第20話 赤い夜
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——翔太の視点。
木剣が、頭上を掠めた。
風圧が前髪を揺らす。一瞬遅れていたら額が割れていた。翔太は右に跳んで距離を取り、木剣を正面に構え直した。
訓練場は第二環の東端にある。白い石壁に囲まれた円形の広場で、床に砂が敷いてある。朝の陽が壁の上から差し込み、砂の上に長い影を落としている。
相手は訓練教官のバルド。四十代後半。禿頭に深い傷跡。上半身は岩のように太く、木剣を片手で振る腕力がある。だが足が遅い。右膝に古傷があるらしく、踏み込みのとき一瞬だけ重心がブレる。
翔太はそれを見ていた。
一年半のいじめで学んだことが一つある。人間の動きを「読む」技術だ。殴られる前に避ける。蹴られる前に逃げる。集団の中で、次に誰が動くかを予測する。暴力への恐怖が磨いた、生存のための観察力。
バルドの二撃目。右膝のブレを利用して左に回り込み、胴を打つ——タイミングは見えている。だが体が追いつかない。翔太の腕力では、木剣の一振りにバルドの半分の力しか乗らない。
胴を打った。バルドは微動もしなかった。
「弱い。目は良い。体が足りない」
翔太は膝をついて息を整えた。
「——もう一本」
「休め」
バルドが訓練場の端を顎で示した。壁際で次の組が待っている。
その後ろに——蓮が立っていた。
白い騎士服に銀の肩章。端正な顔に、いつもの薄笑い。壁に背をもたれて腕を組み、翔太の訓練を見ていた。
「見ていた」の意味が翔太にはわかる。蓮の目は観察だ。楽しんでいるのではない。記録している。翔太の動きの癖、反応速度、理刻の使い方。全部、あの薄笑いの裏で整理されている。
高校のときと同じだ。蓮は直接手を出さない。弱点を観察し、取り巻きに「やれ」と目配せする。自分は少し離れた場所にいて、薄笑いで見ている。
***
井戸で顔を洗っていると、蓮が隣に来た。
「おつかれー、翔太」
翔太の肩甲骨の間に冷たいものが走った。条件反射だ。この声を聞くと体が固まる。一年半かけて刻み込まれた恐怖。
「……おつかれ」
「バルドの訓練キツいっしょ。でも翔太、目は良いよな。あの右膝のクセ、初日で見抜いてたろ」
褒めている。だが蓮は人を褒めるとき、必ず相手の弱点とセットにする。
「まあ、体が追いつかないのは——理刻使えばなんとかなるって。やってみたことある?」
「……まだ、うまく使えない」
嘘だ。翔太は訓練時間外の夜、一人で理刻を練習していた。全身を覆う防御膜。持続時間は三秒。それ以上は反動で膝が抜ける。三秒では戦闘に使えない。だが一発だけなら——防げる。
「そういえばさ、翔太。父さん元気?」
翔太の手が井戸の石に爪を立てた。
「……知らない」
「知らない? 連絡取ってないの?」
「取るなって言われてる」
「へー。寂しいね」
同情はゼロだった。蓮が翔太の肩を軽く叩いた。その手が触れた瞬間、翔太の全身が硬直した。高校のとき、肩を叩く動作は「始まり」の合図だった。
だが——ここには取り巻きはいない。
蓮の手が離れた。
「じゃ、また明日な」
蓮が去っていった。
翔太は拳を握った。金色の光が、一瞬だけ指先に灯り——消えた。
高校では逃げ方しか学べなかった。ここでは——守り方を学んでいる。
***
——第七環。同日夜。
異変が起きたのは、二つ目の太陽が沈んでからだった。
セレナは第二環への用事で不在だった。ナディアは第五環の情報源と接触するため昼から出ている。
賢治は一人だった。
小屋の藁束の上でメモ帳を開き、ヴィオラ・ドロップの精製記録を書いていた。油灯の炎が壁に影を落とし、外では第七環の夜が静かに更けていく。
静かすぎた。
第七環の夜は——いつもなら、もう少し音がある。犬のような生物の遠吠え。酔った住民の喧嘩声。子供の泣き声。排水溝を流れる水音。
