第18話 副長の提案
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ソフィアは小屋に入ると、壁と扉の位置関係を一瞬で確認した。出口までの距離、窓の有無、床の素材。戦闘者の癖だ。逃走経路を三秒で把握する。
それから、藁束の上に腰を下ろした。足を組まない。右手は膝の上。短剣にいつでも手が届く位置。
賢治は作業台の前に座ったまま動かなかった。
「水を出そうか」
「結構。——あなたの出すものは、何も口にしない主義だ」
「賢いな」
「賢くなければ、あの地下室で死んでいた」
沈黙が三秒落ちた。油灯の炎が揺れ、二人の影が壁の上で交差している。
ソフィアが口を開いた。
「単刀直入に言う。——あなたを、ヴォルクから引き抜きたい」
「聞いている。ナディアから」
「情報屋は優秀だな。——では、理由も聞いているか」
「殺すより使う方が得だから」
ソフィアの切れ長の目が、僅かに細くなった。
「……ナディアの要約か。悪くないが、足りない。——聞いてくれ。五分でいい」
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ソフィアは語った。声は低く、淡々としていた。感情を交えず、事実を並べる話し方。賢治はその話し方に覚えがあった。学会で発表する研究者の話し方だ。
「ヴォルクは、あなたを道具としてしか見ていない。蒸留師という機能を買っている。あなた個人には何の関心もない。——違うか」
「否定しない」
「ヴォルクの組織は大きい。あなたはその中の一つの歯車だ。歯車が壊れたら、別の歯車を探す。見つからなければ——壊れた歯車を捨てる。あなたの家族も含めて」
賢治は黙って聞いていた。
「私が提案するのは、対等な関係だ。——赤牙は今、十一人しかいない。小さい。だが小さいからこそ、あなたの価値が組織の中で大きくなる。ヴォルクの下では百分の一だが、私の下では——いや、私の『隣』では、半分だ」
「隣」
「そうだ。あなたが薬と毒を作る。私が組織を動かす。対等な共同経営だ。利益は折半。意思決定も折半。——ヴォルクが与えない唯一のもの、それが対等だ」
賢治はソフィアの目を見た。
嘘はない。少なくとも——今この瞬間、ソフィアは本気でこの提案をしている。切れ長の目の奥に、必死さが隠れていた。赤牙は壊滅した。ドラガンは死んだ。十一人の残党では何もできない。蒸留師を手に入れなければ——赤牙は消滅する。
ソフィアにとって、これは交渉ではない。生存のための賭けだ。
「一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「お前は——ドラガンが死んだことを、どう思っている」
ソフィアの右手が、僅かに動いた。膝の上で、指先が一瞬だけ握られ——すぐに開いた。
「ドラガンは馬鹿だった。強かったが、馬鹿だった。あの男は暴力しか知らない。暴力で解決できない問題に出会ったことがなかった。——だから死んだ」
「悲しくはないのか」
「悲しい」
即答だった。
賢治は僅かに驚いた。ソフィアの声に、一切の迷いがなかった。
「悲しい。ドラガンは馬鹿で、粗暴で、酒癖が最悪で——私を副長にしたのは、自分が馬鹿だと知っていたからだ。『俺の代わりに考えてくれ、ソフィア』。あの男は——自分の弱さを認められる強さがあった。そういう意味では、まともだった」
ソフィアの声が、一音だけ低くなった。
「だから——あなたを恨んでいる。殺したいほど。だがそれでは何も解決しない。ドラガンなら殴りに来るだろう。私はそうしない。——悲しみを交渉に変えるのが、私の仕事だ」
賢治はメモ帳を膝の上に置いたまま、ソフィアを見ていた。
この女は——本物だ。
感情がある。悲しみがある。恨みがある。だが、それを計算の中に組み込んで動ける。ヴォルクとは違う種類の合理性。ヴォルクは感情そのものが希薄だ。ソフィアは感情を持ったまま、感情を制御している。
——自分に似ている。
その思考が頭をよぎった瞬間、賢治はポケットの中の小瓶を指先で触った。経皮型の静寂。蝋で密封してある。これを開けて——握手でもすれば、四十五分後にソフィアの心臓は止まる。
ヴォルクの命令は「片付けろ」だった。今夜、ここで終わらせることはできる。
だが——
「一つ、条件がある」
ソフィアの目が光った。条件を出す——つまり、交渉に応じる意思がある。
「言ってくれ」
「お前の提案は受けない」
ソフィアの右手が、短剣の柄に触れた。
「——だが、別の形なら組める」
右手が、止まった。
「別の形とは」
「俺はヴォルクの下に残る。お前は赤牙の残党を率いて、独立した勢力として動く。——表向きは敵のままだ」
「……裏で繋がる、ということか」
「そうだ。ヴォルクは俺を道具として使っている。お前は俺を対等な相手として扱うと言った。——だが、どちらか一方に属すれば、もう片方に潰される。両方と繋がっていれば——どちらからも潰されない」
