第12話 赤牙襲撃
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カティアは退屈だった。
赤毛のツインテールを指先でくるくると巻きながら、廃屋の屋根の上で両足を投げ出して座っている。隣にマーラが腕を組んで立っていた。鉄色の目が、階下の路地を監視している。
「ねー、マーラ。まだー?」
「黙れ。合図を待て」
「待つの嫌い。暇。——ねえ、下にいるの何人?」
「番兵が入口に二人。階段に一人。地下の宴会場に推定十五名」
「十八人かあ。全部あたしが切っていい?」
「駄目だ。今回は毒を使う。お前は酒瓶に仕込むだけだ」
カティアが頬を膨らませた。丸い顔が、百五十センチの小柄な体の上で子供のように揺れている。腰の短剣二本が月光を受けて鈍く光っていた。
「毒ってつまんないよね。切らないと。切って、血が出て、相手がびっくりした顔するのが面白いのに」
「お前の趣味の話は聞いてない」
「趣味じゃないよ。仕事だよ。——あたしは切るのが仕事。毒を盛るのは蒸留師さんの仕事。仕事を取られたみたいでやだ」
マーラはカティアを見なかった。 ただ、鉄色の目が僅かに細くなった。この少女の残虐は生まれつきのものだ。矯正できない。利用するしかない。ヴォルクはそれを知っていて、カティアを飼っている。
路地の角から、ナディアの使いの少年が合図の布を振った。白い布を三回。——準備完了。宴会が始まった。
「よーし。行くよー」
カティアが屋根の端に立った。 百五十センチの小柄な体が——消えた。
***
カティアの理刻は『瞬歩』と呼ばれている。
瞬間移動ではない。正確には——視認できないほどの速度で短距離を移動する能力だ。最大距離は約十五メートル。連続使用は三回まで。三回使うと、十秒のインターバルが必要になる。
屋根から地面まで——一回。 入口の番兵二人の間を抜ける——二回。 階段の番兵の背後を通過する——三回。
三回。
カティアは地下への階段を降りながら、壁に背をつけた。十秒のインターバル。心臓が速く打っている。瞬歩の反動で、ふくらはぎが痛い。
階段の下から、宴会の音が聞こえてきた。 男たちの怒鳴り声。杯がぶつかる音。女の笑い声。肉の焼ける匂い。
そして——一つだけ、他とは質の違う声が聞こえた。
低い。地面から這い上がってくるような、腹の底に直接響く声。笑っているようでいて、笑いの中に鉄の味がする声。
ドラガンの声だった。
「——だからよ、あのガキ。蒸留師のガキな。あれが泣くのが面白くてよ。腕を掴んだらパキパキ音がしやがんの。鳥の骨みてえだ。折っていいかなーって思ったけどよ、交渉の材料だからな。我慢した。俺が我慢するってことは、よっぽどだぜ?」
カティアは眉を上げた。 ——この人、リナちゃんの腕を折ろうとしたんだ。ふーん。
感想はそれだけだった。善悪の判断はカティアの中に存在しない。ただ——蒸留師のもの(リナ)に手を出したこの男を、ヴォルクが殺せと言っている。それだけで十分だった。
十秒が経過した。瞬歩の使用回数がリセットされる。
カティアは階段の壁に沿って地下のホールを覗いた。 広い空間。天井は低い。石柱が四本。中央に長い木の卓。その周囲に男たちが座っている。
ドラガンは——卓の最奥にいた。
百九十五センチの巨体が、椅子からはみ出している。丸太のような腕が卓の上に載り、肉を掴んで齧っている。髭面。首に蛇の刺青。目は小さいが、その小さな目の奥に——炉の中の石炭のような、赤暗い光が宿っていた。 あの男が硬化したら、この部屋の中の誰も止められない。
ドラガンの右隣に、痩せた男が座っている。ニコル。毒味役。目が鋭く、口元が常に緊張している。卓の上の皿と杯を、常に視線で追っている。
