第16話 蛇の残骸
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——ソフィアの視点。
第五環東区の裏路地は、昼でも薄暗い。
建物の壁が高く、屋根が張り出し、空が細い帯にしか見えない。路地の石畳は苔で滑り、排水溝から湿った空気が這い出している。第六環の貧しさとは違う、もっと計画的な暗がり——人目を避けるために設計された路地だった。
ソフィアは廃屋の二階で、壁にもたれて座っていた。
黒髪ロングストレート。切れ長の目。百七十三センチ。モデル体型だが肩に古い刀傷がある。外套の下に短剣と細身の長剣を帯び、膝の上に羊皮紙の地図を広げている。
地図には第六環と第七環の路地が描かれ、赤い印がいくつか打ってある。ヴィオラ・ドロップの流通経路。ソフィアが二日間で割り出した、灰の商会の販売網だった。
「——副長。集まりました」
階下から声がかかった。ソフィアは地図を折り畳み、階段を降りた。
廃屋の一階に、十一人の男女が集まっていた。赤牙の生き残り。
全員の顔に、同じ色が浮かんでいた。恐怖。ドラガンの死に方を——あの「石像が崩れるように死んだ」光景を、直接見た者も、伝え聞いた者も、等しく怯えている。
ソフィアは全員の顔を三秒ずつ見た。
「聞け。泣き言は後にしろ。——まず、事実だけ整理する」
切れ長の目が、冷たく光った。
「ドラガンは毒で殺された。酒に混入された、無味無臭の毒だ。ニコルの毒味を突破した。——これが意味することを理解しているか」
誰も答えなかった。
「意味は二つある。一つ、この毒を作った人間は、毒味という制度そのものを無効化できるほどの技術を持っている。普通の毒師では不可能だ。——この世界の常識を超えた人間がいる」
ソフィアが地図を広げた。
「二つ。この毒は灰の商会を通じて使われた。灰の商会のボス、ヴォルクには——蒸留師という新しい駒がいる。紫の薬を作っている男だ。薬を作れる人間は、毒も作れる。——蒸留師が、ドラガンを殺した」
一人の男が手を挙げた。
「副長、そいつの正体は——」
「わからない。灰の商会の内部でも、蒸留師の正体を知っている人間はごく少数だ。ヴォルクと——情報屋のナディア。それから護衛のセレナ。あとは、カティアとマーラだけ。全員、ヴォルクの直属だ」
ソフィアは壁に寄りかかった。
「だから、別の方法で探る。——蒸留師は第七環にいる。それは確実だ。紫の薬の原料、夜哭き菫は第七環の外壁沿いにしか生えない」
「じゃあ、第七環を片っ端から——」
「馬鹿。第七環はヴォルクの縄張りだ。あの男の目の前で騒げば、今度はこっちが消される」
ソフィアの声が、刃物のように鋭くなった。一人の構成員が首を縮めた。
「静かに探る。焦らず、確実に。——蒸留師は薬も作っている。塗り薬や抗菌剤を近隣の住民に配っているという噂がある。薬を配っている人間を辿れば、蒸留師に行き着く」
ソフィアが地図の上に、新たに青い印を打った。第七環の共同井戸。薬草を売る露店。住民が「あの人に薬をもらった」と噂する場所。
「一週間で見つける。見つけたら——殺さない」
構成員たちが顔を見合わせた。
「殺さないんですか」
「蒸留師の技術は唯一無二だ。ドラガンを殺した毒も、紫の薬も、あの男にしか作れない。——殺すのは最悪の手だ。手に入れる方が、遥かに価値がある」
ソフィアの切れ長の目が、薄く笑った。 笑みの中に、刃物が隠れていた。
「ヴォルクにできることが、私たちにできない道理はない。——蒸留師を奪う。それが赤牙の再建の第一歩だ」
***
——第二環、貴族街。同日。
黒木剛の執務室は、第二環の中でも一等地に位置していた。
白い石壁。磨かれた木の床。窓からは王宮の尖塔が見える。この世界に来て一ヶ月余りで、黒木は既に第二環の貴族たちと対等に渡り合えるだけの政治基盤を築きつつあった。
理刻『王律』——統治系の能力。他者の行動を一定時間、自分の言葉に従わせる力。直接的な支配ではなく、「この男の言うことは正しい」と思わせる、認識の歪曲。
強制ではない。あくまで「説得力の強化」だ。だから抵抗力のある相手には効かない。だが——政治の世界では、それで十分だった。
黒木は執務机の前に座り、書簡に目を通していた。
扉をノックする音。
「父さん」
蓮だった。
百七十五センチの細身の体を、この世界の騎士服に包んでいる。白い上衣に銀の肩章。端正な顔に、いつもの薄笑いを貼りつけている。
「翔太が、また第七環に使いを出してた」
黒木のペンが止まった。
「使い?」
「セレナっていう、ヴォルクの手下の女を通じて。——銀髪のあの護衛。あいつ、父親に手紙を届けてたみたいだぜ」
黒木は書簡を置いた。 広い額に、一本の皺が刻まれた。
