第15話 杯の重さ
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城島を殺した翌朝、賢治は飯を食えなかった。
ナディアが持ってきた配給パンが作業台の上にある。灰色の、硬い、味のないパン。いつもなら何も考えずに齧る。だが今朝は——パンを手に取ると、指先が城島の杯を思い出した。
ポケットの中に、杯がある。木の杯。底に酒の染みが残っている。
パンを口に入れた。咀嚼した。嚥下した。——胃が受け付けなかった。
藁束の隅で、また吐いた。
昨夜から四回目だった。吐くものはもう胃液しかない。酸っぱい液体が喉を焼き、涙が滲む。嘔吐の反射——そういうことにした。二回目の嘘だった。
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外に出ると、セレナが立っていた。いつもと同じ位置。同じ姿勢。右手はナイフの柄。碧い目は正面。
だが——今朝のセレナは、賢治を見なかった。
いつもなら扉が開くと碧い目が一瞬だけ賢治を確認する。護衛対象の状態を把握するための、機械的な一瞥。毎朝同じだった。
今朝は、それがなかった。 正面を向いたまま、賢治を見なかった。
賢治はその意味を考えた。 ——見られたくないのか。俺の顔を。 あるいは——見せたくないのか。自分の顔を。
どちらにせよ、セレナは昨夜の全てを壁越しに聞いていた。城島の笑い声を。酒を注ぐ音を。城島の最後の言葉を。そして——賢治が吐く音を。
「セレナ」
「はい」
「昨夜のことは——」
「わたしの任務に含まれておりません」
遮るように、早口で。 セレナにしては珍しい話し方だった。いつもの無機質な敬語より——ほんの僅かだけ、速い。
賢治はそれ以上何も言わなかった。
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昼前に、ナディアが来た。
「ヴォルクが呼んでる。——城島の件じゃない。赤牙の残党の話だ」
「ソフィアか」
「ああ。あの女、思ったより動きが速い。赤牙の生き残りを十人ほどまとめて、第五環の裏路地に潜伏してるらしい。ヴォルクは——潰したい」
賢治は頷き、外套を羽織った。ポケットの中で城島の杯がこつんと腿に当たった。
ヴォルクの拠点に向かう道すがら、賢治はナディアの背中を見ていた。
黒い髪。細い首。すり減った革靴。情報屋としての歩き方——壁際を選び、角では必ず立ち止まり、路地の奥を確認してから進む。体に染みついた警戒の動作。
——なぜ、この女はここまでやる。
疑問は初日からあった。だが、毒を作り、ドラガンを殺し、城島を殺す過程で——問う余裕がなかった。余裕ができたのではない。城島を殺した後、自分がどこに立っているのかを確認する必要が出てきたのだ。
「ナディア」
「何だ」
「一つ聞いていいか」
「聞くだけなら」
「お前は——なぜ俺を手伝う」
ナディアの足が止まった。路地の角で。壁際で。いつもの立ち止まり方だったが、体が止まっている時間が——いつもより長かった。
「あんたに恩を売れるからだ。蒸留師を助けた情報屋という立場は、この街で値段がつく」
「それだけか」
「それだけだ」
「嘘だな」
ナディアが振り返った。黒い目が、賢治を見た。いつもの平坦な目——だが、平坦さの底に、何かが沈んでいた。普段は水面の下に隠れているものが、一瞬だけ浮きかけて、また沈んだ。
「……どうしてそう思う」
「城島の体を運んだ。あれは恩を売る行為じゃない。共犯になる行為だ。共犯者は恩を売る立場じゃなくなる。——自分から弱みを握らせに来た」
ナディアの目が、僅かに細くなった。
「あんた——本当に嫌な目をしてるよ。薬屋じゃなくて、詐欺師になった方がよかったんじゃないか」
「答えてない」
沈黙が落ちた。路地の奥から、子供の声が聞こえてきた。第七環の子供たちが、泥で何かを作って遊んでいる。
ナディアが壁にもたれた。目を閉じた。
「——あたしには妹がいた」
過去形だった。
「名前はエレナ。あたしより四つ下。第七環で生まれて、第七環で育った。あたしと同じだ。——違ったのは、体が弱かったこと」
ナディアが目を開けた。だが、賢治を見なかった。路地の奥を見ていた。
「十三のとき、熱を出した。この世界じゃよくある病気だ。第三環より上なら薬師がいて、薬があって、三日で治る。——第七環には、薬師もいないし、薬もない」
ナディアの声は平坦だった。いつもの報告と同じトーンだった。だが——平坦にしているのだ。意図的に。
「一週間で死んだ。あたしの腕の中で。——最後に、水を欲しがった。水を持ってきたときには、もう飲めなくなってた」
路地の奥の子供たちが笑っている。泥遊びの声。
「薬があれば助かった。たかが熱だ。第三環にいれば——当たり前に治る病気で死んだ。当たり前に死んだ。第七環じゃ、珍しくもない。——珍しくもないから、誰も覚えてない」
ナディアが壁から背を離した。
「あんたが夜哭き菫から抗菌剤を作ったとき——あたしは初めて見た。第七環で、薬を作れる人間を。上の環に行かなくても、薬師に頭を下げなくても、自分で薬を作れる人間を」
