第23話 紫の偽物
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酒を飲みながら精製する生活が、三日で日常になった。
朝、蒸留酒を一口。手の震えが収まるのを待つ。理刻を起動する。精製する。小瓶に詰める。
日産量は三本に戻った。品質も問題ない。ナディアが毎日回収し、第五環の販売網に流している。
問題は——酒の量が増えていることだった。
初日は一口で足りた。二日目は二口。三日目は三口。手の震えが止まるまでに必要なアルコール量が、日ごとに増えている。耐性ができている。
薬理学的に当然の現象だ。アルコールはGABA受容体に作用して神経の興奮を抑える。継続摂取すれば受容体がダウンレギュレーションを起こし、同じ効果を得るために必要量が増加する。
賢治はそのメカニズムを正確に理解していた。理解した上で——飲んでいた。
メモ帳に書いた。
『第24日目。 蒸留酒消費量:朝三口、昼一口(補充)。 精製量:三本/日。品質維持。 一週間後には朝五口必要になる計算。 二週間後には——朝だけで杯一杯。 一ヶ月後には——精製中に酔う可能性。 限界点を見極めろ。超えたら別の手段を考える。 超える前に——震えが自然に止まることを祈る。 祈る? 俺はいつから祈るようになった。』
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四日目の昼過ぎに、ナディアが顔色を変えて飛び込んできた。
普段のナディアは走らない。情報屋は走らない。走れば目立つ。目立てば——情報屋ではなくなる。
そのナディアが、息を切らして小屋の扉を叩いた。
「佐伯。——まずいことになった」
「何があった」
「第六環の東市場に——紫色の薬が出回ってる」
賢治の手が止まった。精製途中の夜哭き菫の皿が、作業台の上に置かれたまま。
「紫色の薬。——ヴィオラ・ドロップの偽物か」
「偽物だ。見た目はそっくりだが——中身が違う。あたしの目利きが買って調べた。色だけ似せた、ただの薬草汁に安い興奮剤を混ぜたもんだ。効き目は——」
「興奮剤の方が出る。多幸感は得られるが、ヴィオラ・ドロップの持続性がない。すぐ切れる。そして——切れた後の反動がきつい」
「その通りだ。——で、問題は反動の方だ。昨日、第六環で偽物を飲んだ男が一人死んだ」
賢治は立ち上がった。
「死んだ?」
「興奮剤の過剰摂取で心臓が止まった。偽物のくせに量を本物と同じだけ飲んだから——体が持たなかった」
「誰が作ってる」
「碧瓶会だ」
碧瓶会。第五環の薬商ギルド。
賢治の頭の中で、パズルの欠片が嵌まった。
碧瓶会はヴィオラ・ドロップを再現しようとして失敗した。純粋な技術力では蒸留師に勝てない。——だから、別の戦略に切り替えた。
偽物を大量に安く流通させる。本物との価格競争に持ち込む。品質では勝てないが、量と価格で圧倒する。偽物を飲んだ客が本物との違いに気づく頃には、市場を奪い取っている。
「……碧瓶会は、偽物で人が死ぬことを知っているのか」
「知ってるかどうかは不明だ。だが——知っていても止めない可能性が高い。あいつらにとって第六環の住民は客じゃない。市場を奪うための犠牲だ」
「第七環にも流れてくるか」
「時間の問題だ。安いから。本物の半額以下で売ってる。第七環の住民は——安い方を選ぶ」
賢治は作業台の前に座り直した。
偽物が出回っている。死者が出ている。このまま放置すれば——偽物で人が死に続ける。そして、偽物の「紫色の薬」が問題になれば、本物のヴィオラ・ドロップの評判も巻き添えを食う。
「紫色の薬は危険だ」——本物も偽物も区別されない。市場が潰れる。
「碧瓶会の狙いは——市場の破壊か」
「そうだと思う。本物を潰して、跡地に自分たちの商品を据える。薬商ギルドのいつものやり方だ。競合を潰すとき、あいつらは——正面から戦わない。市場ごと壊して、自分たちだけが生き残る形にする」
賢治はペンの蓋を開けた。閉めた。開けた。閉めた。
「……碧瓶会のトップは誰だ」
「ギルドマスターのオーレン。五十代。白髪の痩せた男で、目が小さい。もう二十年以上碧瓶会を仕切ってる。副長格のハインツが実務を回してるが、最終決定はオーレンが下す」