卓の後方の壁際に、酒棚があった。木の板を横に渡しただけの粗末な棚に、陶器の酒瓶が——十二本。ナディアの情報通りだった。
ここからが問題だ。
棚までの距離は約八メートル。瞬歩で到達できる。だが——十二本の瓶に一本ずつ蓋を開けて毒を入れて蓋を閉める作業は、瞬歩では不可能だ。瞬歩は移動だけ。作業には通常の速度しか使えない。
蒸留師が渡してきた小瓶は十二本。各瓶の蓋を開け、中身を注ぎ、蓋を閉める。一本あたり五秒としても、六十秒。一分間、宴会場の壁際で作業をする必要がある。
見つかったら——ドラガンが硬化して殴りかかってくる。瞬歩三回で逃げられるか。たぶん、無理だ。この地下室には出口が一つしかない。
カティアは腰のポケットから、十二本の小瓶を取り出した。 蒸留師が渡してきたときの言葉を思い出す。
「——各瓶に、上から四番目の目盛りまで入れろ。それ以上は入れるな。それ以下でも駄目だ。量が合わないと毒味役が死ぬ。毒味役が死んだら、ドラガンは杯に口をつけない。計画が破綻する」
細かい男だ、と思った。切るだけでいいのに。
だが——ヴォルクの命だ。
「えへへ。やるかー」
カティアは壁に沿って身を低くした。 宴会場の端——石柱の影に身を隠しながら、酒棚に近づいていく。
ドラガンが怒鳴った。
「おい! 酒! 酒持ってこい!」
カティアは凍りついた。 棚のすぐ横——三メートル先に、給仕の男が立ち上がった。棚に向かって歩いてくる。
カティアは石柱の陰で息を殺した。百五十センチの体が、影の中に溶け込む。給仕の男が棚から瓶を一本取り、卓に戻っていった。
——今だ。
給仕が卓に気を取られている間に、カティアは棚の前に滑り込んだ。 一本目。蓋を開ける。小瓶の中身を注ぐ。四番目の目盛りまで。蓋を閉める。 二本目。三本目。四本目。
手が速い。短剣を扱う指先は、小瓶の蓋を開閉する程度の作業なら目を瞑ってもできる。 五本目。六本目。七本目。
背後で、椅子が鳴った。 カティアの手が止まった。
振り返らない。振り返ったら影から顔が出る。耳だけで判断する。 椅子を引いたのは——ニコルだ。毒味役が立ち上がった。
足音がこちらに向かっている。
カティアは七本目の蓋を閉め、残り五本を外套の内側に押し込んだ。瞬歩を一回使い、石柱の裏に跳んだ。 ニコルが棚の前に来た。瓶を一本手に取り、蓋を開け、指先に液を取って舐めた。
カティアは石柱の裏で心臓の音を聞いていた。 ニコルが今手に取ったのは——何本目の瓶だ。毒を入れた七本のうちの一つか、まだ入れていない五本のうちの一つか。
ニコルが瓶を棚に戻した。 表情は変わらなかった。異常なし。——毒を入れた瓶だったとしても、指先に取った程度の量では味も変わらない。
ニコルが卓に戻った。
カティアは息を吐いた。——残り五本。
三分後、カティアは十二本全ての瓶に静寂を注ぎ終えた。 外套の内側の小瓶は全て空。石柱の陰から、宴会場の出口に向けて瞬歩二回で離脱した。
階段を駆け上がる。番兵の横を抜ける。夜風が頬を叩いた。
屋根の上で、マーラが待っていた。
「終わった?」
「終わったー。——ねえマーラ、あたし、今からでも切りに行っていい?」
「駄目だ。待て」
「えー」
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地下の宴会場では、酒が回り始めていた。
ドラガンが杯を掲げた。百九十五センチの巨体が、椅子の上で山のように聳えている。
「——聞け、野郎ども! 蒸留師とかいう鼠は、三日経っても顔を出さねえ。つまりあの鼠は、ガキを見捨てやがった。明日の朝、ガキの指を切って第七環に送りつける。それからゆっくり——あの鼠を探し出して、俺の拳で頭を割る」
