第19話 拡がる紫
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ソフィアとの密約から二週間が過ぎた。
その二週間で、賢治の世界は——静かに、しかし確実に、膨張していた。
ヴィオラ・ドロップの流通域が第五環に達した。ナディアの販売網に加え、ソフィアの旧赤牙ルートが稼働したことで、紫の薬は第六環を飛び越えて第五環の商人街に入り始めた。
第五環は金がある。第六環や第七環の住人が小銅貨で買うものを、第五環の商人たちは銀貨で買う。しかも——量が違う。第六環では一滴を三人で分け合うような使い方だったが、第五環の富裕層は一人で三滴を使う。
需要が、爆発的に伸びた。
賢治は夜哭き菫の採取量を倍にし、精製工程を効率化した。ボールペンの先で分子を操作する作業は変わらないが、一度に処理できる量が——理刻の「精度」が上がったことで、増えていた。
筋肉が鍛錬で強くなるように、理刻も使い込むことで練度が上がるらしい。セレナがそう教えてくれた。
銀貨が積み上がっていった。賢治の藁束の下に、布袋が三つ。中身は合計二百枚を超えている。
だが——賢治はその銀貨を使わなかった。灰色のパンを食い、藁束の上で眠り、ヨレたポロシャツを着続けた。
金は道具だ。使うために貯めるのではなく、使える状態にしておくために貯める。いつ、何が起きるかわからない。金が必要になる瞬間は——必ず来る。
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流通が第五環に達したことで、予想していなかった反応が起きた。
第五環の商人たちが、「蒸留師」の正体に興味を持ち始めたのだ。
ナディアが報告した。
「第五環の薬商ギルド——『碧瓶会』っていう商人の組合だが、あいつらがヴィオラ・ドロップの出所を調べ始めた。理由は二つ。一つは、あの薬がギルドを通さず流通していること。ギルドの縄張りを荒らしてる」
「もう一つは」
「品質だ。第五環にも薬師はいるし、精製された薬もある。だがヴィオラ・ドロップの純度は——あいつらの商品とは比較にならない。ギルドの薬師が分析しようとしたが、構造が複雑すぎて再現できなかった」
「再現しようとした?」
「ああ。——失敗した。出来上がったのは、ただの紫色の水だったらしい」
賢治は唇の端を僅かに持ち上げた。当然だ。ヴィオラ・ドロップの精製には分子レベルの操作が必要だ。この世界の薬師は——植物を煮て、濾して、乾かすことはできる。だが、分子構造を視て、特定の官能基だけを選択的に切り離すことは——賢治の理刻なしには不可能だ。
「碧瓶会が動くと、厄介か」
「厄介だ。あいつらは金を持ってるし、第四環の貴族とも繋がりがある。本気で調べ始めたら——あんたの正体に辿り着く可能性がある。ソフィアより速いかもしれない」
「ソフィアには情報を流すか」
「流した。ソフィアの方でも碧瓶会を監視するって言ってる。——だがこれは二重のリスクだ。碧瓶会があんたを見つけるか、碧瓶会を通じてソフィアとの繋がりがバレるか。どっちに転んでも面倒だ」
賢治はメモ帳を開いた。
問題は大きくなっている。
最初は第七環の小さな取引だった。ナディアと二人で、細々と薬を売っていた。それが——赤牙との抗争、城島の殺害、ソフィアとの密約を経て、今や三つの勢力と関わり、第五環の商人ギルドまで巻き込みつつある。
雪だるまだ。転がるたびに大きくなる。そして——大きくなるほど、止められなくなる。
『碧瓶会——第五環の薬商ギルド。 対応策: 一、流通量を減らして注目を避ける。→ 売上減。ヴォルクの不満。 二、碧瓶会と取引する。→ 正体露呈のリスク。だが味方に引き入れれば情報統制が可能。 三、碧瓶会を潰す。→ 非現実的。ギルドは合法組織。ヴォルクでも手が出せない。 結論:二が最善。だが——時期はまだ早い。情報を集めてから動く。』
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碧瓶会の問題を考えている間にも、第七環の住民たちは——賢治の小屋を訪ねてきた。
きっかけは水沢理沙の赤ん坊だった。
赤ん坊が下痢を起こし、三日間水しか受け付けなくなった。理沙が賢治の小屋に駆け込んできたのは、三日目の夜だった。
長い黒髪を振り乱し、赤ん坊を片腕に抱えたまま。垂れ目がちの柔和な顔が涙で歪んでいる。唇が震えていた。頬は痩せていた。この一ヶ月で、理沙自身もろくに食べていないのだろう。自分の食事を赤ん坊に回しているのだ。
