第14話 最初の手
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三日のうち、最初の二日は計画に使った。
計画、と呼ぶのは正確ではない。賢治がやったのは、自分を説得する作業だった。
メモ帳の白いページに、箇条書きで理由を並べた。
一、城島が黒木に情報を売れば、蒸留師の正体が露呈する。 二、露呈すれば、ヴォルクとの関係が黒木に知られる。 三、黒木は美智子と葵を使って賢治を支配しようとする。 四、支配を拒めば、家族に危険が及ぶ。 五、城島を「味方」にしても、いずれ条件を吊り上げられる。情報を握っている側が常に有利になる構造は変わらない。
五つの理由を書き終え、賢治はペンを置いた。
——六つ目は、書かなかった。
六つ目の理由は、城島が悪人ではないということだった。悪人なら迷わない。だが城島は怖がっているだけの普通の男で、普通の男が生き延びるために普通の計算をしただけだ。 その「普通」を、賢治は殺そうとしている。
六つ目を書かなかったのは、書いたら手が止まるからだった。
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二日目の夜、ナディアに確認した。
「城島の行動パターンは」
「毎日昼過ぎに共同井戸で水を汲む。それから第六環の方に出かけて、日暮れ前に戻る。夕飯は大体一人で、小屋の前で干し肉と配給パンを食う。——一人で食ってる。いつも」
一人で。
賢治はその言葉を飲み込んだ。城島雄一は営業マンだ。人懐こい笑顔で誰とでも話す。だが——食事は一人で取る。この異世界で、あの笑顔を本当に向けられる相手がいないのだ。
「……わかった。明日の夕方、城島を食事に誘う。小屋の中で、二人で食う」
「毒は」
「蒸留酒に入れる。城島は酒を飲む人間か」
「飲む。っていうか、飲みたがってる。第七環じゃ酒は高いから、なかなか手に入らない」
「酒を持ってるぞ、と言えば来る」
「……来るだろうな。——佐伯」
「何だ」
「あたしはその場にいない方がいいか」
「いない方がいい。城島が警戒する」
「わかった。——終わったら、始末はあたしがやる。体を運ぶのに人手がいるだろう」
賢治は頷いた。
始末。体を運ぶ。
その言葉が意味するものを、賢治の頭は理解していた。だが、腹の底は——まだ理解を拒んでいた。
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三日目。
夕刻——二つの太陽のうち、赤い方が地平線に沈み始めた頃。
賢治は共同井戸の前で、城島を待った。
城島は予想通り、昼過ぎに姿を現した。木桶を肩に掛け、鼻歌混じりに歩いてくる。日焼けした丸顔。細い目。人懐こい笑み。
「おっ、佐伯さん。珍しいね、こんなとこで」
「城島。——今夜、飯を食わないか」
城島の目が、一瞬だけ鋭くなった。営業マンの目だ。突然の誘いの裏を読もうとしている。
「飯?」
「ナディアが蒸留酒を一本持ってきた。一人で飲むのも味気ない。——三日前の話の続きもしたい」
三日前の話。取引の話。
城島の目から警戒の色が消えた。代わりに、安堵と期待が浮かんだ。
「——マジで? やった。佐伯さん、やっぱ話がわかる人だよ。いや、最初から信じてたんだけどさ」
城島が笑った。本物の笑顔だった。子供が褒められたときのような、無防備な笑顔。
「じゃあ今夜。佐伯さんの小屋でいい?」
「ああ。日が暮れたら来い」
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小屋に戻り、準備をした。
蒸留酒の瓶を一本。ナディアが用意した本物の酒だ。中身の三分の一を木の杯に移し、残りの瓶の中に——静寂を入れた。
