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紫の雫(ヴィオラ・ドロップ) ——異世界に転移した薬学者は、毒と薬で裏社会の頂点に立つ —   作者: イロハ
第一部「灰の檻」

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第21話 傷の朝

***


 目を覚ましたとき、右腕が動かなかった。


 焼けるような痛みが前腕から肘まで走っている。昨夜巻いた布が血で固まり、傷口に張りついていた。剥がそうとして——やめた。剥がせば出血が再開する。


 左手で藁束を掴み、体を起こした。小屋の中は薄暗い。窓の穴から、赤い太陽の光が細く差し込んでいる。


 床の上に——女が横たわっていた。


 昨夜毒で倒した赤牙の女。黒い外套のフードが外れ、短く切った栗色の髪が露わになっている。二十代半ば。鉤鼻で、頬骨が高い。呼吸は安定している。


 賢治は昨夜、この女を小屋に運び込んだ。路地に放置すれば野犬か住民に始末される。毒を抜いて助けたのだから経過観察は必要だ——そう自分に言い聞かせた。


 外に出た。


 セレナが——いた。


 いつもの位置。だが、いつもの姿勢ではなかった。


 右手はナイフの柄ではなく、体の横に落ちていた。碧い目は正面ではなく、地面を見ていた。背筋がいつもより微かに丸まっている。


 賢治が扉を開けた瞬間、碧い目が跳ね上がった。賢治の右腕——血で固まった布帯——を見て、セレナの顔から色が引いた。


「蒸留師殿——その腕——」


「昨夜、赤牙の残党が来た。三人。一人倒した。二人逃げた」


 セレナの唇が——震えた。


「わたしが——いない間に」


「ああ」


「わたしが——」


 セレナの声が途切れた。碧い目が泳いだ。いつもの無機質なガラス玉が——割れかけている。


 セレナは護衛だ。蒸留師を守ることが任務だ。その任務を——離れていた。賢治に頼まれて第二環に行っていた。任務外の行動。ヴォルクの許可を取っていない離脱。


 その間に護衛対象が負傷した。


 これがヴォルクに知れたら——セレナ自身がどうなるか。賢治にもわかった。任務放棄。護衛対象の負傷を許した。ヴォルクの組織で、それは——軽い処分では済まない。


「セレナ。昨夜お前が不在だったことは——俺がヴォルクに説明する。俺が離れるよう命じた、と言う」


「蒸留師殿にそのような権限は——」


「権限がないことは知ってる。だが、お前が勝手に持ち場を離れたのと、蒸留師が任務を与えて離れさせたのとでは——ヴォルクの受け取り方が変わる」


 セレナは賢治を見た。碧い目が——揺れていた。


 この女は今、自分の処遇を心配している。当然だ。ヴォルクの部下が任務を怠れば——最悪、消される。そこまでいかなくても、護衛の任を解かれる。セレナにとって任務は——存在理由だ。任務がなくなれば、セレナには何も残らない。


「……ありがとうございます」


 小さな声だった。震えていた。感謝ではなく——恐怖の裏返しの声だった。


 賢治は頷いた。


 セレナを庇う理由は——合理的だった。セレナが処分されれば、代わりの護衛が来る。カティアか、もっと厳しい監視役になる可能性が高い。セレナの方がまだ——動きやすい。


 それだけの理由だ。それだけの。


***


 ナディアが来たのはその直後だった。


「佐伯。何があった。路地が騒がしい」


「赤牙の残党。ソフィアの部下じゃない連中が三人。一人倒した。生きてる。小屋の中だ」


 ナディアは中を覗き、女を見て、賢治の腕を見た。


「……なんで生きてる。その女」


「毒を抜いた」


「なんで」


「住民の前で殺したらまずい。蒸留師が人を殺すところを見られたら——薬をもらいに来なくなる」


「……まあ、一理ある。——で、どうする。この女」


「体が動くまで休ませる。動けるようになったら——出ていかせる。どこか遠くに行けと言う」


 ナディアの目が細くなった。


「出ていかせる? 赤牙の残党を? あんたを殺しに来た人間を?」


「殺す理由がない。戦闘力のない残党一人を殺しても意味がない。出ていけば——それで終わりだ」


 ナディアは壁にもたれた。


「……あんたの判断だ。あたしは口を挟まない。——ただ、ヴォルクには報告が行く。セレナが書く。その報告にこの女のことが載ったら——あんたの判断じゃ済まなくなるかもしれない」