ナディアの黒い目が、初めて——本当の意味で、賢治を見た。
「あんたが毒を作ろうが、人を殺そうが、あたしには関係ない。——だけど、あんたが生きていれば、次のエレナは死なないかもしれない。第七環で熱を出した子供が、当たり前に死ななくて済むかもしれない。——それだけだ」
ナディアは背を向けた。
「それだけの理由で、あたしはあんたの共犯者になった。——満足か」
賢治は何も言えなかった。
城島を殺した男が、誰かの命を救う希望として——この女に必要とされている。
その矛盾が、ポケットの中の杯と同じ重さで、賢治の中に沈んでいった。
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ヴォルクとの面会は短かった。
灰色の目が賢治を値踏みし、銀の髪を撫でつけた指が机上の地図を叩いた。
「赤牙の残党が第五環の東に潜った。ソフィアという女が仕切っている。——蒸留師、お前の毒でもう一度片付けろ」
「同じ手は通じない。ソフィアは酒の席で助かった女だ。飲食物に警戒する」
「ならば別の方法を考えろ。それがお前の仕事だ」
ヴォルクの声は穏やかだった。常に穏やかだ。怒鳴らない。威圧しない。ただ——選択肢を一つずつ潰していく。逆らえないのではなく、逆らう理由がなくなるように誘導する。
「期限は」
「急がなくていい。——だが、あまり遅いと、ソフィアの方から動く。お前の正体を掴んでいるかもしれん」
ヴォルクが薄く笑った。
「お前を殺しに来るかもしれん。——それは困るだろう? 家族が第二環にいるのだから」
家族。
また——家族を持ち出された。
この男は、賢治の急所が家族であることを完全に把握している。そして、その急所を脅しの道具ではなく、「心配」の形で提示する。脅されているのか守られているのか、区別がつかない。
——それが、ヴォルクの支配の形だった。
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拠点を出て、第七環に戻る道。
セレナが三メートル後ろを歩いている。いつもの距離。いつもの姿勢。
小屋の前に着いたとき、セレナが——初めて、自分から口を開いた。
「蒸留師殿。——お預かりしているものがあります」
セレナが外套の内側から、布で包まれた薄い何かを取り出した。両手で丁寧に差し出す。
「佐伯翔太殿から、三日前にお預かりしました」
賢治は包みを受け取り、布を開いた。
中にあったのは——一枚の紙だった。
この世界の紙ではない。日本の紙だ。罫線の入った、大学ノートの切れ端。翔太がブレザーのポケットに入れていたノートの一部だろう。
紙の上に、クレヨンで絵が描いてあった。
四つの人型。 一番大きいのが右端に立っている。黒い丸が頭で、棒が体で、足が二本。その隣に少し小さいのが一つ。さらに小さいのが二つ。 四人の上に、丸が二つ描いてある。一つは赤、一つは青。 二つの太陽だ。
四人の下に、大きな文字が書いてあった。
『おとうさんへ はやくかえってきてね あおい』
賢治の手が——震えた。
城島を殺したときとは違う震えだった。
ポケットの中の杯が腿に当たっている。城島の杯。人を殺した記念品。 その同じポケットの隣に、娘の絵がある。
人を殺す手と、娘の絵を受け取る手が——同じ手だ。
賢治は紙を裏返した。裏に、翔太の字が小さく書いてあった。
『もう来るなって言ったのは覚えてる。だから直接は行かない。セレナさんに頼んだ。母さんは元気。葵の熱は完全に下がった。——父さんも、ちゃんと食え。 翔太』
セレナに頼んだ。
賢治はセレナを見た。銀がかった金髪の女は、三メートル先で正面を向いたまま——微動だにしなかった。
「……セレナ。これは、お前が」
「佐伯翔太殿から預かりました。三日前に。——お届けするタイミングを計っておりました」
「タイミング」
「はい。——本日が適切だと判断しました」
本日が適切。 城島を殺した翌日が——適切。
セレナの碧い目は正面を向いたまま、何の感情も見せなかった。ガラス玉の目。機械的な判断。
——だが、この女は「タイミングを計っていた」のだ。
三日間、娘の絵を預かったまま、渡す瞬間を——選んでいた。護衛の任務にも、監視の任務にも含まれていない行動を、この女は自分の判断で行った。
賢治は葵の絵をもう一度見た。
四つの棒人間。二つの太陽。おとうさんへ。はやくかえってきてね。
——帰る場所が、まだある。
この手は城島を殺した。この手はドラガンを殺す毒を作った。この手は——これからも、人を殺すだろう。
だが——この手が守ろうとしているものが、この紙に描いてある。
賢治は絵を折り畳み、メモ帳の最後のページに挟んだ。
毒の調合記録と致死量計算の間に、十四歳の娘が描いた棒人間の家族。
メモ帳を閉じた。
——泣かなかった。 泣いたら、セレナに見られる。セレナに見られたら、ヴォルクに報告される。蒸留師が泣いていた——それは弱みだ。弱みを見せたら、使われる。
だから——泣かなかった。
泣かなかったことが、城島の杯より重かった。
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