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紫の雫(ヴィオラ・ドロップ) ——異世界に転移した薬学者は、毒と薬で裏社会の頂点に立つ —   作者: イロハ
第一部「灰の檻」

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第18話 副長の提案

***


 ソフィアは小屋に入ると、壁と扉の位置関係を一瞬で確認した。出口までの距離、窓の有無、床の素材。戦闘者の癖だ。逃走経路を三秒で把握する。


 それから、藁束の上に腰を下ろした。足を組まない。右手は膝の上。短剣にいつでも手が届く位置。


 賢治は作業台の前に座ったまま動かなかった。


「水を出そうか」


「結構。——あなたの出すものは、何も口にしない主義だ」


「賢いな」


「賢くなければ、あの地下室で死んでいた」


 沈黙が三秒落ちた。油灯の炎が揺れ、二人の影が壁の上で交差している。


 ソフィアが口を開いた。


「単刀直入に言う。——あなたを、ヴォルクから引き抜きたい」


「聞いている。ナディアから」


「情報屋は優秀だな。——では、理由も聞いているか」


「殺すより使う方が得だから」


 ソフィアの切れ長の目が、僅かに細くなった。


「……ナディアの要約か。悪くないが、足りない。——聞いてくれ。五分でいい」


***


 ソフィアは語った。声は低く、淡々としていた。感情を交えず、事実を並べる話し方。賢治はその話し方に覚えがあった。学会で発表する研究者の話し方だ。


「ヴォルクは、あなたを道具としてしか見ていない。蒸留師という機能を買っている。あなた個人には何の関心もない。——違うか」


「否定しない」


「ヴォルクの組織は大きい。あなたはその中の一つの歯車だ。歯車が壊れたら、別の歯車を探す。見つからなければ——壊れた歯車を捨てる。あなたの家族も含めて」


 賢治は黙って聞いていた。


「私が提案するのは、対等な関係だ。——赤牙は今、十一人しかいない。小さい。だが小さいからこそ、あなたの価値が組織の中で大きくなる。ヴォルクの下では百分の一だが、私の下では——いや、私の『隣』では、半分だ」


「隣」


「そうだ。あなたが薬と毒を作る。私が組織を動かす。対等な共同経営だ。利益は折半。意思決定も折半。——ヴォルクが与えない唯一のもの、それが対等だ」


 賢治はソフィアの目を見た。


 嘘はない。少なくとも——今この瞬間、ソフィアは本気でこの提案をしている。切れ長の目の奥に、必死さが隠れていた。赤牙は壊滅した。ドラガンは死んだ。十一人の残党では何もできない。蒸留師を手に入れなければ——赤牙は消滅する。


 ソフィアにとって、これは交渉ではない。生存のための賭けだ。


「一つ聞いていいか」


「どうぞ」


「お前は——ドラガンが死んだことを、どう思っている」


 ソフィアの右手が、僅かに動いた。膝の上で、指先が一瞬だけ握られ——すぐに開いた。


「ドラガンは馬鹿だった。強かったが、馬鹿だった。あの男は暴力しか知らない。暴力で解決できない問題に出会ったことがなかった。——だから死んだ」


「悲しくはないのか」


「悲しい」


 即答だった。


 賢治は僅かに驚いた。ソフィアの声に、一切の迷いがなかった。


「悲しい。ドラガンは馬鹿で、粗暴で、酒癖が最悪で——私を副長にしたのは、自分が馬鹿だと知っていたからだ。『俺の代わりに考えてくれ、ソフィア』。あの男は——自分の弱さを認められる強さがあった。そういう意味では、まともだった」


 ソフィアの声が、一音だけ低くなった。


「だから——あなたを恨んでいる。殺したいほど。だがそれでは何も解決しない。ドラガンなら殴りに来るだろう。私はそうしない。——悲しみを交渉に変えるのが、私の仕事だ」


 賢治はメモ帳を膝の上に置いたまま、ソフィアを見ていた。


 この女は——本物だ。


 感情がある。悲しみがある。恨みがある。だが、それを計算の中に組み込んで動ける。ヴォルクとは違う種類の合理性。ヴォルクは感情そのものが希薄だ。ソフィアは感情を持ったまま、感情を制御している。


 ——自分に似ている。


 その思考が頭をよぎった瞬間、賢治はポケットの中の小瓶を指先で触った。経皮型の静寂。蝋で密封してある。これを開けて——握手でもすれば、四十五分後にソフィアの心臓は止まる。


 ヴォルクの命令は「片付けろ」だった。今夜、ここで終わらせることはできる。


 だが——


「一つ、条件がある」


 ソフィアの目が光った。条件を出す——つまり、交渉に応じる意思がある。


「言ってくれ」


「お前の提案は受けない」


 ソフィアの右手が、短剣の柄に触れた。


「——だが、別の形なら組める」


 右手が、止まった。


「別の形とは」


「俺はヴォルクの下に残る。お前は赤牙の残党を率いて、独立した勢力として動く。——表向きは敵のままだ」


「……裏で繋がる、ということか」


「そうだ。ヴォルクは俺を道具として使っている。お前は俺を対等な相手として扱うと言った。——だが、どちらか一方に属すれば、もう片方に潰される。両方と繋がっていれば——どちらからも潰されない」