「わかってる」


「わかってるならいい。——あたしは第五環に用がある。昼前には戻る」


 ナディアが出ていった。


***


 ユーリが目を覚ましたのは、赤い太陽が壁の上に出てからだった。


 最初に動いたのは——手だった。指先が土の床を引っ掻いた。それから、全身が痙攣するように震え、呻き声が漏れた。


「——ぐ、あ——」


「動くな。筋繊維が損傷してる。無理に動くと裂ける」


 ユーリの切れ長の目が開いた。天井を見て、壁を見て、賢治を見た。


「……あんたか。——昨夜の」


「ああ」


「なんであたしは——生きてる」


「毒を抜いた」


「は?」


「お前に塗った毒を、体の中から分離した。理刻でできる。——お前は生きてる」


 ユーリは三秒間、賢治を見つめた。それから天井に視線を戻した。


「……意味がわからない。あんたを殺しに来たんだぞ。腕も切った」


「知ってる。痛い」


「痛いって——あんた——」


「体が動くようになるまでここにいろ。二日か三日だ。動けるようになったら出ていけ。王都を離れろ。できるだけ遠くに行け」


 ユーリの目が——驚きで見開かれた。


「出ていけって——逃がすのか。あたしを」


「逃がすんじゃない。追い出す。お前がここにいると面倒だ」


「面倒——」


「ヴォルクに知られたら殺せと言われる。お前が殺される前にここを出ろ。それだけの話だ」


 ユーリは黙った。天井のシミを見つめている。


 一分。二分。


「……あんた、名前は」


「佐伯賢治」


「サエキ。——変な名前だ。この世界の人間じゃないだろ」


「日本から来た。異世界転移だ」


「ああ——漂着者か。何人か見たことある。大体すぐ死ぬか、奴隷にされるかだ。——あんたは、どっちにもならなかったんだな」


「薬を作れたから生き延びた。——それだけだ」


「薬。……ドラガンを殺した毒も、薬か」


「毒と薬は同じものだ。量が違うだけで」


 ユーリは鼻を鳴らした。


「かっこつけるな。殺した側が言っていい台詞じゃないだろ」


「……そうだな」


 沈黙が落ちた。小屋の外から、第七環の朝の音が聞こえてくる。水を汲む音。子供の声。


「……水をくれ。喉が乾いた」


 賢治は井戸から汲んだ水を杯に入れて渡した。普通の水。毒はない。


 ユーリが水を飲んだ。喉仏が動く。一口、二口、三口。全部飲み干した。


「……うまい。——死にかけた後の水は、うまいんだな」


 杯を床に置いた。それから——壁にもたれ直して、賢治を見た。


「なあ、サエキ」


「何だ」


「あんた——なんでドラガンを殺した」


「ヴォルクの命令だ」


「それだけか」


「それだけだ。——ドラガンとは面識もなかった。命令がなければ殺す理由もなかった」


「……面識もないのに殺したのか」


「ああ」


 ユーリの目が——暗くなった。怒りではなく、もっと深い場所にある感情が浮かび上がっている。


「ドラガンは——あたしの命の恩人だ」


「聞かせてくれ」


「聞いてどうする。殺した側が」


「殺した側だから聞く。——ドラガンがどういう人間だったか、俺は何も知らない。知らないまま殺した。それが——正しかったとは思っていない」


 ユーリは賢治を見た。十秒。値踏みしている。嘘を探している。


「……あたしは十二のとき、第七環の外れで野垂れ死にかけてた」


 ユーリは語り始めた。声は低く、淡々としていた。何度も繰り返し思い出して感情が擦り切れた話し方。


「両親は疫病で死んだ。路地裏で残飯を漁って、それも取り合いで負けて、三日飯を食ってなかった。冬だった。雪が降ってた。あと一晩外にいたら凍え死んでた」


「それでドラガンと——」


「あの人は酔っ払って路地に小便しに来ただけだ。あたしが転がってるのを見て——蹴った。足先であたしの脇腹を蹴って、『おい、死んでるのか』って。死んでない、って答えたら——笑った。『じゃあ飯食え』って」