歓声が上がった。杯がぶつかり合い、酒が卓上にこぼれた。
ニコルが新しい瓶を開けた。杯に注ぎ、一口飲んだ。 三秒待つ。体に異常はない。舌に違和感もない。
「——問題ありません」
ニコルがドラガンに杯を渡した。
ドラガンは一息で飲み干した。
「もう一杯」
二杯目。ニコルが別の瓶から注ぐ。一口飲む。異常なし。ドラガンに渡す。一息で空になる。
「もう一杯」
三杯目。
ドラガンの小さな目が、酒の赤みを帯びてきた。声が大きくなり、笑い声が地下室の天井に反響している。構成員たちも飲んでいる。同じ瓶からそれぞれの杯に注いで。
——誰も気づいていなかった。 一杯ごとに、ドラガンの心臓の中で、カリウムチャネルが一つずつ塞がれていることを。
***
屋根の上で、カティアが数えていた。
「一杯。二杯。三杯。——蒸留師さんが言ってた。三杯目で届くって」
マーラが黙って頷いた。
三十分後。
地下から——悲鳴が上がった。
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最初に異変に気づいたのは、ドラガン自身だった。
胸の奥で、何かが跳ねた。 心臓だ。一拍だけ、リズムが狂った。ドクン、と普通に打つべき拍動が、ドクドクン、と二重に打った。
ドラガンは杯を置いた。
「……なんだ?」
誰も答えなかった。ドラガンが独り言を言うことは珍しくない。構成員たちは酒を飲み続けている。
二拍目の乱れ。 今度は拍動が飛んだ。ドクン——空白——ドクン。一拍分、心臓が止まった。
ドラガンの顔色が変わった。 巨体が椅子の上で強張る。太い指が卓の縁を掴んだ。木が軋んだ。
「おい——おい、何だこれ。胸が——」
三拍目。 心室細動が始まった。
心臓が、規則正しいリズムを完全に失った。ドクドクドクドク——痙攣するように、不規則に、速く、浅く、意味のない収縮を繰り返す。血液を送り出す機能が停止した。
ドラガンが立ち上がった。 百九十五センチの巨体がよろめき、卓にぶつかった。杯が飛び散り、酒瓶が割れた。構成員たちが椅子を倒して立ち上がる。
「親分!?」
「何があった!」
ドラガンの目が見開かれた。小さな目が、恐怖で大きくなった。この男が恐怖を見せたのは——おそらく、生まれて初めてだった。
「毒——毒だ——!」
ドラガンが理刻を発動した。本能だった。危機に際して、体を硬化させる。石の体になれば、あらゆる攻撃を弾ける。
灰色の光が全身を覆い、ドラガンの皮膚が石のように硬化していく。腕が、胸が、顔が、岩の質感に変わる。
だが——心臓も硬化した。
硬化した心臓は、動けない。硬化を解除すれば心室細動が再開する。解除しなければ心臓が動かない。
どちらを選んでも、死ぬ。
ドラガンは硬化したまま、三歩歩いた。石の足が石の床を踏む音が、地下室に響いた。ゴン。ゴン。ゴン。 構成員たちが怯えて壁際に下がる。
四歩目で、ドラガンの膝が折れた。 百九十五センチの石像が、地下室の中央で崩れ落ちた。
石の表面に——亀裂が入った。 硬化が解除されていく。灰色の岩肌が、元の肌色に戻っていく。だが、肌色に戻った顔は——生きている人間の色ではなかった。
目は見開かれたまま。口は半開き。首の蛇の刺青が、油灯の光で青黒く浮いていた。
ドラガンは死んだ。 立ったまま、石になり、崩れ、人間に戻り、——人間に戻ったときにはもう、心臓は動いていなかった。
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地下室は混乱に陥った。 構成員たちが叫び、逃げ、ドラガンの体を揺さぶり、水をかけ、何の意味もない蘇生を試みている。
