第18.5話 第二環の日々——佐伯家の食卓
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——美智子の視点。
第二環の仮住まいは、第七環の小屋とは別の世界だった。
石造りの二階建て。窓にはガラスが入り、床には木板が敷かれ、暖炉がある。寝室が二つ。台所には石管を通じた簡易上水が通っていた。壁には前の住人が残していった織物がかかっている。花と鳥の模様。この世界の花は紫が多いらしく、織物の花も紫だった。
日本にいた頃の家は、郊外の建売住宅だった。三LDK。築十五年。壁紙は一度も張り替えていない。台所の蛇口が水漏れしていて、賢治が何度も直そうとしたが結局業者を呼んだ。庭には美智子が植えたミニトマトのプランターがあった。
この世界の家の方が、日本の家より立派だった。 そのことが——美智子には、一番堪えた。
夫が第七環の小屋にいて、自分たちが石造りの家にいる。夫は灰色のパンを食べ、自分たちは白いパンを食べている。夫は藁束の上で眠り、自分たちは布団の上で眠っている。
その格差を、美智子は毎朝——パンを切るたびに思い出した。
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朝食の支度をしていると、葵が二階から降りてきた。
十四歳。母親似の丸い目。黒髪はツインテールをやめて、肩の下で一つに束ねるようになった。日本にいた頃の中学校の制服は着替えがないのでとっくにボロボロで、今はこの世界の麻の服を着ている。少し大きくて、袖が余っている。
「おはよう、ママ」
「おはよう。——咳、大丈夫?」
「うん。昨日よりマシ」
嘘だった。美智子にはわかる。葵が「マシ」と言うとき、本当にマシなことは半分くらいしかない。残りの半分は、心配をかけたくないから「マシ」と言っている。
葵は卓の前に座り、パンを小さく千切って食べ始めた。食べ方が上品だった。日本にいた頃は大きな口で齧っていたのに、いつの間にか——千切って食べるようになっている。この世界の貴族街の子供たちの食べ方を真似ているのだ。
適応している。十四歳の少女は、異世界に——適応し始めている。
それが良いことなのかどうか、美智子にはわからなかった。
「ママ。今日、サラさんちに行っていい?」
「サラさん?」
「隣の家の子。同い年くらいの。——この世界の言葉、教えてもらってるの」
美智子は手を止めた。隣の家——第二環の貴族の家の子供と、葵が交流している。言語補助があるとはいえ、この世界の文字や礼儀作法は別途覚える必要がある。葵がそれを自主的にやっている。
「……いいけど、夕方までに帰ってきなさい」
「うん!」
葵が笑った。丸い目が細くなる。日本にいた頃と同じ笑い方。花火大会で金魚の袋を掲げたときの、あの笑顔。
美智子は包丁を置き、エプロン代わりの布で手を拭いた。 振り返って葵を見た。麻の服。余った袖。小さく千切ったパン。笑顔。
——この子を、守らなければならない。
その思いは日本にいた頃から変わらなかった。変わったのは——守るべき相手が増えたことではなく、守り方がわからなくなったことだった。
日本では、守るとは「働いて、食べさせて、学校に行かせる」ことだった。明確で、具体的で、毎日やることが決まっていた。
ここでは——何をすれば、この子を守れるのか。わからない。
夫は第七環にいる。何をしているかは——薄々わかっている。いや、わかりたくないだけで、本当はもうわかっている。
翔太の靴についていた赤い土。帰りが遅い夜の、少し強張った表情。「父さんに手紙を届けた」と言ったときの、声のトーンの微妙な変化。
美智子は、息子の嘘が下手なことを知っている。翔太は父親に似て、感情を隠すのが不得意だ。隠しているつもりでも、耳が赤くなる。
だから——聞かなかった。聞いたら、答えを聞かなければならない。答えを聞いたら——行動しなければならない。止めるか、受け入れるか。
止めたら、夫との繋がりが切れる。 受け入れたら——自分も共犯になる。