「ハインツ。——前に名前が出た男だな」
「ああ。三十代後半。赤毛。頭の切れる男で、碧瓶会の中では唯一——地べたを這ってきた叩き上げだ。貴族出身じゃない。第五環の孤児院育ちで、商才だけでのし上がった」
賢治はメモ帳に書いた。
『碧瓶会。 ギルドマスター:オーレン。五十代。最終決定権。 副長格:ハインツ。三十代後半。赤毛。叩き上げ。実務担当。 戦略:偽物VDで市場を破壊し、本物を駆逐する。 死者:一名(第六環東市場)。増加の可能性大。 対応策: 一、偽物の危険性を住民に周知する。→ 効果薄。安いものには勝てない。 二、偽物の製造元を潰す。→ 碧瓶会は合法組織。ヴォルクでも手が出しにくい。 三、碧瓶会と直接対峙する。蒸留師として。 ——三が最終手段。だが今はまだ早い。まず情報を集める。』
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翌朝。
ヴォルクからの呼び出し。
今回の使いは——普通の走り屋だった。カティアではない。護送ではなく、通常の呼び出し。
ヴォルクの部屋に入った。
灰色の目。銀の髪。穏やかな声。
「蒸留師。碧瓶会の動きは聞いているか」
「ナディアから聞いた」
「偽物で死人が出ている。放置すれば——ヴィオラ・ドロップの市場が壊れる。市場が壊れれば、俺たちの収入が消える」
「わかっている」
「碧瓶会は合法組織だ。灰の商会が直接手を出せば、王都守備隊が動く。——だが、蒸留師個人が碧瓶会と接触するなら、灰の商会の名前は出ない」
「俺に行けということか」
「碧瓶会の副長格、ハインツという男に会え。偽物の流通を止めさせろ。——一週間以内に」
「交渉で止まるか」
「止まらなければ——止めさせろ」
それだけだった。
ヴォルクは窓の外を見て、それ以上何も言わなかった。
賢治は部屋を出た。
廊下を歩きながら、ポケットの中の蒸留酒の瓶に触れた。中身は半分減っている。
碧瓶会。合法組織。傭兵を雇える金。王都守備隊との繋がり。
毒と薬と——震える手。
勝てる要素が見当たらなかった。
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——第二環。同日。
翔太の視点。
蓮が何をバルドに話したのか——確かめる方法は一つしかなかった。
訓練が終わった夕刻、翔太はバルドの執務室に向かった。石造りの廊下を歩く足音が、やけに大きく響いた。
ドアを叩いた。
「——誰だ」
「見習いの佐伯です。相談があります」
三秒の間。ドアが開いた。
バルドは四十代の大柄な男で、顎髭が灰色に染まりかけている。目が鋭い。訓練中は大声で怒鳴るが、それ以外の時間は物静かな男だった。
「何だ。手短にしろ」
「自分の配属について相談したいことがあります。——蓮と同じ部隊になっていますが、蓮の父親の黒木教官が人事に関わったと聞きました。事実ですか」
バルドの目が——動いた。一瞬だけ。すぐに元に戻ったが、翔太はそれを見逃さなかった。
賢治から受け継いだ観察力。相手の微細な反応を読む能力。
「……誰から聞いた」
「名前は出せません。ただ——不自然だと感じています。蓮と自分は訓練の成績も特性も違います。同じ部隊に配属される理由がない」
バルドは腕を組んだ。翔太を見下ろしている。
「佐伯。お前は——何を心配している」
「蓮に監視されていると感じています」
直球だった。回りくどく言う技術は、翔太にはなかった。だから——事実だけを言った。
バルドの顔が変わった。怒りではない。——困惑だった。翔太の言葉が、バルドの中にある何かと噛み合ったのだ。
「……佐伯。蓮が昨日、お前のことを俺に話しに来た」
「何と言っていましたか」
「お前の家族が第七環に関わりがある、と。——詳細は言わなかった。ただ、『注意した方がいい見習いがいる』と」
翔太の腹の底が冷えた。
蓮は——翔太を「注意すべき人物」としてバルドに売り込んだ。直接告発ではない。種を蒔いたのだ。バルドの中に疑惑の種を植えて、それが自然に育つのを待つ。
黒木と同じやり方だ。直接手を汚さない。観察し、種を蒔き、結果を刈り取る。
「バルド教官。一つだけ聞かせてください。——蓮の言葉を、信じましたか」
バルドは三秒間、翔太を見た。