「佐伯さん——お願い——この子だけは。何でもするから。何でも。——お金はない。でも何でもする。だから——」
声が途切れた。涙で声が出なくなったのだ。
赤ん坊の顔を見た。小さい。信じられないほど小さい。肌が灰色がかっている。脱水が進んでいる。この世界に来たとき泣いてすらいなかった赤ん坊が——今も泣いていなかった。泣く力がないのだ。
賢治は棚から陶器の器を取り出した。夜哭き菫ではない。小屋の裏に生えている別の薬草——ナディアが「白苦草」と呼んでいる、白い茎の地味な植物から抽出した抗菌成分を、水に溶かした。
理刻で成分を視ながら、濃度を調整する。赤ん坊の体重——おそらく四キロ以下。投与量を間違えれば毒になる。
パラケルススの言葉が、また頭をよぎった。量だけが毒と薬を分ける。
「——これを、一日三回、指先に一滴ずつ口に含ませろ。三日続けろ。それ以上入れるな」
理沙が薬を受け取った。手が震えていた。
「佐伯さん——お金——」
「要らない。金を取ったら、次に子供が病気になったとき、金がないから来られなくなる。——来い。いつでも」
理沙の目から、涙がこぼれた。
声を上げて泣いた。赤ん坊を抱いたまま、小屋の土の床にしゃがみ込んで。
「ありがとう——ありがとう——」
賢治はその姿を見ながら、メモ帳を膝の上に置いていた。
開かなかった。書けることがなかった。
毒を作る手で、赤ん坊を救った。城島を殺した手で、薬を渡した。その手は今夜もヴィオラ・ドロップを精製する。快楽を売り、金を稼ぎ、人を堕落させる薬を——同じ手で。
理沙が泣きながら出ていった後、セレナが——珍しく、視線を動かした。正面を向いていた碧い目が、理沙の背中を追い、それから賢治を見た。
一瞬だけ。
その一瞬に——何が映っていたのか。賢治にはわからなかった。
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理沙の口から噂が広がった。
「第七環に薬を作れる人がいる」。 その噂は——ヴィオラ・ドロップの「蒸留師」の噂とは、別の文脈で広がっていった。
腹痛の老人が来た。膝を怪我した子供が来た。咳が止まらない女が来た。出産後に熱を出した若い母親が来た。
賢治は全員に薬を出した。無料で。
藁束の下に二百枚の銀貨があるのに、薬は無料で配った。
——ナディアの妹のエレナを殺したのと同じ種類の病気で苦しんでいる人間が、第七環にはまだ何十人もいた。
賢治がそれを知ったのは、エレナの話を聞いた後だ。聞く前は——第七環の住民が病気で死ぬことを、数字としてしか認識していなかった。転移してきた日に見た、無言で列を見つめる住民たち。あの乾いた目。
今は——顔が見える。名前がわかる。
腹痛の老人はグリゴリー。膝の子供はマルカ。咳の女はエリナ。
名前を知ってしまった。顔を見てしまった。
知らなければ——数字のままだった。数字なら、無視できた。名前と顔を持った人間は、無視できない。
これが——善意なのか。 それとも——ナディアを繋ぎ止めるための投資なのか。
賢治自身にも、わからなくなっていた。
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ある日の午後、ヴォルクに呼ばれた。
「蒸留師。最近、第七環で薬を配っているそうだな」
ヴォルクの声は穏やかだった。灰色の目。銀の髪。この男が声を荒げることは——おそらく、一生ない。
「配っている。——第七環の住民が健康でいれば、ヴィオラ・ドロップの走り屋も元気に走る。経営判断だ」
「なるほど。経営判断か。——善行ではなく」
「善行はしない。善行は赤字だ」
ヴォルクが笑った。薄い笑み。だが——灰色の目は笑っていなかった。目の奥で、何かが動いている。天秤が傾くのを見定めるような、冷たい計算の動き。
「結構。——善行をしない人間は、信用できる。善行をする人間は——いつか、善行のために裏切る」
五秒の沈黙。ヴォルクが机の上の銀貨を指先で弾いた。かちん、と小さな音。
「蒸留師。お前に質問がある。——お前にとって、第七環の住民は何だ」
「客だ」
「客。——それだけか」
「それだけだ。薬を使う客と、ヴィオラ・ドロップを運ぶ駒。どちらも健康でなければ機能しない」
ヴォルクは三秒間、賢治を見つめた。灰色の目が、賢治の目の奥を覗き込もうとしている。嘘を探している。
賢治は目を逸らさなかった。十五年間、黒木剛の前でこの顔を維持してきた。ヴォルクの視線は黒木より冷たいが——強さは同じだ。
