第13話 嗅ぐ犬
***
ドラガンが死んでから三日で、第六環の空気が変わった。
ナディアの言葉を借りれば、「匂いが変わった」。 赤牙の構成員たちが一晩で姿を消し、東部の路地から蛇の刺青をした人間が消えた。代わりに灰の商会の売り子たちが堂々と歩き始め、ヴィオラ・ドロップの取引量は三日で倍になった。
だが——もう一つの匂いが、それに混じって広がっていた。
恐怖だ。
ドラガンの死因を知る者は少ない。だが「毒味役が生きているのに親分が死んだ」という事実だけが、尾鰭をつけて第六環から第五環、第四環へと登っていった。 毒味を突破する毒。味も匂いもない。飲んだことすら気づかない。そして——三十分後に心臓が止まる。 噂は、尾鰭がつくたびに恐ろしくなった。
「——最近、第五環の商人たちが自前の食事を持参し始めたらしいぞ」
ナディアが報告した。
「外食を避けてる。酒場の酒を飲まない。水すら、自分で井戸から汲んだものしか口にしない。——あんたの毒が、五環の人間にまで影を落としてる」
賢治は小屋の藁束の上でメモ帳を開いていた。
「名前は出ているか。蒸留師の」
「直接は出ていない。だが——『灰の商会が新しい武器を手に入れた』という噂にはなってる。武器が何かまでは伝わっていないが、時間の問題だ」
賢治は頷いた。 情報は水のように高い場所から低い場所に流れる。そしてこの世界では、情報を金に換える人間が——第七環にも一人、いる。
***
城島雄一が三度目に現れたのは、ドラガンの死から四日後の昼だった。
前の二回とは、明らかに雰囲気が違っていた。
一回目は世間話。二回目は探り。三回目は——取引だった。 城島の顔には、いつもの人懐こい笑みが貼りついている。だが笑みの質が変わっていた。営業マンが契約を取りに来たときの笑みだ。相手の逃げ道を全部塞いでから、にっこり笑う。
「佐伯さん。——今日は、ちょっと真面目な話をしに来たんだ」
城島は小屋に入り、壁にもたれず、賢治の正面に立った。前の二回は壁にもたれていた。今回は——賢治の目を、真正面から見ている。
「単刀直入に言うよ。——佐伯さんが蒸留師だろう」
賢治は動かなかった。 指も、目も、呼吸も。何も変えなかった。十五年間の会社員生活で培った、感情を殺す技術がここで効いた。
「何の話だ」
「とぼけなくていいよ。——俺は営業十二年やってる。人が嘘をつくときの顔を、千人分は見てきた。佐伯さんが前に『知らない』って言ったとき、声は平気だったけど——指が止まった。ほんの一瞬だけ。それで十分だ」
城島の目が、笑みの裏で光っていた。
「第七環に住んでる元製薬会社の研究員。理刻は『等級外』って分類されてるけど、あれは能力がないって意味じゃない。鑑別官が理解できなかっただけだ。——薬草から何かを取り出す能力。違うか?」
賢治は黙っていた。
「赤牙のドラガンが死んだ。毒味役は生きてるのに。——あの毒を作れる人間は、この世界にはいない。でも、地球の製薬会社で分子レベルの研究をしてた人間なら——可能性はある」
城島は一歩、近づいた。
「佐伯さん。俺は敵じゃない。——味方になりたいんだ」
「味方」
「そう。ビジネスパートナー。——俺は営業ができる。人脈が作れる。第七環だけじゃなくて、第五環や第四環にも顔が利く。あんたの薬を、もっと広い市場に売り込める」
城島の目は真剣だった。笑みは消えていなかったが、その下にあるのは冗談ではなかった。
「で、俺の取り分は売上の三割。——悪い条件じゃないだろう?」
賢治は城島を見た。
この男は頭がいい。状況を正確に分析し、正確な結論に達し、正確なタイミングで交渉を持ちかけてきた。営業マンとしては完璧だ。 だが——一つだけ、致命的に読み間違えている。
「断ったら、どうするつもりだ」
城島の笑みが、一瞬だけ凍った。 一瞬だけだった。すぐに溶けて、元の笑顔に戻った。
