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紫の雫(ヴィオラ・ドロップ) ——異世界に転移した薬学者は、毒と薬で裏社会の頂点に立つ —   作者: イロハ
第一部「灰の檻」

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第17話 鳥籠の外

***


 ソフィアが辿り着くまでの五日間を、賢治は準備に充てた。


 準備は二つ。  一つは、ソフィアとの交渉——あるいは戦闘——に備える手段。もう一つは、家族の安全だった。


 まず、手段。


 静寂は経口投与が前提の毒だ。相手に飲ませなければ効かない。ソフィアが飲食物に警戒している以上、酒に入れる手は通じない。  ならば——別の投与経路を開発する。


 賢治は藁束の下から夜哭き菫の茎を取り出し、理刻で分子構造を視た。静寂の母体であるインドール骨格。このまま経皮吸収——皮膚から浸透する形にできないか。


 問題はある。皮膚はバリアだ。角質層のケラチンが異物の侵入を阻む。地球の製薬では経皮吸収パッチにDMSO——ジメチルスルホキシドを使うが、この世界にDMSOはない。


 だが——夜哭き菫の液滴に含まれるテルペン系化合物は、植物精油に多い構造だ。精油には皮膚浸透促進作用を持つものがある。ユーカリ油やペパーミント油のテルペンは、角質層の脂質構造を乱して薬物の透過性を高める。


 夜哭き菫のテルペンが同じ機能を持っていれば——静寂を経皮吸収型に改良できる。


 賢治は三日間かけて実験した。夜哭き菫のテルペン成分を分離し、静寂と混合し、藁束の端に塗布して浸透速度を計測した。藁の繊維は人間の皮膚とは構造が違うが、角質に似たバリア性を持つセルロース層の透過速度から、おおよその推定はできる。


 結果——テルペン混合型の静寂は、皮膚接触から四十五分で致死量が浸透する計算になった。


 遅い。経口投与の三十分より十五分遅い。だが——触れるだけで死ぬ毒が完成した。


 賢治は完成品を陶器の小瓶に入れ、蝋で密封した。


 メモ帳に書いた。


 『静寂・改(経皮型)。皮膚接触から心停止まで約四十五分。   テルペン系浸透促進剤との混合により角質バリアを突破。   投与法:対象の肌に直接塗布、または触れる物品に事前塗布。   注意:素手で扱えば自分も死ぬ。取り扱い時は必ず布か革で手を覆うこと。』


 最後の一行を書いたとき、賢治の手が一瞬止まった。


 自分が死ぬ。


 自分の作った毒で、自分が死ぬ可能性がある。それを、注意事項として——実験ノートに書いている。


***


 四日目。


 賢治はセレナに頼み事をした。


「セレナ。——翔太に、伝言を届けてほしい」


 セレナの碧い目が、僅かに動いた。


「前回と同様の——」


「違う。今回は、伝言だけでいい。紙は要らない」


「内容は」


「『しばらく連絡を絶て。手紙も出すな。俺のことは忘れろ。——理由は聞くな』」


 セレナは三秒間、賢治を見つめた。


「……承知しました」


「もう一つ。——翔太の周囲で、黒木の息子が何か嗅ぎ回っていないか。確認してくれ」


 セレナの目が——一瞬だけ、鋭くなった。護衛の目ではなく、もっと——情報を処理する目。


「蓮殿のことですか」


「お前は蓮を知っているか」


「第二環で何度かお見かけしました。——あの方は、翔太殿と同じ訓練場を使っています」


 同じ訓練場。


 賢治の背中に、冷たいものが走った。


 蓮と翔太が同じ場所にいる。蓮は翔太をいじめていたグループの中心人物だ。この世界でも、翔太の近くにいる。——偶然か。偶然ではないだろう。


「蓮の動きを、わかる範囲でいい。教えてくれ」


「……それは護衛の任務には——」


「含まれていない。わかっている。——だから、頼んでいる」


 セレナの碧い目が、賢治を見た。  ガラス玉のような目。——だが、ガラス玉の奥で、何かが回っていた。命令ではなく、頼まれている。任務ではなく、信頼されている。


 セレナにとって——それは、初めてのことだった。


「……善処いたします」


 小さな声だった。いつもの無機質な敬語と同じ音程。だが——語尾が、ほんの僅かだけ柔らかかった。


***


 五日目の夕刻。


 ナディアが来た。顔が厳しかった。


「来る。——今夜だ」


「ソフィアか」


「ああ。第七環の東路地から入ってくる。供は二人。——あの女、思ったより速かった。五日かかると思ったのに、四日半で辿り着きやがった」


「場所は」


「あんたの小屋。ソフィアはもう場所を特定してる。薬をもらった住民の一人が——喋った。金を積まれて」


 賢治は頷いた。予想通りだった。第七環の住民は忠誠心で動かない。金で動く。


「セレナは」


「小屋の外にいる。——だが佐伯、一つ問題がある」


「何だ」


「セレナはヴォルクの命令で蒸留師を守っている。ソフィアが交渉しに来た場合——セレナが先に切りかかる可能性がある。ヴォルクの敵だからな」


「ソフィアが死んだら、残党の情報が手に入らなくなる」


「そうだ。——だからセレナに『手を出すな』と言え。あんたの命令なら——」


「俺の命令は聞かない。ヴォルクの命令だけだ」


 ナディアが唇を噛んだ。


「……じゃあ、どうする」


「セレナには——今夜だけ、持ち場を離れてもらう」


「どうやって」


「翔太への伝言の返事を、今夜受け取りに行ってくれと頼む。——第二環まで往復すれば、二時間は空く」


 ナディアの目が細くなった。


「あんた——セレナを利用するのか。あの子の善意を」


「善意じゃない。あれは任務外の行動だ。任務外の行動を取る人間は——任務外の理由で動く。それを利用する」


 ナディアは五秒間、黙った。


「……あんた、最初に会ったときより——顔が変わったな」


「変わった。——変わらなければ、死ぬ」


 ナディアは何も言わず出ていった。


***


 夜。


 セレナが第二環に向かった。賢治の頼みを——一瞬の躊躇の後に、受けた。「翔太殿の返事をお持ちします」。碧い目に浮かんだのは、使命感だった。任務ではない。自分の判断。


 セレナの足音が遠ざかった。


 賢治は一人になった。小屋の中に、油灯の炎。藁束の上に、メモ帳と静寂の小瓶。


 ポケットの中に——城島の杯。


 二つの月が雲の切れ間から覗いている。夜風が壁の隙間を鳴らしている。


 待った。


 三十分後——扉が、叩かれた。


 三回。ナディアのリズムではない。もっと硬い、均等な間隔の三回。


 賢治は扉を開けた。


 月光の中に、黒い髪の女が立っていた。


 切れ長の目。百七十三センチ。肩に刀傷。右手に短剣の柄。左手には——何も持っていない。交渉の意思表示だ。


「初めまして、蒸留師。——いや」


 ソフィアの切れ長の目が、賢治の全身を舐めるように見た。


「佐伯賢治。三十九歳。元製薬会社研究員。理刻は微細分離。——調べさせてもらった」


 賢治は動かなかった。


「中に入るか」


「いいのか。——毒を盛られるかもしれないぞ」


「お前は俺を殺しに来たんじゃないだろう」


 ソフィアの切れ長の目が——僅かに、笑った。


「話が早い。——入らせてもらう」


***

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