「……結構。——続けていい。ただし、一つ条件がある」
「何だ」
「薬を配るとき、必ず灰の商会の名前を出せ。『灰の商会からの施しだ』と。——お前個人の善行ではなく、灰の商会の事業だと住民に認識させろ」
賢治は一瞬で理解した。
ヴォルクは——薬の配布そのものを止めるつもりはない。住民の健康が商会の利益になることは認めている。だが——住民の感謝が賢治個人に向くことは許さない。感謝は灰の商会に向かなければならない。
忠誠の矛先を、コントロールしている。
「……わかった」
「良い返事だ。——蒸留師、お前は賢い。賢い人間は好きだ。だが——賢すぎる人間は、もっと好きだ。なぜか知っているか」
「なぜだ」
「賢すぎる人間は、自分の賢さで自分を追い詰める。——見ていて飽きない」
ヴォルクが笑った。今度は——灰色の目も笑っていた。それが——穏やかな笑みより、遥かに恐ろしかった。
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拠点を出て第七環に戻る道で、賢治はヴォルクの言葉を反芻していた。
『賢すぎる人間は、自分の賢さで自分を追い詰める』。
その通りだと思った。
ヴォルクとソフィアの二重関係。碧瓶会の台頭。黒木の動き。蓮の翔太への接近。
全てを把握し、全てに対処しようとしている。だが——対処するたびに、新しい問題が生まれる。問題を解決するたびに、解決手段そのものが次の問題を呼ぶ。
毒を作ったらドラガンの問題は解決した。だがソフィアが逃げた。ソフィアと密約したらヴォルクへの嘘が生まれた。販路を広げたら碧瓶会が動いた。薬を配ったらヴォルクに警戒された。
——雪だるまは、止まらない。
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その夜、セレナが——珍しく、自分から話しかけてきた。
「蒸留師殿」
「何だ」
「翔太殿の訓練についてですが——ご報告があります」
賢治はメモ帳を閉じた。
「蓮か」
「はい。蓮殿が翔太殿に——接触を増やしています。訓練場で隣の位置を取り、昼食を共にし、時折声をかけている」
「友好的に見えるか」
「はい。——ただし、翔太殿の反応を、蓮殿が観察しています。友好が目的ではなく、翔太殿の性格と行動パターンを——記録しているように見えます」
記録している。
黒木剛のやり方だ。部下の弱みを把握し、カードとして蓄える。息子にも同じことを仕込んでいる。
「翔太は——どう反応してる」
「警戒しています。蓮殿の誘いには応じますが、自分からは話しかけません。訓練中は距離を取り、食事は——必ず、人の多い場所で取るようにしています。一対一の状況を避けています」
——翔太は、わかっているのだ。
蓮が何を考えているか。日本にいた頃のいじめの経験が、ここで生きている。翔太は蓮の悪意を——体で知っている。
「セレナ。お前がそれを俺に教えるのは——任務の範囲か」
セレナの碧い目が、月光の中で揺れた。
「……いいえ。任務外です」
「なぜ教える」
セレナは三秒間黙った。それから、碧い目を——初めて、伏せた。視線が地面に落ちた。銀がかった金髪が、月光に白く光っている。
「……翔太殿に頼まれました。『父さんに伝えてくれ』と」
「もう来るな」と言った。「連絡を絶て」と言った。「俺のことは忘れろ」と言った。
——翔太は、何一つ聞いていなかった。
「……セレナ」
「はい」
「翔太に——伝えてくれ。『わかった。気をつけろ』、と」
「それだけですか」
「それだけでいい」
セレナが頷いた。碧い目が正面に戻った。
だが——立ち去る前に、セレナは一瞬だけ振り返った。
「蒸留師殿。——翔太殿は、強くなっています」
小さな声だった。報告ではなかった。感想だった。
セレナの口から「感想」が出たのは、これが初めてだった。
賢治は扉を閉じた。
藁束の上に座り、メモ帳を開いた。葵の絵が挟まっている。四つの棒人間。二つの太陽。
翔太が強くなっている。 葵が適応し始めている。 美智子が——たぶん、一人で耐えている。
家族は生きている。それぞれの場所で、それぞれの方法で。
賢治がここで壊れていく間にも——家族は、生き続けている。
それが——救いなのか、重荷なのか。
メモ帳を閉じた。
今夜は——眠れなかった。 久しぶりだった。 久しぶりに——人間の夜だった。
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