致死量二・一ミリグラム。 計算は三回やった。三回とも同じ数字だった。
瓶を軽く振って混ぜた。透明な液体が透明な液体に溶ける。見た目は何も変わらない。匂いも変わらない。味も変わらない。
完璧な毒だ。——また、その言葉が頭に浮かんだ。
賢治は自分の分の杯を手に取った。先に瓶から移した、毒の入っていない蒸留酒。これを自分が飲む。城島には瓶から直接注ぐ。
間違えたら——自分が死ぬ。
間違えないように、自分の杯に小さな傷をつけた。爪で、杯の底に一本の線を引いた。指で触ればわかる。暗がりでも間違えない。
賢治は杯を机の上に置き、両手を見た。
震えていない。
昨夜は三十秒で眠れた。
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日が暮れた。
青白い太陽が最後の光を地平線に落とし、第七環が闇に沈んだ。油灯の小さな炎が、小屋の壁に二つの影を揺らしている。
城島が来た。
「おー、いい匂い。蒸留酒、本物? うっわ、久しぶりだなあ。日本じゃ毎晩飲んでたのに、こっち来てからまともな酒なんて一度も——」
城島は喋りながら小屋に入った。藁束の上に腰を下ろし、壁にもたれた。細い目が嬉しそうに細くなっている。
賢治は瓶を持ち、城島の杯に注いだ。
とくとくとく。透明な液体が木の杯に流れ込む。酒精の匂いが小屋の中に広がった。
自分の杯には——傷のある方の杯には——既に注いである毒のない酒。
「じゃ、乾杯」
「乾杯。——何に?」
「新しいビジネスパートナーに」
城島が笑った。杯を掲げた。
賢治も杯を掲げた。
——二つの杯がぶつかった。かこん、と乾いた音がした。
城島が酒を一口飲んだ。
「——っは。きっつ。でもうまい。うまいよ、これ」
城島の喉仏が動いた。一口、二口、三口。
賢治は自分の杯を唇につけた。毒のない酒が舌に触れた。アルコールの刺激。舌が痺れる。味は同じだ。同じ瓶から取った酒。
——同じ瓶から取った酒の、片方だけに毒が入っている。
「いやー、佐伯さん。本当に良かった。正直さ、俺ちょっと怖かったんだよ。三日間、返事もらえなかったらどうしようって。もしかして——怒らせたかなって」
城島が喋る。営業マンのトーク。場を和ませる技術。だがこの夜の城島は、技術ではなく本音で喋っていた。声に安堵が滲んでいる。
「俺さ、こっち来てから——ずっと怖いんだよ。理刻もないし、体も強くないし、取り柄なんて喋れることだけでさ。——でも喋るだけじゃ飯は食えないじゃん。第七環じゃさ」
城島が杯を空にした。
「もう一杯いい?」
「ああ」
賢治は瓶から城島の杯に注いだ。二杯目。
「俺ね、日本じゃ営業成績ずっとトップだったの。社長賞も二回もらった。——こっちじゃ、ただの無能力者。何もできない。何の価値もないって顔で見られるの、毎日。あの鑑別のとき、『無し』って言われたときの——あの感じ。佐伯さんもわかるでしょ」
わかる。
賢治は黙って頷いた。わかる。あの瞬間の感覚は——日本で十五年かけて味わった感覚と、まったく同じだった。
「だからさ、佐伯さんが蒸留師だってわかったとき——正直、嬉しかったんだよ。ああ、同じ側の人がいるって。能力なしでも、自分の力で這い上がってる人がいるって。——俺もそうなりたくてさ」
城島が二杯目を半分ほど飲んだ。
頬が赤くなってきた。酒が弱いタイプだ。声が少し大きくなっている。
「あとさ、佐伯さん。一個だけ謝りたいことがあって」
「何だ」
「前に——黒木に売るって言ったじゃん。あれ、本当はやりたくなかったんだ。でもさ、追い詰められてて。食い物もなくて、毎日ビクビクして——他に思いつかなくてさ。ごめん。あれは——最低だったよ」
城島が頭を下げた。日焼けした丸い頭が、油灯の光に照らされている。
賢治の手が——震えた。