「翔太くんがか。——佐伯のところに」
「うん。佐伯さんさあ、第七環でなんかやってるって噂、聞いたことある? 薬がどうとか」
黒木の目が、僅かに細くなった。あの目だ。人を「使えるか使えないか」で値踏みする目。
「……調べさせる。——蓮、翔太くんには近づくな。今はまだ」
「わかってるよ。——でも父さん、佐伯さんが第七環で何か面白いことしてるなら、そっちの方が楽しくない?」
蓮の薄笑いが深くなった。
黒木は息子を見た。蓮の目の奥にある残酷さを、この男は正確に把握している。息子の「楽しい」が何を意味するかも。
「今は動くな。——時期が来たら、使う」
蓮は肩をすくめて部屋を出ていった。
黒木は窓の外を見た。王宮の尖塔が夕日に染まっている。第一環の白い壁。第二環の石畳。——その遥か向こう、環が七つ重なった先に、第七環がある。
佐伯賢治。等級外。実用性なし。
黒木はその男の顔を思い浮かべた。冴えない丸顔。寝癖のついた黒髪。慢性的な隈。二十年間、一言の反論もなく実験台の前に座り続けた、透明な男。
——あの男が、何かをしている。
黒木の唇が、薄く動いた。
「……佐伯さぁん。あんたにそんな度胸があったとは、思わなかったなぁ」
声は独り言だった。だが——独り言に含まれる興味の色は、賢治がもし聞いていたら、背筋が凍るほど深かった。
***
——第七環。
賢治は小屋の藁束の上で、メモ帳を開いていた。
ソフィアの件をどうするか。ヴォルクの命令は「片付けろ」。だが方法が見えない。
毒は効かない。ソフィアは飲食物に対して極度に警戒しているはずだ。ドラガンの死に方を間近で見た女が、見知らぬ酒や食事に口をつけることはない。
正面戦闘は論外。賢治に戦闘能力はない。
カティアの瞬歩で暗殺するか。だがソフィアは「速い」とマーラが言っていた。カティアでも路地に入られたら追いきれなかった。
——別の手が必要だ。
賢治はペンの蓋を開けたり閉めたりしながら考えた。カチ。カチ。カチ。
毒を盛れない。斬れない。追えない。
なら——ソフィアの方から来させるしかない。
「ナディア」
扉の外にいたナディアが顔を出した。
「ソフィアは何を探している」
「あんただよ。蒸留師の正体を追ってる」
「殺しに来るのか」
「いや。——あたしの網に引っかかった情報だと、ソフィアはあんたを『奪う』つもりでいる。殺すんじゃなくて、手に入れる。ヴォルクから引き剥がして、自分の駒にする」
賢治の手が止まった。ペンの蓋が、閉まったまま動かなくなった。
「……俺を奪う」
「ああ。蒸留師の技術がほしいんだろう。殺したら技術も消える。——ソフィアは馬鹿じゃない。ドラガンとはそこが違う」
賢治はメモ帳に視線を落とした。
奪う。手に入れる。
ヴォルクが賢治を「駒」として使っているのと、同じ構図だ。ソフィアも同じことを考えている。蒸留師という技術を、自分の手駒にしたい。
——つまり、ソフィアは交渉しに来る。
殺しに来るのではなく、取引しに来る。
それなら——罠を仕掛けられる。
「ナディア。ソフィアに——わざと見つけさせろ」
ナディアの目が見開かれた。
「正気か」
「俺の正体を探っているなら、探し当てさせた方がいい。向こうから来てくれるなら——こちらが動かなくて済む」
「だが——あの女は戦闘もできる。交渉が決裂したら——」
「決裂しない。ソフィアは合理的だ。殺すより使う方が得だと判断する限り、俺を殺さない」
「万が一は」
「セレナがいる」
ナディアは三秒間、賢治を見つめた。
「……あんた。日本にいた頃も、こういう人間だったのか」
「日本にいた頃は、実験計画書を書くだけの人間だった。——ここでは、実験の対象が変わっただけだ」
ナディアは何も言わなかった。壁にもたれ、腕を組み、天井を見上げた。
「……わかった。ソフィアの探りに、ちょっとだけ道をつける。あんたの正体に辿り着けるように——ただし、辿り着くまでに最低五日はかかるようにする。あんたに準備の時間を作る」
「頼む」
「あと一つ。——万が一のとき、セレナが守るのは『ヴォルクの命令で蒸留師を守る』からであって、あんた個人のためじゃない。それは忘れるな」
「わかっている」
ナディアが出ていった。
賢治は藁束の上で、メモ帳の最後のページを開いた。葵の絵が挟まっている。四つの棒人間。二つの太陽。
「おとうさんへ はやくかえってきてね」
——帰る場所がある。だから、死ぬわけにはいかない。
メモ帳を閉じた。
ポケットの中で、城島の杯がこつんと腿に当たった。
帰る場所と、殺した男の杯が——同じポケットの中にある。 その矛盾ごと、賢治は歩き続ける。
立ち止まったら——終わるから。
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