今夜は——それがない。
賢治が窓の穴から外を覗いたとき、路地の奥で——灯りが動いていた。松明だ。三つ。横並びで、こちらに向かっている。
松明を持った三つの人影が、路地を塞ぐように歩いてくる。
先頭の男は大きかった。身長百九十センチはある。頭を丸刈りにし、顔の左半分に蛇の刺青が彫られている。赤牙の印。上半身は革鎧で覆われ、右手に片刃の戦斧を持っている。
二番目は痩せた女。黒い外套のフードを深く被り、腰に曲刀を帯びている。
三番目は若い男。二十歳前後。松明を高く掲げ、周囲を照らしながら何かを探している。
——蛇の刺青。赤牙の生き残り。
だがソフィアの部下ではなかった。ソフィアは十一人を率いている。この三人は——ソフィアに合流しなかった残党だ。
「蒸留師ィ!」
先頭の大男が叫んだ。酒臭い声が路地に反響した。
「出てこいよ蒸留師ィ! ドラガンの仇だァ! 親分を殺した毒師がこのあたりにいるって聞いたぞ!」
賢治は窓から身を引いた。
心臓が跳ねた。恐怖だ。純粋な、体が動かなくなる恐怖。
戦斧を持った大男。曲刀を帯びた女。松明の若い男。三対一。賢治に戦闘能力はない。セレナはいない。ナディアもいない。
逃げるか。
小屋の裏口から外壁の方に出れば、夜闇に紛れて逃げられるかもしれない。
だが——三人は路地を進みながら、手当たり次第に小屋の扉を蹴り開けていた。
「どこだ蒸留師! 隠してる奴は同罪だぞ!」
ガシャン。陶器が割れる音。悲鳴。
グリゴリーの小屋だ。腹痛を治してやった老人の小屋。大男が扉を蹴り破り、中を覗き込んでいる。
「じいさん! 蒸留師を知ってるだろ! どこだ!」
「し、知らん——知らんのじゃ——」
鈍い音。拳が肉を打つ音。グリゴリーの呻き声。
次の小屋。マルカの家。膝を怪我した子供の家だ。母親の叫び声が聞こえた。
「ここか! ここに薬を作る奴がいるのか!」
「いない! いないの! やめて!」
泣き声。子供の泣き声。マルカが泣いている。
賢治は藁束の上で動けなかった。
——逃げるべきだ。合理的に考えれば。ここで出ていけば捕まる。殺される。蒸留師が死ねば、ヴォルクの計画も、ナディアの希望も、全部終わる。逃げて、明日ヴォルクに報告して、カティアに処理させればいい。
合理的な判断。正しい判断。
マルカの泣き声が——止まった。
止まった方が怖かった。泣き声が止まったのは、泣き止んだからではない。口を塞がれたのだ。
「このガキ知ってるだろ! 薬もらったんだろ! 言え! 誰にもらった!」
母親の叫び。「やめて! この子に触らないで!」
——グリゴリーの顔が浮かんだ。丸い眼鏡の奥の穏やかな目。第一日目にパニックを起こす住民をなだめていた老人。 マルカの顔。膝を怪我して泣いていた子供。薬を塗ってやったら、泣くのをやめて「ありがとう」と言った。
賢治の足が動いた。
頭が止めろと言っていた。合理的じゃないと。ここで出ていったら死ぬと。
足は止まらなかった。
藁束の下から夜哭き菫の束を掴んだ。いつも精製用に保管してある、乾燥させた茎と液滴。精製前の、生の夜哭き菫。
精製前の夜哭き菫は——毒草だ。トマスが言っていた。「触ると手が痺れるし、食ったら三日は正気に戻らん」。生のアルカロイドが高濃度で含まれている。精製すればヴィオラ・ドロップになるが、精製しなければ——ただの猛毒だ。
賢治は理刻を使った。
夜哭き菫の茎を握り、中のアルカロイドを——分離ではなく、凝縮した。分散している毒素を、茎の先端の一滴に集める。理刻の逆用。分離の反対——濃縮。
指先が焼けるように痺れた。布で手を覆っていなければ、自分の皮膚から毒が浸透していた。
外套の袖で手を包み、夜哭き菫の茎を——一本の「針」のように握った。先端に、琥珀色の液滴が一つ。