初めてだった。毒を作ったときも、ドラガンを殺したときも、計画を書いたときも震えなかった手が、城島の謝罪で——震えた。
「……城島」
「ん?」
城島が顔を上げた。笑っていた。酒で頬が赤い。目が潤んでいる。楽しそうだった。本当に楽しそうだった。
——この男は、今夜が嬉しいのだ。 久しぶりの酒。話し相手。孤独じゃない夜。
賢治の口が開きかけた。
やめろ。飲むな。その杯を置け。
その言葉が、喉の奥まで来た。
来て——止まった。
止まったのは、城島の目を見たからだった。
笑っている目の奥に、まだ——計算が残っていた。
ほんの微かに。笑みの底に。あの営業マンの目が、まだ光っている。佐伯が条件を飲んだ。よかった。これで俺は安全だ。佐伯を通じてヴォルクに近づける。第七環から出られる。——そういう計算が、酒で緩んだ目の奥に、まだ生きていた。
城島は悪人ではない。だが——善人でもない。追い詰められた普通の人間だ。普通の人間は、機会があれば何度でも同じことをする。情報を握っている限り、城島は常に「売れる」立場にいる。
今日は謝った。来月も謝るか? 来年も? 家族の安全を、この男の善意に賭け続けるのか?
——賭けられない。
賢治は口を閉じた。
「……もう一杯飲むか」
「いいの? やったー」
三杯目を注いだ。
城島がまた喋り出した。日本にいた頃の話。営業先で出会った変な客の話。新幹線の中で弁当をひっくり返した話。笑い話ばかりだった。
賢治は相槌を打った。笑うべきところで笑った。驚くべきところで驚いた。十五年の会社員生活で培った技術が、最後の夜に使われている。
三杯目が空になった。
***
城島が喋るのをやめたのは、杯を置いた二十分後だった。
「——あれ」
城島が胸を押さえた。丸い顔が、僅かに歪んだ。
「なんか——胸が、変な感じ」
賢治は動かなかった。
「飲みすぎたか?」
「かも。でも——ちょっと待って。これ、違う。酔いじゃない。心臓が——」
城島の目が見開かれた。細い目が、初めて大きく開いた。
恐怖の目だった。
「佐伯——さん——」
城島が立ち上がろうとした。膝が折れた。藁束の上に倒れ込んだ。
「何——何だこれ——なんで——」
城島の手が賢治の袖を掴んだ。日焼けした手が、力を込めて——力が入らなくなっていく。
「佐伯さん——助け——」
賢治は城島の手を見下ろした。
自分の袖を掴んでいる、日焼けした手。営業マンの手だ。名刺を渡し、ペンで契約書にサインし、握手をしてきた手。
その手の力が、抜けていく。
城島の目が賢治を見ていた。恐怖。困惑。そして——理解。
「あん——た——」
城島の目に、最後の光が灯った。
理解の光だった。三杯の酒。佐伯の杯には傷がついていた。瓶と杯が別だったことに——今、気づいた。営業マンの目が、最後の最後に、真実を読み取った。
城島の口が動いた。声にならなかった。
だが、唇の形で——読めた。
「なんで」。
城島雄一の手が、賢治の袖から滑り落ちた。
目が開いたまま、動かなくなった。
細い目。笑うと線になる目。その目が、もう二度と——笑わない。
***
賢治は動けなかった。
藁束の上に座ったまま、城島の体を見下ろしていた。油灯の炎が揺れている。壁に二つの影。だが——一つは、もう動かない。
吐いた。
藁束の隅に顔を向け、胃の中の蒸留酒を全部吐いた。酸っぱい液体が口の中に広がり、鼻の奥が焼けた。二度、三度。胃液しか出なくなっても、えずきが止まらなかった。
涙が出ていた。 泣いているのではない。嘔吐の反射で涙腺が刺激されただけだ。 ——そういうことにした。
五分間、動けなかった。
六分目に、メモ帳を開いた。
手が震えていた。文字がまともに書けない。三回書き直して、ようやく読める字になった。
