い。


「で、佐伯さん。ちょっと相談なんだけどさ」


 城島が小屋に入り、壁にもたれた。賢治は作業台の前に座ったまま動かなかった。


「最近さ、第六環の辺りですっごい薬が流行ってるって話、聞いた?」


 賢治の指が止まった。  止まったのは一瞬だけだったが、城島の目はそれを見逃さなかった。営業マンの目だ。相手の微細な反応を読む訓練を十年以上積んでいる。


「一滴で天国に行けるってやつ。蒸留師とかいう人が作ってるって。——いやあ、すごいよね。こんな世界に来ても商売できる人はできるんだなあ」


 城島の声は明るい。世間話のトーンだ。  だが、目が笑っていなかった。細い目の奥で、計算が回っている。


「……聞いたことはある」


「だよねー。佐伯さん、元々薬の研究してたんだっけ。もしかして知り合いとか——」


「知らない。俺は近所の人間に薬草の塗り薬を分けてるだけだ」


 城島は三秒間、賢治を見つめた。  それから、にっこりと笑った。


「だよね。佐伯さんがそんなことするわけないか。——いやー、でも不思議だよね。第七環から出てくる薬がなんで第六環で売れるのかなーって。ま、いいや。また来るよ」


 城島が出ていった。  扉が閉まった後、賢治はメモ帳の端に短く書いた。


 『城島——注視。』


 今は城島に構っている余裕はない。リナが先だ。


***


 残り二日目の夜。ナディアが戻ってきた。


 情報の束を、口頭で叩きつけるように報告する。


「ドラガンの食事は一日二回。朝と夜。作るのは専属の料理番が一人。名前はグレゴリー。五十代の男で、ドラガンに二十年仕えてる。忠誠心は高い——が、半年前から腰を痛めてて、薬師に通ってる」


「毒味役は」


「いる。ドラガン直属の側近、ニコルという男。食事の前に必ず毒味する。問題は——こいつが異常なほど舌が鋭い。味の変化を即座に見抜く。普通の毒は全部弾かれる」


「この毒は無味無臭だ」


「味はな。だがニコルは味だけじゃない。食感の変化も見る。液体の粘度、口当たりの微妙な差——全部チェックする。あいつの舌は理刻並みだ」


 賢治は黙って考えた。  無味無臭でも、溶媒に溶かしたときに粘度が変わる可能性はある。水溶液にすれば変化は最小限だが、ゼロではない。


「ドラガンは何を飲む」


「酒だ。安い蒸留酒を、木の杯で飲む。——本人は味がわかるわけじゃない。ただ、強い酒を量で飲む。そういう男だ」


「蒸留酒か」


 賢治の目が光った。  蒸留酒——アルコール度数の高い酒。エタノールが主成分。この毒はインドール誘導体だから、エタノールへの溶解度は水より高い。しかも蒸留酒は味が強い。微量の添加物による粘度変化は、アルコールの刺激で完全にマスクされる。


「毒味役のニコル。あいつも酒を味見するのか」


「する。杯に口をつけて一口飲む。それで異常がなければドラガンに渡す」


「一口で?」


「ああ、一口だ」


 賢治はメモ帳に数字を走らせた。  この毒の致死量は体重一キロあたり〇・〇三ミリグラム。体重九十キロのドラガンなら二・七ミリグラムが必要。だが毒味役が一口飲むことを前提にすると——


「ナディア。毒味役のニコルの体重は」


「……は? そんなもん知るわけないだろう」


「見た目で。太ってるか、痩せてるか」


「痩せてる。背も低い。百六十ちょっとか」


 百六十センチの痩身。推定体重五十五キロ前後。致死量は一・六五ミリグラム。


 杯一杯が約百ミリリットルだとする。そこに三ミリグラムの毒を溶かす。毒味役が一口——十ミリリットル飲むと、摂取量は〇・三ミリグラム。致死量の五分の一。死なない。心臓が少しだけ不規則に打つ程度で、自覚症状はほぼない。


 だがドラガンが残り九十ミリリットルを飲めば——二・七ミリグラム。致死量。


「……量を調整する。毒味役は死なないが、ドラガンは死ぬ。そういう濃度に合わせる」


 ナディアの目が見開かれた。


「毒味をすり抜けるのか」


「すり抜けるんじゃない。毒味役が飲む量と、ドラガンが飲む量の差を利用する。——毒は量だ。パラケルススが五百年前に言った。『すべての物質は毒であり、毒でないものはない。量だけが毒と薬を分ける』」


