第22話 震える手
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ユーリを殺した翌朝、賢治は夜哭き菫の精製に取りかかった。
いつもの作業だ。乾燥させた茎を砕き、液滴を陶器の皿に集め、ボールペンの先を近づけて理刻を起動する。インドール骨格からフッ素化ピリジン環を分離し、不純物を取り除き、純度を上げる。
手が——震えた。
ボールペンの先が揺れ、狙った分子に焦点が合わない。いつもなら一秒で捕捉できる結合点が、視界の中でぼやけて逃げていく。
三回試みた。三回とも失敗した。分離すべき結合を切り損ね、液滴の中の分子構造が崩壊した。陶器の皿の上に残ったのは——紫ではなく、茶色い泥のような液体だった。
賢治は皿を見下ろした。
手が震えている。昨夜から止まらない。ユーリの首筋に毒を押しつけたときの感触が、左手の指先に残っている。布越しだったのに——皮膚の温度が伝わってきた。生きている人間の体温。それが、四十三分かけて冷たくなっていった。
手の震えは——嘔吐と同じだ。体が拒絶している。頭ではわかっている。やるしかなかった、と。ヴォルクに逆らえば家族ごと消される。だが——体が、理解を拒んでいる。
四回目。また失敗した。
五回目。液滴が乾き始めた。時間切れだ。
今日のヴィオラ・ドロップの生産量——ゼロ。
***
昼過ぎにナディアが来た。
いつもなら完成品の小瓶を三つ渡す時間だ。賢治は空の手で立っていた。
「……今日の分は」
「ない」
「ないって——」
「精製できなかった。手が震えて、理刻の焦点が合わない」
ナディアの目が、賢治の手元に落ちた。
確かに——左手が微かに揺れている。平常時には見えない程度の震え。だが理刻の精製は、ミリグラム以下の分子操作だ。この程度の震えでも——致命的になる。
「昨夜のことが原因か」
「……ああ」
「何日で治る」
「わからない」
「わからないじゃ困るんだよ。——今、第五環の商人に納品が三日分溜まってる。あと二日出なかったら——客が離れる。客が離れたら売上が落ちる。売上が落ちたら——」
「ヴォルクが俺を切る」
「そうだ」
ナディアは壁にもたれた。腕を組み、天井を見上げた。
「……佐伯。あんたは昨夜、人を殺した。二人目だ。——城島のときは翌朝吐いただけで済んだ。今回は手が止まってる。悪化してる」
「わかってる」
「わかってるなら聞く。——三人目を殺せるか。この先、ヴォルクがまた殺せと言ったとき」
「……わからない」
「わからないが多すぎるよ、あんた」
ナディアの声には苛立ちがあった。だが——苛立ちの下に、別の色があった。心配、ではない。ナディアはそういう感情を表に出さない。もっと実務的な——「この男が壊れたら、自分の計画も終わる」という焦燥。
「とにかく明日までに一本でいい。一本出してくれ。つなぎになる。——あと、震えが止まらないなら、酒を飲め」
「酒?」
「少量のアルコールは手の震えを止める。外科医が手術前に一杯やるって話、聞いたことないか」
「……あるが、それは根本的な解決にはならない」
「根本的な解決は時間がかかる。今必要なのは明日の一本だ。——根本はあとで考えろ」
ナディアが出ていった。
賢治は藁束の上に座り、左手を見つめた。
震えている。
城島を殺したとき——翌朝、手は震えなかった。パンが食えなかっただけだ。精製はできた。仕事は続けられた。
違いは何だ。
城島は——脅迫者だった。殺す理由があった。「殺さなければ、こちらが殺される」。その理屈が、手の震えを抑えた。
ユーリは——違った。
ユーリは賢治を殺しに来た。だが——毒を抜かれ、水をもらい、ドラガンの話をし、「出ていけ」と言われた。その時点でユーリは——もう敵ではなかった。少なくとも、賢治の主観では。
敵ではない人間を殺した。それが——手の震えの正体だ。
頭が「やるしかなかった」と言っている。体が「それでも人殺しだ」と言っている。
頭と体が——分裂している。
メモ帳を開いた。ペンを握った。字が震えて読めない。
閉じた。
***
——第二環。同日。
翔太の視点。
訓練場の昼休み。石壁の日陰に座って干し肉を齧っていると、訓練仲間のトーマスが隣に来た。
この世界の人間。十九歳。翔太より頭一つ大きい赤毛の男で、鼻にそばかすがある。翔太と同じ王宮守備の見習いで、この数ヶ月で唯一——翔太と普通に話してくれる人間だった。
「翔太。蓮のこと、気をつけた方がいい」
唐突だった。翔太は干し肉を噛む手を止めた。
「……何かあったのか」
「今朝、蓮が教官のバルドと話してた。内容は聞こえなかったけど——お前の名前が出てた」
「俺の名前が?」
「ああ。それと——第七環、って言葉も。蓮がバルドに何か説明してて、バルドが顔しかめてた」
翔太の背中に冷たいものが走った。
第七環。父がいる場所。蓮が——父のことをバルドに話した?