ソフィアは五秒間、賢治を見つめた。
切れ長の目の奥で、計算が回っていた。高速で。変数を入れ替え、リスクを評価し、利益を算出している。
「……ヴォルクにバレたら、あなたは死ぬ」
「バレなければいい」
「甘いな。——ヴォルクはセレナをあなたに張りつけている。あの女は監視役だ」
「セレナは今夜いない。それに——セレナが監視する対象は蒸留師の行動だ。蒸留師が赤牙の副長と会った——それが報告されたら、確かに俺は死ぬ。だが、セレナが見ていなければ——何も起きていない」
「セレナがいない夜を作れる、ということか。——何度も」
「必要なときに」
ソフィアの唇が、薄く弧を描いた。笑みではなかった。もっと冷たい——敬意に近い表情。
「……あなた、製薬会社で何をしていたんだ。本当に」
「実験計画書を書いていた」
「嘘だろう」
「嘘じゃない。——ただ、実験の対象が変わっただけだ」
同じ台詞をナディアにも言った。だが——ソフィアに言ったとき、初めて、その言葉が嘘でないことを賢治自身が理解した。
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交渉は三十分で終わった。
合意事項は三つ。
一、ソフィアの赤牙は独立勢力として再建する。ヴォルクとの対立は表面上維持する。 二、賢治はソフィアに月二回、薬——ヴィオラ・ドロップではなく、抗菌剤や鎮痛剤——を供給する。ソフィアはそれを第五環で売り、赤牙の運営資金にする。 三、互いの情報を共有する。特に——ヴォルクの動向と、第二環の貴族たちの動き。
三番目の条件を出したのは、ソフィアだった。
「第二環の動きは、あなたにとっても重要なはずだ」
「なぜそう思う」
「あなたの家族が第二環にいる。息子の翔太は王宮守備の見習い。——そして、黒木剛の息子が翔太に近づいている」
賢治の指が止まった。
「それを——お前が知っているのか」
「赤牙には第二環にも目がある。——ドラガンは馬鹿だったが、私が十年かけて作った情報網は馬鹿ではない」
ソフィアが立ち上がった。外套の埃を払い、扉に向かった。
扉の前で、振り返った。
「佐伯。——一つだけ確認させてくれ」
「何だ」
「あなたは今夜、私を殺すつもりだったか」
賢治は三秒間、ソフィアを見つめた。
「……ああ」
「方法は」
「右のポケットに経皮吸収型の毒がある。握手で終わらせるつもりだった」
ソフィアの切れ長の目が、大きく見開かれた。——初めて、この女の顔に驚愕が浮かんだ。
「経皮——触れるだけで。……そんなものまで作れるのか」
「作れる」
「……なるほど。——あなたと敵対しなくて正解だった」
ソフィアが扉を開けた。月光が差し込んだ。黒い髪が銀色に光り、切れ長の目が月の光を反射した。
「では——表向きは敵のままで。裏では——味方、ということにしておく」
「味方ではない。利害の一致だ」
「結構。——それで十分だ」
ソフィアが闇の中に消えた。
足音は——聞こえなかった。この女は、足音を消す訓練を受けている。
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賢治は一人になった。
油灯の炎を見つめている。
ポケットの中に、二つのものがある。右のポケットに、使わなかった毒。左のポケットに、城島の杯。
城島は殺した。ソフィアは殺さなかった。
その差は——何だ。
城島は脅迫してきた。ソフィアは交渉してきた。脅迫には毒で応じ、交渉には計算で応じた。
——合理的だ。
だが、合理的であることが、正しいこととは限らない。城島が交渉してきたら——殺さなかったか? ソフィアが脅迫してきたら——殺したか?
答えは出ない。出ないまま、賢治はメモ帳を開いた。
『ソフィアとの密約。成立。 赤牙との二重関係を維持。 ヴォルクには「ソフィア未発見」と報告。 ——ヴォルクに嘘をつく。初めて。 これでヴォルクとの信頼関係は——。 信頼関係? 最初からなかった。 あったのは利用関係だ。利用される側が、利用する側に回る。 それだけのことだ。』
メモ帳を閉じた。
窓の穴から、夜風が吹き込んでいた。 遠くで、二つ目の月が雲の向こうに消えた。
セレナはまだ戻っていない。 あの碧い目が——翔太の返事を携えて戻ってきたとき、賢治は何食わぬ顔で「ありがとう」と言うのだろう。
善意を利用した。 そのことが——城島を殺したときとは、また違う種類の重さで、胸の底に沈んでいった。
ポケットの中で、城島の杯がこつんと腿に当たった。
もう一つの杯が——いつか、増えるのかもしれない。 増えないように生きたいと思った。 思えるうちは——まだ、人間だと。
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