 ユーリの目に、光が灯った。涙ではない。記憶の光。十二歳の夜の。


「それだけだ。立派な話じゃない。酔っ払いの気まぐれだ。——でも、あたしにとっちゃ全部だった。あの夜死んでたら、何もなかった。ドラガンが蹴らなきゃ、あたしは路地裏のゴミと一緒に朝には片付けられてた」


「赤牙に入ったのはそのときか」


「入った。十二から八年間。ドラガンの下っ端。使い走り。見張り。たまに喧嘩の頭数。——大した仕事はしてない。でも飯は食えた。寝る場所があった。名前で呼ばれた。第七環で名前で呼ばれるってのは——すごいことなんだ。大体の人間は、番号か、あだ名か、『おい』としか呼ばれない」


 ユーリの声が、僅かに——震えた。


「ドラガンはあたしを『ユーリ』って呼んだ。毎朝。『おいユーリ、飯はまだか』って。——あの声がもう聞けない。それが一番——堪える」


 賢治は黙って聞いていた。


「あんたが殺したんだ。あの声を。——恨んでるよ。今もずっと」


「……ああ」


「でもあんたは——あたしを助けた。毒を抜いた。ここに寝かせてる。水もくれた。出ていけとも言った。——意味がわからない」


「俺にもわからない」


「わからないって——大人がそれでいいのかよ」


「よくない。だが、わかるまで待ってたらお前が死ぬ」


 ユーリが——笑った。乾いた笑い。


「……あんた、変な人間だな。ドラガンと似てる」


「似てないだろう」


「似てる。あの人も——理由なんかなかった。あたしに飯を食わせた理由。聞いたことがある。『知るか、腹が減ってただろ』って。それだけ。——あんたも同じだ。理由がない。理由がないのに動く。そういう人間は——信用できるかどうかわからないけど、嫌いにはなれない」


 ユーリが目を閉じた。


「……もう少し寝ていいか。体が——まだ、痛い」


「寝ろ。動けるようになったら声をかける」


「……ああ」


 ユーリの呼吸が、ゆっくりと深くなっていった。


***


 ユーリが眠っている間に——ヴォルクからの呼び出しが来た。


 使いはカティアだった。赤毛のツインテール。丸顔。童顔。身長150cm。見た目は完全に子供だが、腰の短刀と——笑顔の奥の目が、子供ではなかった。


「蒸留師ー! ヴォルクが呼んでるよー。今すぐだって。——えへへ、急いでね」


 笑顔だった。いつも笑っている。だが目だけが——笑っていない。いつもの使いではなくカティアが来た。それが意味することを、賢治は理解していた。使いではなく——護送だ。逃げないように。