「断る? まさか。佐伯さんは頭がいい人だから——」
「聞いてるんだ。断ったら、どうする」
沈黙が落ちた。 小屋の中で、油灯の炎が揺れている。外ではセレナが立っている。壁越しに全て聞いているだろう。
城島の笑みが、ゆっくりと消えた。 初めて——この男の素顔が見えた。
笑みの下にあったのは、恐怖だった。
城島雄一は怖がっていた。この異世界が。第七環が。能力のない自分が、明日も生き延びられるかどうかわからない生活が。 恐怖が、この男を動かしていた。蒸留師の正体を掴めば、交渉材料になる。交渉材料があれば、生き延びられる。——そういう計算が、恐怖の上に乗っている。
「……黒木に売る」
城島が言った。笑みは完全に消えていた。
「黒木社長に、蒸留師の正体を報告する。そうすれば——俺は第二環に上がれる。社長のそばで使ってもらえる。こんなゴミ溜めから出られる」
声が震えていた。 この男は、切り札を見せたくなかったのだ。見せなくて済むと思っていたのだ。賢治が「味方」の提案を受け入れれば、脅しは必要ない。だが断られた——だから、見せるしかなくなった。
賢治は城島の目を見た。
恐怖。計算。そして——どこかに残っている、罪悪感のようなもの。城島はたぶん、悪人ではない。追い詰められた普通の人間だ。異世界に放り出され、能力もなく、第七環で毎日を恐怖の中で過ごしている。生き延びるために情報を売る——それが、この男にできる唯一のことだった。
だが——その唯一のことが、賢治を殺す。
「……三日、待ってくれ」
賢治の声は平坦だった。
「三日?」
「考える時間が要る。三割の条件を、どう組み込むか。——悪い話じゃない。ただ、俺にも相談しなきゃならない相手がいる」
城島の目に、安堵が浮かんだ。
「——そうだろ? 悪い話じゃないだろ? 俺は本当に、佐伯さんの味方になりたいんだよ。本当に」
城島は笑った。今度は本物の笑みだった。安堵と恐怖が混ざった、子供のような笑み。
「三日。待つよ。——じゃあ、また来る」
城島が出ていった。 足音が遠ざかり、路地の角を曲がって消えた。
賢治は扉を閉めた。
藁束の上に座った。メモ帳を開いた。
——三日。
三日前にも、三日の猶予があった。あのときはリナを取り返すための三日だった。毒を作り、計画を立て、実行した。
今度の三日は——何のためか。
賢治はペンを握った。 手が震えていた。久しぶりの震えだった。毒を作ったときには震えなかった。ドラガンが死んだと聞いたときにも震えなかった。
だが——今、震えている。
城島の顔を思い出していた。安堵で笑った顔。子供のような笑み。「佐伯さんの味方になりたい」。
——あの笑みが、三日後にはなくなる。
賢治はメモ帳に書いた。
『城島雄一。三日以内に対処が必要。 選択肢: 一、条件を受け入れる。→ 城島に首根っこを掴まれ続ける。いつでも裏切られる可能性。 二、ヴォルクに報告する。→ ヴォルクが「処理」する。賢治の手は汚れない。だが——もうその言い訳は使えない。 三、自分で——』
ペンが止まった。
三番目の選択肢を、文字にできなかった。 文字にしたら、計画になる。計画になったら、実行する自分が——いる。
賢治はメモ帳を閉じた。
外で、セレナが立っている。あの碧い目が、今も正面を向いている。壁越しに全て聞いていた。城島の脅迫も。賢治の三日の猶予も。
セレナは何も言わないだろう。任務の範囲外だから。
だが——あの碧い目が、もし自分を見ていたら。
賢治は窓の穴から外を見た。 セレナの銀がかった金髪が、午後の光に白く光っていた。微動だにしない横顔。ガラス玉の碧い目。
——あの目に映る自分は、今、どんな顔をしている。
答えは求めなかった。 知りたくなかった。
***
その夜、ナディアに報告した。
「城島に蒸留師だとバレた。三日以内に黒木に売ると脅された」