「トーマス。——蓮は、何て言ってた」
「だから聞こえなかったって。ただ——蓮の顔は、いつもの薄笑いじゃなかった。真面目な顔してた。あいつが真面目な顔するとき——ろくなことがない」
翔太は干し肉を置いた。食欲が消えた。
蓮がバルドに第七環の話をした。翔太の名前を出した。——何を?
可能性は二つ。一つ、翔太の父が第七環で「何かをしている」という情報を流した。もう一つ——翔太自身がセレナを通じて第七環と連絡を取っていることを暴露した。
どちらにしても——まずい。
バルドは訓練教官であると同時に、王宮守備の上級騎士だ。王宮守備に「第七環の犯罪組織と繋がりがある見習いがいる」と報告されたら——翔太は守備隊から追い出される。追い出されれば、第二環にいる理由がなくなる。第二環にいられなくなれば——母と葵を守れない。
「トーマス。——蓮に、俺が父親と連絡を取ってるって話——してないよな」
「してない。俺はそんなこと知らないし」
「……ありがとう」
「礼はいい。——ただ、翔太。お前、蓮と同じ部隊に配属されてるだろ。それ——普通じゃないぞ。蓮の父親の黒木が——」
「わかってる」
わかっている。黒木が人事に手を回した。翔太を蓮の隣に置いた。——翔太を監視するために。
翔太は拳を握った。金色の光が一瞬だけ灯り——消えた。
——このままじゃ、潰される。
蓮が情報を集めている。バルドに話した。次は——もっと上に報告する。翔太と父の繋がりが公になれば、翔太だけでなく、母と葵にも影響が出る。
動かなければ。——だが、何をすればいい。
翔太には力がない。理刻は防御型で、三秒しか持たない。政治力もない。情報もない。
あるのは——父から受け継いだ観察力だけだ。
蓮の動きを読む。蓮が次に何をするか予測する。そして——先回りする。
「父さんに伝えてくれ」。セレナに頼んだ言葉が頭をよぎった。
だが——父は「連絡を絶て」と言った。セレナを動かせば、セレナが危険になる。父がそう言ったのは——セレナを守るためでもある。
翔太は一人で対処しなければならない。
十七歳の少年が。異世界で。いじめの加害者だった男と、同じ部隊で。
***
——第七環。夜。
ナディアの言う通り、酒を飲んだ。
灰の商会の走り屋から蒸留酒を一瓶買い、木の杯に一口分だけ注いだ。
杯を見た。木の杯。——城島の杯と、同じ形。
手が震えた。杯を口に運べない。
目を閉じた。杯を唇に当てた。アルコールの刺激が舌を焼いた。飲み込んだ。胃に火がついたような熱さ。
十分後——手の震えが、止まった。
止まった、というのは正確ではない。震えの振幅が小さくなった。ボールペンの先を制御できる程度に。
賢治は夜哭き菫の液滴を皿に広げ、理刻を起動した。
焦点が合った。インドール骨格が見える。フッ素化ピリジン環が見える。結合点が——見える。
分離を始めた。
一つ目の結合を切った。成功。
二つ目。成功。
三つ目——手が揺れた。酒の効果が切れかけている。結合点がぼやける。
もう一口飲んだ。
震えが収まった。三つ目の結合を切った。成功。
四つ目。五つ目。六つ目。
精製が終わったとき、皿の上には——紫色の液滴が光っていた。ヴィオラ・ドロップ。一回分。
小瓶に移した。
手を見た。震えは止まっている。酒の力で。
——酒がなければ精製できない。