「カティア。ヴォルクは——」


「怒ってるかって? うーん、わかんないなあ。あたし十二年仕えてるけど、怒鳴り声聞いたことないんだよねー。でもね——」


 カティアが人差し指を立てた。笑顔のまま。


「あの人は、面白がってるときの方が怖いよ。怒ってるときはまだいいの。計算してるから。面白がってるときは——えへへ、計算を超えたことするからね」


 明るい声だった。だがその明るさの下に——十二年分の経験が詰まっていた。


 賢治はカティアと並んで歩き出した。カティアは賢治の半歩後ろ。監視の位置。だが足取りは軽い。スキップしそうな歩き方。


「カティア。もう一つ聞いていいか」


「いいよー! なになに?」


「セレナが昨夜持ち場を離れていた。俺が頼んで離れてもらった。——ヴォルクはそのことを知っているか」


 カティアの足が、一瞬止まった。すぐに歩き出したが——笑顔の質が変わった。口元は笑っている。目は——刃物だった。


「……セレナが持ち場を離れた。蒸留師が頼んで」


「ああ」


「それ——ヴォルクに言うの?」


「言う。俺が命じたことにする」


「えー、そんな権限ないよね、蒸留師には」


「わかってる」


「わかってて言うんだ。——セレナを庇うんだ。えへへ、やさしー」


「セレナを庇うんじゃない。護衛がカティアに替わるのが面倒だ」


 カティアが——きゃはっ、と笑った。


「あはは! あたしの護衛は面倒なんだー。ひどーい」


「お前は俺の任務外の行動を見逃さない」


「うん! 見逃さないよ。あたし、見るの好きだから。——セレナは見逃してたの?」


「セレナは任務に忠実だ。だが——任務の範囲を、自分で解釈する余地がある」


「要するに甘いんでしょ。——まあいいけどね。ヴォルクがどう取るかは知らないけど」


 カティアが前を向いた。笑顔のまま。


「一つだけね。ヴォルクの前で嘘つくなら——嘘の数は最小限にした方がいいよ。あの人は嘘を三つまでは許す。四つ目で——切るから」


 明るい声だった。だが、忠告としては——これ以上ないほど具体的だった。


***


 ヴォルクの部屋。灰色の目。銀の髪。穏やかな声。


「座れ」


 賢治は座った。


「セレナから報告を受けた。昨夜の件だ。——蒸留師、お前は住民が襲われているのを見て、自分から出ていって戦った。正体を明かし、毒を使い、腕を切られた」


「ああ」


「なぜだ」


「住民が——」


「嘘を言うな。経営判断がどうとか、供給先がどうとか——そういう嘘はいい。聞きたくない。なぜ出た」


 賢治は二秒、黙った。


「……子供が殴られていた。俺が薬を渡した子供だ」


 ヴォルクの灰色の目が——動かなかった。


「続けろ」


「泣き声が聞こえた。泣き声が——止まった。止まった方が怖かった。口を塞がれたんだ。それで——体が動いた。頭が止めろと言ってたが、足が先に動いた」


「感情で動いたということか」


「……ああ」


 ヴォルクは椅子に深く座り直した。穏やかな顔。だが——目だけが、別の生き物のように冷たかった。


「佐伯賢治。お前は優秀だ。毒を作れる。薬も作れる。頭も回る。——だが、感情で動く。それが——唯一の欠陥だ」


 ヴォルクが机の上に手を置いた。


「セレナが持ち場を離れていた件も聞いた。お前が頼んで離れさせたとセレナは報告した。——お前にそんな権限はない。お前の護衛はお前の所有物ではない。俺の部下だ」


「わかっている。俺の判断が間違っていた」


「間違っていた。——今回は不問にする。次はない。次にセレナを勝手に動かしたら、セレナを処分する。お前にではなく、セレナに責任を取らせる。わかるな」


 賢治の背筋に、冷たいものが走った。セレナに責任を取らせる。——つまり、賢治がセレナを巻き込めば巻き込むほど、セレナが危険になる。賢治を縛るために、セレナを人質にする構図だ。