ナディアは五秒間、黙った。
「……条件は」
「売上の三割」
「受けるのか」
「受けない」
「なら——消すしかないだろう」
ナディアの声は平坦だった。 情報屋としての判断だ。情報を売る人間は、売ることをやめない。金で黙らせても、もっと高い金を出す相手が現れたら、そちらに売る。情報屋はそれを知っている。だから——情報を持っている人間を消すのが、最も確実な対策だと知っている。
「消す、か」
「あんたが言ったんだろう。ドラガンのときに。『残酷なのは毒じゃない。毒を必要とする状況だ』——今もそうだ。城島を生かしておけば、あんたの家族が危険にさらされる」
家族。
その言葉が、賢治の腹の底に落ちた。
城島が黒木に情報を売る。黒木は蒸留師が賢治だと知る。第七環で裏社会に関わっている男の家族が第二環にいる。黒木は美智子と葵を人質にするだろう。いや、人質ですら済まないかもしれない。黒木にとって、賢治の裏の顔は——利用できるか、潰すか、二択だ。
「ヴォルクに報告する手もある」
「ヴォルクに?」
「ヴォルクなら、城島を消せる。カティアを使えば一瞬だ。——あんたの手は汚れない」
あんたの手は汚れない。
賢治はナディアを見た。ナディアの黒い目は、いつもの平坦さで賢治を見返していた。だが——その平坦さの中に、何かが混じっていた。
試している。
この女は、賢治がどの選択肢を選ぶかを見ている。ヴォルクに任せるか。自分でやるか。——あるいは、逃げるか。
「……ヴォルクには報告しない」
ナディアの眉が、僅かに動いた。
「なぜ」
「ヴォルクに借りを作りたくない。城島一人の処理を頼んだら、次から——もっと大きな貸しを要求される。あの男はそういう計算をする」
「なら——」
「俺がやる」
声は平坦だった。 感情を込めなかったのではない。込める余裕がなかった。
ナディアは五秒間、賢治を見つめた。
「……わかった。——方法は?」
「静寂がある。城島を——食事に誘う。第七環に来たばかりの頃、世話になったから礼がしたいと言えば、不自然じゃない。食事の中に混ぜる。三十分後に——」
「心臓が止まる」
「ああ」
ナディアは頷いた。何も言わなかった。
扉に向かい、手をかけ——一度だけ振り返った。
「佐伯。——一つだけ聞いていいか」
「何だ」
「あんた今、震えてるか」
賢治は自分の手を見た。
——震えていなかった。
「……震えてない」
「そうか」
ナディアは出ていった。 扉が閉まった。
賢治は藁束の上に座ったまま、自分の手を見続けた。 震えていない手。毒を作ったときには三分で眠れた手。ドラガンを殺した計画を立てた手。
その手が——三日後に、城島雄一の杯に毒を入れる。
メモ帳を開いた。
『城島雄一——処理。三日以内。 方法:静寂の経口投与。食事への混入。 必要量:体重七十キロ、致死量二・一ミリグラム。 場所:第七環外縁の共同井戸付近。人目が少ない。 時間帯:夕刻。二つ目の太陽が沈んだ後。』
書き終えた。 人を殺す計画を、品質管理報告書のフォーマットで書いた。
ペンを置いた。
——ドラガンのときとは違う。 ドラガンは敵だった。リナを攫った男だった。殺す理由があった。
城島は——敵ではない。 怖がっているだけの、普通の男だ。異世界に放り出されて、生き延びる方法を探しているだけの。 あの子供みたいな笑顔。「佐伯さんの味方になりたい」。
賢治は目を閉じた。
——ドラガンの毒を、ヴォルクの「試験」として作った。あれは命令だった。 城島を殺すのは、命令ではない。自分の判断だ。自分の選択だ。
命令で殺すのと、選択で殺すのは——何が違う。
何も違わない。 結果は同じだ。 人が一人、死ぬ。
——だが、この三日間で、佐伯賢治の中の何かが、確実に死ぬ。
それが何であるかを、賢治はまだ名前をつけられなかった。
***