『城島雄一。処理完了。 静寂、経口投与。蒸留酒混入。三杯。 投与から心停止まで約二十五分。想定より五分早い。 アルコールによる吸収促進の可能性。要検証。 ——アルコール吸収促進。要検証。 記録はここまで。』
書き終えた。
人を殺した事実を、また——実験報告書のフォーマットで書いた。 書けてしまった。
だが今回は——手が震えていた。字も震えていた。
震えている。まだ震えている。
——この震えがいつ止まるのか。止まったとき、自分はどうなっているのか。
賢治は城島の顔を見た。
目が開いている。細い目が、大きく開いたまま。笑っていない。怒ってもいない。ただ——驚いている。死んでもなお、驚いている顔。
「なんで」。
あの最後の唇の動きが、網膜に焼きついていた。
——なんで。
答えは、メモ帳の中にある。五つの理由。合理的な理由。どれも正しい。どれも論理的だ。
だが、あの「なんで」に答えられる理由は——一つもなかった。
***
扉をノックする音。三回。ナディアのリズムだった。
「——終わったか」
「終わった」
ナディアが入ってきた。城島の体を一瞥し、それから賢治の顔を見た。
何も言わなかった。
賢治の顔を二秒見て、何かを確認し——それ以上は踏み込まなかった。
「体は外壁の外に運ぶ。第七環の外には野犬が出る。——朝までに、なくなる」
賢治は頷いた。
ナディアが城島の足を掴み、引きずり始めた。城島の頭が藁束の上を滑り、土の床に落ちた。鈍い音がした。
「——待て」
ナディアが止まった。
賢治は城島の杯を手に取った。城島が最後に口をつけた杯。木の杯の底に、まだ蒸留酒が少し残っている。
杯を裏返し、酒を土の床にこぼした。 それから、杯を自分の荷物の中にしまった。
「……何してるんだ」
「捨てるな。この杯は——俺が持っておく」
ナディアは賢治を見た。三秒間。
それから、城島の体を引きずって小屋を出ていった。
扉が閉まった。
賢治は一人になった。
油灯が残り少なくなっている。炎が小さくなり、壁の影が大きくなっていく。藁束の上に、城島が倒れていた跡が残っている。藁が凹んでいる。体温の名残が、まだ微かに——
賢治は城島の杯を手に取った。 木の表面を、指でなぞった。
この杯を捨てたら、城島雄一を殺した事実が——ただの「処理」になる。 メモ帳の記録だけが残り、人間が消える。
それは——まだ、許せなかった。
自分が許せるようになる日が来るかもしれない。そのとき、この杯を見て——思い出す。「なんで」と言った唇を。日焼けした手を。子供のような笑顔を。
それが——佐伯賢治に残された、最後の良心の形だった。
***
翌朝、三分で眠れたか、三十秒で眠れたか——わからなかった。 気づいたら朝だった。
目を開けて最初に見たのは、藁束の凹みだった。
城島が倒れていた場所。体はもうない。ナディアが処理した。だが——藁の凹みだけが残っている。
賢治は起き上がり、メモ帳を開いた。
昨夜の記録を読み返した。 「処理完了」。「心停止まで約二十五分」。「アルコール吸収促進。要検証」。
——要検証。
次がある前提で書いている。 昨夜、吐いた。泣いた。震えた。だが——「次」の準備を、もう始めている。
賢治はメモ帳を閉じた。
小屋の外で、セレナが立っている。あの碧い目が、今日も正面を向いている。
城島が昨夜この小屋に入り、二度と出てこなかったことを——あの目は、見ていたはずだ。
だがセレナは何も言わない。 任務の範囲外だから。
賢治は藁束の下から、城島の杯を取り出した。木の杯。底に酒の染みが残っている。
ポケットに入れた。
今日から——この杯を持ち歩く。 自分が何をしたかを忘れないために。
忘れられるようになったとき、佐伯賢治という人間は——本当に終わる。
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