「わかった」


「よし。——もう一つ」


 ヴォルクが立ち上がった。窓際に歩き、外を見た。


「赤牙の女を助けたそうだな」


「……ああ」


「殺せ」


 賢治の呼吸が——止まった。


 わかっていたはずだった。ナディアとの会話で可能性は考えていた。だが——ヴォルクの口から直接「殺せ」と言われた瞬間、体が——拒絶した。


 あの女に——ドラガンの話を聞いた。十二歳の冬の夜。蹴られて拾われた夜。「名前で呼ばれるってのは、すごいことなんだ」。


 その声が、まだ耳に残っている。


「……ヴォルク。あの女は——もう戦闘力がない。体が動かない。放置すれば勝手に——」


「殺せと言っている」


 穏やかさが消えた。二度目。


 振り返ったヴォルクの灰色の目には——何もなかった。怒りもない。苛立ちもない。ただ——壁を見るのと同じ目で、賢治を見ていた。


「お前が助けた人間を、お前が殺せ。今夜中に。お前自身の手で。——セレナに確認させる」


「なぜ——俺の手でなければならない」


「感情で助けたなら、判断で殺せ。それができなければ——お前は道具として使えない。道具として使えない人間は——俺の組織にはいらない。家族ごと」


 家族ごと。


 その三文字が、腹の底に落ちた。鉛のように。


「……わかった」


 声が——自分の声ではないように聞こえた。


 ヴォルクが窓際で振り返った。穏やかさが——戻っていた。仮面が嵌まった。


「蒸留師。お前は賢い。だが——賢い人間は、自分の賢さで自分を追い詰める。見ていて飽きない」


 その言葉の最後の二音——「飽きない」——が、カティアの忠告と重なった。


 面白がっているときの方が怖い。


***


 帰り道、足が重かった。


 カティアが半歩後ろを歩いている。軽い足取りはいつも通りだった。


 第七環の路地に入ったとき、カティアが口を開いた。


「蒸留師ー。——一つ聞いていい?」


「何だ」


「あの女、赤牙の残党でしょ。なんで助けたのー? 殺せって言われるの、わかってたんじゃないの?」


「……わかってなかった」


「うそー」


「嘘じゃない。わかってなかった。わかりたくなかったから——考えなかった」


 カティアが足を止めた。


 振り返った。笑顔だった。いつもの笑顔。——だが、目だけが違った。笑っていなかった。


「あたしも昔——一度だけ、ヴォルクに『殺せ』って言われたことがあるんだー」


「……誰を」


「言わない。——ただね、あのとき殺さなかったら、あたしが消されてた。だから殺した。えへへ。それだけ」


 えへへ、と笑った。だがその声は——いつもの「えへへ」とは違った。


「蒸留師も殺すでしょ。殺すしかないもんね。——わかってるはずだよ」


 カティアが歩き出した。


 賢治の小屋の前まで来て、振り返った。赤毛のツインテールが揺れた。丸顔の童顔が——ほんの一瞬だけ、二十歳の女の顔になった。


「あたしが殺したのは——もう名前覚えてないんだー。覚えてないのが一番きついかなって。えへへ」


 笑顔で言った。目だけが——笑っていなかった。


 カティアが去っていった。


***


 小屋に入った。


 ユーリが起きていた。壁にもたれて座っている。腕はまだ震えているが、上半身は支えられている。


「おかえり。——顔色、最悪だな」


「……ああ」


「どうした。ヴォルクに呼ばれたんだろ。何て言われた」


 賢治はユーリの前に座った。


 言えなかった。


 「殺せと言われた」——その言葉が、喉の奥で詰まっている。


「……ユーリ。体は動けるか」


「まだ無理だ。立てるかどうかも怪しい。——なんだよ、急かすなって。二日か三日って言っただろ、あんた」


「ああ——そう言った」


 ユーリが賢治の顔を見た。


「……なあ、サエキ。あんた今——泣きそうな顔してるぞ」


「してない」


「してる。——何があった」


 賢治は口を開いた。閉じた。また開いた。


「——ユーリ。すまない」


「は? なにが」


「すまない」


 賢治は左手で——ポケットの中の小瓶に触れた。経皮型の静寂。今朝、ユーリの手首の脈を確認したとき、この瓶を持っていなかった。ヴォルクの部屋から帰る途中で、藁束の下の保管場所から——取った。