生のインドール系アルカロイド、極限濃縮。静寂のような精製品ではない。粗く、雑で、何が起きるかわからない。
——わからないまま、扉を開けた。
***
路地に出た。
松明の光が目を灼いた。三つの影が、マルカの家の前にいる。大男がマルカの母親の髪を掴んで引きずっている。フードの女が曲刀を抜いて扉の横に立っている。若い男が松明を掲げて周囲を警戒している。
マルカが——地面に座り込んでいた。口を押さえて、声もなく震えている。
賢治が路地に立った。
「俺だ」
三人が振り返った。
大男の目が、賢治を上から下まで見た。ヨレたポロシャツ。チノパン。合成皮革のローファー。冴えない中年。
「お前が——蒸留師か」
「そうだ」
「嘘つけ。こんな貧相な——」
「お前たちが探しているのは、ドラガンを殺した毒を作った人間だろう。——俺だ。証拠が欲しいなら、お前の戦斧の刃にこれを塗ってやろうか」
賢治は右手の夜哭き菫の茎を掲げた。先端の琥珀色の液滴が、松明の光に鈍く光った。
「それに触れた人間は——三十秒で正気を失う。心臓は二分で止まる。嘘だと思うなら、試してみろ」
嘘だった。半分は。
濃縮した生アルカロイドが何を引き起こすか、賢治にもわからなかった。致死量に達しているかどうかも、症状の発現時間も、計算していない。計算する暇がなかった。
だが——三人は、賢治の手の中のものが何であるか知らない。「ドラガンを殺した毒を作った男が持っている液体」。それだけで十分だった。
大男の目に、恐怖が浮かんだ。
戦斧を持つ手が——僅かに、下がった。
「お、おい——毒師だぞ——あいつ本物の——」
「だからどうした!」
フードの女が叫んだ。曲刀を構え、賢治に向かって踏み込んだ。
速い。
賢治の目には——スローモーションに見えた。恐怖で知覚が引き延ばされている。女の足が砂を蹴る。曲刀の刃が松明の光を反射する。切っ先が賢治の喉を狙っている。
避けられない。
避けなかった。
賢治は夜哭き菫の茎を——正面に突き出した。
女の曲刀が振り下ろされる軌道の中に、右手を差し込んだ。曲刀の刃が賢治の右前腕を切り裂いた。布と皮膚と筋肉が裂ける感覚。熱い。
だが——同時に、賢治の右手の夜哭き菫の茎が、女の曲刀を握る手首に触れた。
琥珀色の液滴が、女の皮膚に——染みた。
一秒。
女の目が見開かれた。曲刀を握る手が——痙攣した。指が勝手に開き、曲刀が地面に落ちた。
二秒。
女の体が硬直した。全身の筋肉が一斉に収縮するように、背中が弓なりに反った。口から泡が出た。白い泡。目が裏返った。
三秒。
女が倒れた。砂の上に、人形のように。痙攣が止まらない。手足が不規則に跳ねている。
路地が——静まり返った。
大男が凍りついていた。若い男が松明を落としかけた。マルカの母親が息を呑んだ。
賢治は右腕から血を流しながら、大男を見た。
「次はお前だ」
声は——自分の声ではないように聞こえた。平坦で、感情がなくて、どこか遠くから聞こえる声。
大男が——戦斧を落とした。
金属が砂に当たる鈍い音。大男の体が震えている。百九十センチの巨体が、一人の冴えない中年の前で——震えている。
「ば、化け物——」
大男が背を向けて走った。若い男も松明を捨てて走った。二人の足音が路地の奥に消え、角を曲がり、さらに遠ざかっていった。
残されたのは——痙攣する女と、血を流す賢治と、地面に座り込んだマルカと、髪を掴まれていた母親だった。
***
賢治は女の前にしゃがみ込んだ。
右腕が痛い。切り傷は深い。腱には達していないが、出血が多い。外套の裾を裂いて巻いた。応急処置は——後だ。
女の痙攣は続いていた。目が裏返り、泡を吹き、手足が跳ねている。心臓は——まだ動いていた。脈が速く、不規則だが、動いている。
生アルカロイドの過剰摂取。精製していない毒素が神経系を直撃している。このまま放置すれば——死ぬかもしれない。死なないかもしれない。わからない。計算していない。