パラケルススの言葉が頭をよぎった。「量だけが毒と薬を分ける」。アルコールも同じだ。少量は薬。手の震えを止める薬。多量は毒。依存を生む毒。
その境界線の上を——今、歩いている。
城島のときは吐いただけで済んだ。ユーリのときは手が止まった。三人目を殺したら——何が壊れる。
考えたくなかった。考えなければならなかった。
メモ帳を開いた。今度は——字が書けた。酒の力で。
『第21日目。 精製再開。酒を補助に使用。一本完成。 手の震え——ユーリの記憶に起因。 アルコールで一時的に抑制可能。だが依存のリスク。 ドラガンは酒に弱かった。酒で死んだ。 俺は酒で手を動かしている。 皮肉だ。』
***
翌朝、ナディアに小瓶を渡した。
「一本。——昨夜、何とか絞り出した」
ナディアは小瓶を光に透かした。紫の液体が揺れている。
「……品質は」
「問題ない。精製の精度はいつも通りだ」
「どうやって震えを止めた」
「酒」
ナディアの目が——一瞬だけ、鋭くなった。
だが何も言わなかった。小瓶を懐にしまい、外套を翻して出ていこうとした。
扉の前で、足が止まった。
「佐伯」
「何だ」
「——ソフィアから連絡があった」
「何だって」
「昨夜あんたの小屋を襲った残党のうち、逃げた二人がいるだろ。あいつらが——第五環で喋ってる。酒場で。『蒸留師は第七環にいる、冴えない中年の日本人だ、毒草を素手で使う化け物だ』って」
賢治の血の気が引いた。
「その話は——誰が聞いてる」
「第五環の酒場だ。誰でも聞いてる。——碧瓶会の耳にも、もう入ってるだろうな」
碧瓶会。第五環の薬商ギルド。蒸留師の正体を探していた連中。
蒸留師は第七環にいる。冴えない中年。日本人。毒草を使う。——そこまで絞り込めれば、特定は時間の問題だ。
「ソフィアは何と言ってる」
「逃げた二人を始末するかって聞いてきた。——あたしはあんたの判断に任せると返した」
また——殺すかどうかの判断だ。
ユーリの呪いが耳に蘇った。「あんたの子供が——あんたと同じ目に——」。
殺せば三つ目の杯が増える。殺さなければ——蒸留師の正体が王都中に広まる。
賢治は左手を見た。震えは止まっている。酒の効果がまだ残っている。
「……殺すな。口を塞ぐ方法は他にもある」
「たとえば」
「金で黙らせるか、脅して黙らせるか。ソフィアの得意分野だろう」
「金は——あの二人、酒場で自慢話として喋ってるんだ。金で口を塞いだら、次は『金をもらった』って自慢する。馬鹿はそういう生き物だ」
「なら脅しだ。ソフィアが赤牙の副長として——あの二人を黙らせる。赤牙の名前で。『これ以上喋ったら消す』と」
「それなら——できるかもしれない。ソフィアに伝える」
ナディアが出ていった。
賢治は藁束の上で、蒸留酒の瓶を見つめた。
昨夜の残りが底に光っている。琥珀色の液体。
今日の精製にも——これが必要になるのだろうか。
明日も。明後日も。
パラケルススは言った。量だけが毒と薬を分ける。
——その量を、自分で制御できている間は、まだ大丈夫だ。
制御できなくなったら——終わりだ。
城島の杯と、ユーリの杯が、藁束の隅に並んでいる。
その隣に——蒸留酒の瓶が立っている。
三つの容れ物が、暗い小屋の中で、油灯の光を反射していた。
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