「信じたかどうかは問題ではない。——問題は、お前が自分から来たことだ。やましいことがある人間は、自分からは来ない」
「やましいことはありません。家族は第二環にいます。母と妹です。——父は、この世界に来たときにはぐれました。行方がわかりません」
嘘だった。
父の居場所は知っている。第七環にいることも、灰の商会の蒸留師であることも。だが——それを言えば、蓮の種が花を咲かせる。
「……わかった。佐伯、お前の配属については——俺の方で確認する。黒木が関わっていたなら、それは——手続き上の問題だ」
「ありがとうございます」
「ただし——これ以上自分で動くな。蓮とは距離を置け。余計なことを言うな。俺が確認する」
翔太は頭を下げて執務室を出た。
廊下に出た瞬間——足が震えた。
うまくいったのか、失敗したのか、わからなかった。蓮より先にバルドに行った。蓮が蒔いた種を——上書きしようとした。
だが——嘘をついた。父の行方がわからない、と。バルドがそれを信じたかどうか。調べられたら——嘘は露見する。
翔太は壁にもたれて、天井を見上げた。
——父さんも、こうやって嘘をつきながら生きてるのか。
その問いに答える声は、なかった。
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——第七環。夜。
賢治の視点。
ナディアが夜の回収に来た。小瓶三本を受け取り、外套の内側にしまう。
「佐伯。一つ聞いていいか」
「何だ」
「ヴィオラ・ドロップは——本物でも人を殺すことがあるか」
賢治の手が止まった。蒸留酒の瓶を棚に戻す途中だった。
「……ある」
「あるのか」
「過剰摂取すれば死ぬ。フッ素化ピリジン環は中枢神経に作用する。適量なら多幸感と鎮痛作用。——過量なら呼吸抑制。心停止に至る。偽物よりは安全だが——安全なのは適量を守った場合だけだ」
ナディアは小瓶を見た。紫色の液体が、油灯の光を透かして光っている。
「適量はどれくらいだ」
「体重にもよるが——小瓶半分が上限。一本丸ごと飲めば危険域に入る。二本飲めば——死ぬ可能性がある」
「客にはそれを伝えてるのか」
「走り屋に伝えるよう指示はした。——だが、末端まで伝わっているかは保証できない」
ナディアは黙った。外套の内側の小瓶に手を当てたまま。
「……エレナが死んだとき——薬がなかったから死んだ。薬があれば助かった。あたしはそう思ってた。——だから、あんたが薬を作れると知ったとき、これだと思った。薬を流通させれば、エレナみたいな子が救われる、と」
「VDは薬じゃない。ナディア」
「わかってるよ。——わかってるんだよ、そんなこと」
ナディアの声が——低くなった。怒りではない。もっと重いもの。自分自身に向けた声。
「VDで金を稼いで、その金で薬を買って第七環に配る。あんたが作った膏薬も、解熱剤も、第七環の住民に行き渡ってる。——でもその元手は、VDだ。人を殺すかもしれない薬で金を稼いで、人を助ける薬を配ってる。これは——何なんだ」
「矛盾だ」
「矛盾。——あんた、よくそれだけ淡々と言えるな」
「淡々と言ってるわけじゃない。——俺も同じことを考えている。毎日。酒を飲みながら」
賢治はメモ帳を見た。開かなかった。
「ナディア。VDの流通を止める方法はある。俺が精製を止めればいい。——だが止めたら、ヴォルクが俺を切る。俺が消えたら、家族も巻き込まれる。精製を止められない」
「わかってる」
「わかってるなら——この矛盾ごと背負うしかない。俺もお前も」
ナディアは何も言わなかった。小瓶を外套にしまい直し、扉に向かった。
扉の前で、足が止まった。振り返らなかった。
「……偽物で人が死ぬのは——碧瓶会のせいだ。だが本物で人が死んだら——それはあたしたちのせいだ。——忘れるなよ、佐伯」
扉が閉まった。
賢治は藁束の上で、蒸留酒の瓶を見つめた。
琥珀色の液体が底に揺れている。今日の精製に使った残り。
城島の杯。ユーリの杯。蒸留酒の瓶。三つの容れ物。
そして——外套の中に消えていった、紫色の小瓶三本。
全部が——毒で、全部が——薬だった。
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