ニコルだけが、動かなかった。 毒味役の痩せた男は、自分の杯を見下ろしていた。自分が飲んだ酒。異常を感じなかった酒。——だが、親分は死んだ。毒だと、親分自身が言った。
ニコルの顔が蒼白になった。
「……俺が飲んで、何ともなかったのに——なぜ——」
答えは出ない。ニコルにはわからない。わかるはずがない。致死量の概念も、体重あたりの投与量計算も、この世界には存在しない。
毒味をすり抜ける毒。 味も匂いもなく、毒味役は殺さず、標的だけを殺す毒。
そんなものがこの世界に存在するということ自体が——恐怖だった。
階段の上から、足音が降りてきた。 一人の女が、宴会場の入口に立った。
黒髪ロングストレート。切れ長の目。百七十三センチ。モデル体型だが、肩に刀傷がある。黒い外套の下に、短剣と細身の長剣を帯びている。
ソフィア。赤牙の副長。
ソフィアはドラガンの死体を三秒だけ見た。 それから、卓の上の酒瓶を見た。割れた瓶と、まだ残っている瓶。
「——全員、酒を飲んだか」
「は、はい。全員……」
「飲んでない瓶はあるか」
「わかりません……」
ソフィアの切れ長の目が、棚を見た。空の瓶が四本。まだ栓が開いていない瓶が二本。残りは卓上に散らばっている。
「私は飲んでいない。今着いたばかりだ。——つまり、遅刻が命を拾った」
ソフィアはドラガンの死体の前にしゃがんだ。 巨体の顔を覗き込んだ。目を閉じさせた。
「……馬鹿な男だったが、強かった。——その強さを、無意味にする毒がある」
ソフィアが立ち上がった。
「撤収しろ。ここにいたら全員死ぬ。灰の商会が来る前に消えろ」
赤牙の構成員たちが、蜘蛛の子を散らすように地下室から逃げ出していった。 ソフィアは最後に残った。
ドラガンの死体を見下ろし——一度だけ、唇を噛んだ。それから背を向け、階段を上がっていった。
切れ長の目に浮かんでいたのは、悲しみではなかった。
計算だった。
***
翌朝。
リナが戻ってきた。
亜麻色の髪が汚れ、腕に掴まれた痕の青痣が残っていた。だが指は五本とも揃っている。
リナは賢治の小屋の前に立ち、薄い緑色の目で賢治を見上げた。
「……帰ってきた」
「ああ」
「ドラガンが死んだって。——あんたがやったの」
賢治は答えなかった。
「……ありがと」
リナの声は小さかった。感謝の言葉に慣れていない声だった。第七環の子供は「ありがとう」を使う機会が少ない。
リナは小屋の横を通り過ぎ、路地の奥に消えていった。裸足の足が、乾いた土を叩く音が遠ざかる。
セレナが三メートル先に立っている。碧い目が、リナの背中を見送っていた。 その目に——一瞬だけ、光が揺れた。
賢治は小屋に入り、藁束の上に座った。 メモ帳を開いた。
『赤牙壊滅。ドラガン死亡。 静寂の効果は設計通り。毒味役は生存。致死量計算に誤差なし。 副長ソフィア——逃亡。酒の席に遅れたため生存。 リナ回収。負傷あり、軽度。 課題: 一、ソフィアの動向。赤牙の残党を率いる可能性。 二、ドラガンの死因が「毒」であることは赤牙側に認知されている。 「毒味を突破する毒」の存在が、今後の脅威として広まる可能性。 三、城島雄一。引き続き注視。 四、ヴォルクへの依存度を下げる手段の模索。』
書き終えた。 メモ帳を閉じた。
ドラガンを殺した事実を、「設計通り」「誤差なし」の言葉で処理した。 処理できてしまった。
手は——震えていなかった。 昨夜は一分で眠れた。
そのことを、今度は——メモ帳に書かなかった。 書かなかったのではない。書く必要を感じなかった。
それが、三分と一分の差よりも——ずっと深い変化だということを、賢治はまだ知らなかった。
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