 ソフィアは五秒間、賢治を見つめた。


 切れ長の目の奥で、計算が回っていた。高速で。変数を入れ替え、リスクを評価し、利益を算出している。


「……ヴォルクにバレたら、あなたは死ぬ」


「バレなければいい」


「甘いな。——ヴォルクはセレナをあなたに張りつけている。あの女は監視役だ」


「セレナは今夜いない。それに——セレナが監視する対象は蒸留師の行動だ。蒸留師が赤牙の副長と会った——それが報告されたら、確かに俺は死ぬ。だが、セレナが見ていなければ——何も起きていない」


「セレナがいない夜を作れる、ということか。——何度も」


「必要なときに」


 ソフィアの唇が、薄く弧を描いた。笑みではなかった。もっと冷たい——敬意に近い表情。


「……あなた、製薬会社で何をしていたんだ。本当に」


「実験計画書を書いていた」


「嘘だろう」


「嘘じゃない。——ただ、実験の対象が変わっただけだ」


 同じ台詞をナディアにも言った。だが——ソフィアに言ったとき、初めて、その言葉が嘘でないことを賢治自身が理解した。


***


 交渉は三十分で終わった。


 合意事項は三つ。


 一、ソフィアの赤牙は独立勢力として再建する。ヴォルクとの対立は表面上維持する。  二、賢治はソフィアに月二回、薬——ヴィオラ・ドロップではなく、抗菌剤や鎮痛剤——を供給する。ソフィアはそれを第五環で売り、赤牙の運営資金にする。  三、互いの情報を共有する。特に——ヴォルクの動向と、第二環の貴族たちの動き。


 三番目の条件を出したのは、ソフィアだった。


「第二環の動きは、あなたにとっても重要なはずだ」


「なぜそう思う」


「あなたの家族が第二環にいる。息子の翔太は王宮守備の見習い。——そして、黒木剛の息子が翔太に近づいている」


 賢治の指が止まった。


「それを——お前が知っているのか」


「赤牙には第二環にも目がある。——ドラガンは馬鹿だったが、私が十年かけて作った情報網は馬鹿ではない」


 ソフィアが立ち上がった。外套の埃を払い、扉に向かった。


 扉の前で、振り返った。


「佐伯。——一つだけ確認させてくれ」


「何だ」


「あなたは今夜、私を殺すつもりだったか」


 賢治は三秒間、ソフィアを見つめた。


「……ああ」


「方法は」


「右のポケットに経皮吸収型の毒がある。握手で終わらせるつもりだった」


 ソフィアの切れ長の目が、大きく見開かれた。——初めて、この女の顔に驚愕が浮かんだ。


「経皮——触れるだけで。……そんなものまで作れるのか」


「作れる」


「……なるほど。——あなたと敵対しなくて正解だった」


 ソフィアが扉を開けた。月光が差し込んだ。黒い髪が銀色に光り、切れ長の目が月の光を反射した。


「では——表向きは敵のままで。裏では——味方、ということにしておく」


「味方ではない。利害の一致だ」


「結構。——それで十分だ」


 ソフィアが闇の中に消えた。


 足音は——聞こえなかった。この女は、足音を消す訓練を受けている。


***


 賢治は一人になった。


 油灯の炎を見つめている。


 ポケットの中に、二つのものがある。右のポケットに、使わなかった毒。左のポケットに、城島の杯。


 城島は殺した。ソフィアは殺さなかった。


 その差は——何だ。


 城島は脅迫してきた。ソフィアは交渉してきた。脅迫には毒で応じ、交渉には計算で応じた。


 ——合理的だ。


 だが、合理的であることが、正しいこととは限らない。城島が交渉してきたら——殺さなかったか? ソフィアが脅迫してきたら——殺したか?


 答えは出ない。出ないまま、賢治はメモ帳を開いた。


 『ソフィアとの密約。成立。   赤牙との二重関係を維持。   ヴォルクには「ソフィア未発見」と報告。   ——ヴォルクに嘘をつく。初めて。   これでヴォルクとの信頼関係は——。   信頼関係?   最初からなかった。   あったのは利用関係だ。利用される側が、利用する側に回る。   それだけのことだ。』


 メモ帳を閉じた。


 窓の穴から、夜風が吹き込んでいた。  遠くで、二つ目の月が雲の向こうに消えた。


 セレナはまだ戻っていない。  あの碧い目が——翔太の返事を携えて戻ってきたとき、賢治は何食わぬ顔で「ありがとう」と言うのだろう。


 善意を利用した。  そのことが——城島を殺したときとは、また違う種類の重さで、胸の底に沈んでいった。


 ポケットの中で、城島の杯がこつんと腿に当たった。


 もう一つの杯が——いつか、増えるのかもしれない。  増えないように生きたいと思った。  思えるうちは——まだ、人間だと。


***

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