賢治は女の手首を掴んだ。
理刻を使った。女の体内に浸透した毒素の分子構造を視る。インドール骨格——そこにフッ素化ピリジン環が結合した、この世界特有の構造。血流に乗って全身に拡散しつつある。
分離できるか。体内に入った毒素を、分離して——排出できるか。
やったことがない。植物から成分を分離するのとは次元が違う。生きた人間の血管の中で、特定の分子だけを引き剥がす。失敗すれば——血球ごと分離して、女を殺す。
賢治は——迷った。
この女はドラガンの復讐に来た赤牙の残党だ。住民を殴り、子供を脅し、賢治を殺しに来た。右腕を切ったのもこの女だ。
殺してもいい相手だ。
——殺してもいい相手。
その言葉が、頭の中で引っかかった。
城島のときは「殺さなければならない相手」だった。ドラガンのときは「殺すよう命じられた相手」だった。
この女は——「殺してもいい相手」だ。
殺さなくてもいい。でも殺してもいい。どちらでもいい。
どちらでもいい——その選択肢を持っている自分が。
賢治は理刻を使った。
女の手首の脈に指を当て、血流の中の毒素分子を——一つずつ、捕捉した。インドール骨格にフッ素化ピリジン環。それだけを、血漿から分離する。毛細血管の壁を通して、皮膚の表面に押し出す。
五分かかった。
女の手首の皮膚に、琥珀色の汗のような液体が浮いた。毒素だ。体内から分離された、純粋なアルカロイド。
布で拭き取った。
女の痙攣が、ゆっくりと収まっていった。呼吸が安定し、目が元に戻り、意識は失ったまま——だが、心臓は規則的に打ち始めた。
生きている。
この女は——生きている。
***
マルカの母親が、震えながら立ち上がった。
「あ、あなた——何を——」
「子供を連れて家に入れ。今夜は外に出るな」
「あの——あなたが、薬をくれた——」
「早く」
母親がマルカを抱え上げて小屋に飛び込んだ。扉が閉まった。
賢治は路地の真ん中に立っていた。
右腕から血が垂れている。外套の布が赤く染まっている。足元に、意識を失った女が転がっている。捨てられた松明が、砂の上で燃え尽きようとしている。
路地の窓から、住民たちが——覗いていた。
グリゴリーの丸い眼鏡が、暗い窓の奥で光っていた。エリナの目が見えた。名前を知らない老婆が、薄い壁の隙間からこちらを見ていた。
全員が——見ていた。
薬をくれた男が、人を倒す瞬間を。手が痺れる毒草を素手で握り、刃物で切られながら相手の肌に毒を押しつける姿を。そして——毒で倒した相手の体から、毒を抜いて助ける姿を。
薬を作る手で、毒を使い——毒で倒した相手を、薬で生かす。
その矛盾の塊を、第七環の住民たちは——暗い窓の奥から、息を殺して見ていた。
賢治は路地を歩き出した。右腕が痛い。足元がふらつく。出血が多い。
小屋に戻り、扉を閉めた。
藁束の上に崩れ落ちた。
右腕の傷に白苦草の抗菌剤を塗り、裂いた布で縛った。手が震えていた。処置が終わるまでに三回失敗した。
処置が終わって——吐いた。
三回目だった。城島のとき、翌朝のとき、今夜。吐くたびに回数を数えている自分がいる。
メモ帳は——開かなかった。
今夜の出来事を、実験報告書のフォーマットで書くことは——できなかった。
代わりに——ポケットから城島の杯を取り出した。
杯と、葵の絵が挟まったメモ帳を並べて、藁束の上に置いた。
左手に杯。右手に絵。
殺した記憶と、守りたいもの。
今夜——初めて、その二つが同じ夜に起きた。毒で人を倒し、子供を守り、倒した人間を助けた。
佐伯賢治は、今——何だ。
薬師か。毒師か。殺人者か。父親か。
答えは出なかった。出ないまま——目を閉じた。
今夜は——三十秒で眠れなかった。 三時間、眠れなかった。 そして三時間後に——泥のように落ちた。
***