 左手に布を巻いた。指先を覆うように。


 小瓶の蓋を——ポケットの中で、開けた。


「サエキ。——なんだよ。何を謝ってるんだ。あたしを逃がすって言ったじゃないか。動けるようになったら——」


「ヴォルクに命じられた。お前を殺せと」


 ユーリの顔が——凍った。


 切れ長の目が見開かれた。口が開いた。言葉が出なかった。


「嘘——だろ」


「嘘じゃない」


「あんた——あたしを逃がすって——出ていけって——」


「言った。だがヴォルクが——」


「ふざけるなよ!!」


 ユーリが叫んだ。体が動かないまま、声だけが——路地に響くほどの声が、小屋の中に爆発した。


「あんたが助けたんだろ! 毒を抜いたんだろ! ここで休めって言ったんだろ! それで——殺す!? あんたが殺したドラガンと——同じように!? 今度はあたしかよ!!」


 ユーリの目から涙がこぼれた。


「水くれたじゃないか——飯の話してたじゃないか——ドラガンの話聞いてくれたじゃないか! それ全部——殺すためだったのかよ!!」


 賢治の左手が——震えていた。布越しに小瓶の縁に触れている。中の液体は——皮膚に触れれば四十五分で心臓を止める。


「ユーリ。——逃げてくれ。体が動かなくても——這ってでも——」


「動けないって言ってるだろ!! あんたの毒のせいで!!」


 ユーリが壁に背中を打ちつけた。腕が上がらない。足が動かない。全身の筋繊維が断裂している。逃げることすら——できない。


「あんたが——あんたが毒を塗ったから——体が動かない——あんたが毒を抜いたから——生きてる——あんたが休めって言ったから——ここにいる——全部あんたのせいだ——全部——」


 ユーリの声が、叫びから——嗚咽に変わった。


 賢治は左手をポケットから出した。布の上に、琥珀色の液が薄く光っている。


「——すまない」


「すまないで済むか——すまないで——」


 賢治はユーリの手首を掴んだ。右手で——傷のある腕で。痛みが走った。だが離さなかった。


 左手の布越しの指先を——ユーリの首筋に、押し当てた。


 ユーリの体が跳ねた。


「やめろ——やめてくれ——」


「もう始まってる。四十五分で——」


「嫌だ——死にたくない——ドラガン——ドラガン——」


 ユーリの目が——賢治を見ていた。涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになっている。恐怖と怒りと悲しみが混ざった、人間の最も醜い顔。


「あんたを——呪ってやる——あんたが作った毒で——あんたの家族が——」


 賢治の手が震えた。


「あんたの子供が——あんたと同じ目に——」


「やめろ」


「やめない——あんたが——あたしを殺すなら——あたしは呪う——死んでも——」


 ユーリの声が——かすれていった。


 毒が回り始めている。経皮型の静寂。皮膚から浸透し、血流に乗り、心臓の洞結節に到達する。


 十分後——ユーリの目が虚ろになった。  二十分後——呼吸が不規則になった。  三十分後——恨み言が、呟きになった。


「……ドラガン……あたし……そっちに……行く……から……」


 四十分後——ユーリの目が閉じた。  四十三分後——呼吸が止まった。


 ユーリの手が、床の上に落ちた。


 握りしめていた拳が——開いた。力が抜けて、指が伸びた。


 死んだ。


***


 賢治は吐いた。


 四回目だった。


 藁束の隅で、胃液だけを吐き続けた。五分。十分。えずきが止まらなかった。


 泣いていた。


 もう嘔吐の反射とは言い訳できなかった。泣いている。ユーリを殺して——泣いている。


 ユーリの呪いが、耳に残っていた。


 「あんたの子供が——あんたと同じ目に——」


 その言葉が——葵の絵と重なった。四つの棒人間。二つの太陽。「おとうさんへ はやくかえってきてね」。


 賢治はユーリの首に触れた布を見た。左手の布越しの指先。この指で——薬も作った。この指で——毒も塗った。この指で——娘の絵をメモ帳に挟んだ。


 全部同じ指だ。


 ユーリの体の傍に、水の杯が残っていた。昼間、ユーリに渡した普通の水。毒のない水。「うまい」と言って飲んだ杯。


 賢治はその杯を拾い上げた。


 ポケットから城島の杯を取り出した。


 二つの杯を並べた。


 城島の杯。ユーリの杯。


 ——三つ目が増えないと思える理由が、もう——なかった。


***

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