美智子はどちらも選ばなかった。知らないふりをすることを選んだ。
それが——母親としての、精一杯の判断だった。
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翔太が階段を降りてきたのは、葵が出かけた後だった。
王宮守備の見習い服。白い上衣に革のベスト。日本にいた頃は猫背だった背中が、少しだけ伸びていた。訓練で筋肉がつき始め、肩幅が広くなっている。前髪の下の目が、まだ暗いが——日本にいた頃より、僅かに光がある。
「おはよう」
「おはよ。——パン、残してあるよ」
翔太がパンを手に取り、大きく齧った。葵とは違う。この男の子は食べ方を変えない。日本にいた頃と同じ、がぶりと齧る食べ方。
「母さん」
「ん?」
「父さんから——返事、来た」
美智子の手が止まった。
「……何て」
「『しばらく連絡を絶て。手紙も出すな。俺のことは忘れろ。理由は聞くな』」
パンを切る包丁が、卓の上に音を立てて置かれた。美智子は両手を膝の上で握った。
忘れろ。
あの人は——忘れろ、と言った。
十八年一緒にいた。結婚したのは美智子が十九歳、賢治が二十一歳のとき。大学の研究室で出会った。美智子は文学部で、賢治は薬学部で、接点は学食のカレーライスだった。隣の席に座った冴えない男が、カレーを食べながらメモ帳に分子構造を書いていて——「それ、何ですか」と聞いたのが始まりだった。
賢治は三十秒ほど考えてから、「カフェインです。今飲んでるコーヒーに入ってる分子の形」と答えた。
変な人だと思った。変な人だと思ったまま、十八年が経った。
その十八年の中で、賢治が「忘れろ」と言ったことは一度もなかった。
——つまり、今、あの人は本当に追い詰められている。
「母さん——」
「大丈夫。お父さんがそう言うなら、そうした方がいいんでしょう。あの人は——理由があるときしか、ああいうことは言わない」
美智子の声は平坦だった。夫に似ている。追い詰められたとき、声のトーンが変わらない。
だが——握った拳の、爪が掌に食い込んでいることを、翔太は見ていた。
「母さん、父さんがあっちで何やってるか——知ってる?」
「知らない。——知りたくない」
三秒間の沈黙。
「母さん」
「何」
「俺、訓練で——強くなってる。理刻も、少しずつ使えるようになってきた。もし父さんに何かあったら、俺が——」
「翔太」
美智子の声が、初めて鋭くなった。
「あなたは何もしなくていい。訓練を続けなさい。葵を守りなさい。——お父さんのことは、お父さんが自分で何とかする。あの人は——そういう人だから」
そういう人だから。
一人で全部抱え込んで、家族に迷惑をかけまいとして、結局一人で追い詰められる——そういう人。
美智子はそのことを、十八年前から知っていた。
翔太は何か言いかけたが、母親の目を見て口を閉じた。父親が「この顔」をしているときは何を言っても無駄だと十七年の経験で知っているのと同じように、母親が「この目」をしているときは何を言っても無駄だと——知っていた。
「……訓練、行ってくる」
「気をつけて。——あと翔太」
「ん?」
「葵に、もう一枚絵を描いてもらってくれる?」
「……父さんに?」
「うん。——届けられるときが来たら、届ければいい」
翔太が頷いて出ていった。
扉が閉まった。
美智子は卓の上のパンを見下ろした。白いパン。夫は今朝——食べたのだろうか。
涙は出なかった。
この世界に来てから、一度も泣いていない。子供の前では泣かないと決めたのは日本にいた頃だ。その決意は——異世界でも変わらなかった。
だが——爪の跡だけが、掌に赤く残っていた。
美智子はその手で、残りのパンを包んだ。布に包んで、棚にしまった。
夫の分として——毎朝、パンを一つ余分に包む癖がついていた。届けられないのに。届ける方法がないのに。
それでもパンを包む。
それが——佐伯美智子にできる、唯一の抵抗だった。
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