 ナディアは賢治を見つめた。


「……あんた、製薬会社で何やってたんだ。本当に」


「薬を作ってた。——毒の作り方も、同じ教科書に書いてある」


 ナディアは何も言わなかった。  五秒ほど賢治の目を見つめ、それから小さく頷いた。


「で、酒瓶にどうやって入れる」


「そこだ。——カティアの瞬歩で、宴会の直前に酒瓶に混入できるか」


「場所がわかれば。宴会場は地下のホールだ。酒瓶は棚に並べてある。番兵は入口に二人。地下への階段に一人」


「カティアなら番兵を避けて入れるか」


「入れるだろう。だが——問題が一つある」


「何だ」


「棚に酒瓶が十二本ある。ドラガンがどの瓶を開けるか、事前にはわからない。一本だけに入れたら、外れる可能性がある」


 賢治は三秒黙った。


「全部に入れろ」


 ナディアの口が、僅かに開いた。


「全部? 十二本全部に?」


「致死量を十二で割る。各瓶に入れる量は微量だ。カティアの作業時間も短くて済む」


「だが——それだと、ドラガンが一本しか飲まなかった場合、致死量に届かない」


「ドラガンは量で飲む男だと、お前が言った。宴席で一本で済ませるか?」


 ナディアは黙った。それから、低く唸った。


「……三本は飲む。少なくとも」


「三本分で致死量に届くように調整する。毒味役が各瓶から一口ずつ飲んでも、分散されるから致死量には遠く及ばない。ドラガンだけが——杯を重ねるごとに、閾値に近づく」


「ドラガンは自分で自分を殺すのか。——酒を飲めば飲むほど、死に近づくのか」


「そうだ」


 沈黙が落ちた。  油灯の炎が揺れ、二人の影が壁の上で歪んでいた。


「……残酷だな、あんた」


「残酷なのは毒じゃない。毒を必要とする状況だ」


「それ、自分に言い聞かせてるだろう」


 賢治は答えなかった。  メモ帳に計算結果を書き込んだ。数字の列。濃度と体重と致死量。製薬会社の品質管理報告書と同じ書式で、人殺しの計画を記録した。


***


 三日目の朝。毒が完成した。


 陶器の欠片に載せた透明な液滴。見た目はヴィオラ・ドロップとまったく同じだ。匂いもない。味もない。舌に触れた瞬間に粘膜から吸収され、三十分後に心臓を止める。


 名前が必要だった。


「静寂(サイレンス)。心臓を静かに止めるから」


「……そのまんまだな」


「わかりやすい方がいい。間違って使われたら困る」


 ナディアは何も言わず頷いた。名前などどうでもいい。中身が問題だ。この女はそういう優先順位で動く。


 賢治は静寂を十二の小瓶に分注した。各瓶に微量ずつ。計算通りの配分。


「ヴォルクに届ける。——外の女には見せるな」


「セレナか。ヴォルクの目だ。毒の存在を知っているのと、完成品を見るのとでは情報の価値が違う」


「わかってる」


 ナディアが十二の小瓶を布で包み、外套の内側に仕込んだ。


***


 ナディアが出ていった後、賢治はセレナに声をかけた。


「セレナ」


「はい」


「何時間立ってる」


「本日は七時間ほどです」


「飯は食ったか」


「任務中ですので」


「七時間立ちっぱなしで飯も食わないのか」


「はい」


 賢治は藁束の下から、翔太が持ってきた干し肉の残りを取り出した。


「食え」


 セレナの碧い目が、干し肉と賢治の顔を交互に見た。


「……任務中です」


「食え。倒れられたら俺が困る。護衛が飢えて動けないんじゃ、護衛の意味がない。——それとも、ヴォルクは護衛を飢えさせろと命じたのか」


 セレナは三秒間黙った。  それから、干し肉を受け取った。左手で。右手は投げナイフの柄にかけたまま。


「……いただきます」


 小さな声だった。  敬語は崩れなかった。表情も変わらなかった。だが——干し肉を噛むとき、顎の動きがほんの僅かだけ早かった。


 腹が減っていたのだ。七時間も。


 賢治は何も言わず、小屋に戻った。  扉を閉める前に、一瞬だけ振り返った。月光の下で、銀がかった金髪の女が干し肉を齧っている。碧い目は正面を向いたまま。任務の姿勢は崩さない。ただ顎だけが動いている。


 ——この女も、誰かの道具だ。


 賢治は扉を閉じた。  今夜、カティアが動く。  自分の作った毒が、人を殺す。


 藁束の上に座り、メモ帳を開いた。


 『静寂(サイレンス)——完成。十二瓶に分注。   今夜、赤牙のアジトにカティアが潜入。   投与法:蒸留酒への混入。   設計通りに動けば、ドラガンは三杯目までに致死量に到達する。   毒味役は生存する計算。   計算が合っていれば——リナは帰ってくる。   合っていなければ——指が送られてくる。』


 ペンを置いた。


 毒を作った日の夜は、眠れないと思っていた。  三分で眠った。  そのことに気づいたのは翌朝だった。


 ——人を殺す道具を作った夜に、三分で眠れた。


 賢治はその事実をメモ帳に書かなかった。  書けなかった。書いたら、認めることになるから。


***


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。