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紫の雫(ヴィオラ・ドロップ) ——異世界に転移した薬学者は、毒と薬で裏社会の頂点に立つ —   作者: イロハ
第一部「灰の檻」

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第24話 第五環

***


 第五環に足を踏み入れたのは初めてだった。


 第七環とは別の世界だった。石畳が敷かれている。路地ではなく通りがある。建物は二階建て、三階建て。窓にはガラスが嵌まっている。人々の服に穴がない。靴を履いている。——第七環では裸足が普通だった。


 賢治は外套のフードを深く被り、セレナと並んで通りを歩いた。


 セレナの姿が——変わっていた。護衛の黒装束ではなく、平民の灰色の服。ナイフは腰ではなく袖の中に隠している。碧い目は変えようがないが、フードの下に入れている。


「蒸留師殿。碧瓶会の本部は東通りの三番館です。薬商ギルドの看板が出ています」


「わかった。——セレナ、中には入るな。外で待て」


「しかし——」


「碧瓶会は合法組織だ。護衛を連れていけば『灰の商会の人間だ』と疑われる。俺一人で行く」


 セレナの碧い目が、フードの下から賢治を見た。


「……承知しました。ただし——一刻以上戻らなければ、入ります」


「それでいい」


 東通りを歩いた。通りの両側に薬草店が並んでいる。乾燥した葉の束が軒先にぶら下がり、すり鉢で薬を潰す音が聞こえる。薬商の街だ。碧瓶会がこの通りを仕切っていることは、看板を見ればわかった。店の入口に——碧い瓶のマークが彫り込まれている。統一されたマーク。フランチャイズのようなものだ。


 三番館は通りの奥にあった。三階建ての石造りの建物。入口に碧い瓶の看板。扉は開いている。


 入った。


 受付の男がいた。三十代。顎が長い。帳簿を開いて何かを書いていた。


「何の用だ。——取引なら裏口から来い」


「副長のハインツに会いたい。蒸留師が来たと伝えてくれ」


 受付の男の手が——止まった。ペンの先が帳簿の上で固まった。


 三秒間、賢治を見た。フードの下の顔。冴えない中年。


「……蒸留師?」


「そうだ」


「名前は」


「名前はない。蒸留師と言えばわかる」


 受付の男は帳簿を閉じ、奥の階段を上がっていった。


 賢治は待った。


 入口の横に長椅子があった。座った。左手がポケットの中の小瓶に触れた。経皮型の静寂。護身用に持ってきた。使う場面がないことを——祈った。


 また祈っている。


 五分後、受付の男が戻ってきた。


「二階。奥の部屋だ。——武器は」


「持っていない」


「嘘をつくな。外套の下を見せろ」


 賢治は外套を開いた。ポケットの中の小瓶は——布に包んで腰帯に移してある。見た目は薬師の携帯道具にしか見えない。


 受付の男は頷いた。


「行け」


***


 二階の奥の部屋。


 扉を開けた瞬間——薬草の匂いが押し寄せた。


 部屋の壁一面に棚があり、棚には瓶が並んでいた。碧い瓶、茶色い瓶、透明な瓶。何百本。瓶の中に——液体、粉末、乾燥した葉。薬商の見本棚だ。


 部屋の中央に机があり、男が座っていた。


 赤毛。三十代後半。痩せている。目が——鋭かった。顔の造作は平凡だが、目だけが別の人間のように光っている。商人の目。値踏みする目。人間を金額に換算する目。


 ハインツだ。


 ハインツは賢治を見て——五秒間、何も言わなかった。値踏みしている。外套。靴。手。顔。全てを見ている。


「……座れ。——茶を出す」


 ハインツの声は低く、落ち着いていた。怒りもない。警戒もない。——商談の声だ。


 賢治は椅子に座った。ハインツが陶器の杯に茶を注いだ。湯気が立つ。薬草茶だ。甘い匂い。


「飲め。——毒は入っていない。俺は毒を使う趣味がない。金がかかる」


 賢治は杯を取った。唇に当てた。——飲まなかった。匂いを嗅いだだけだ。薬草茶。甘草の匂い。——他に不純物はない。飲んでもよさそうだが、念のため置いた。


 ハインツが——笑った。薄い唇が横に引かれた。


「用心深いな。——いいことだ。馬鹿は出された茶を三秒で飲む。賢い人間は匂いを嗅ぐ。もっと賢い人間は——置く」


「本題に入る。偽物のヴィオラ・ドロップを流通させているな」


「偽物? 心外だな。——あれは碧瓶会の新商品だ。名前もつけてある。『蒼月の雫(ブルーム・ドロップ)』。お前さんの商品とは、まったく別物だよ」


「見た目を紫色にしているのは偶然か」


「偶然だ。——薬草の色素がたまたま紫になった。不思議なこともあるものだ」


 ハインツの目が——笑っていなかった。唇は笑っている。目は冷たい。商人の演技。碧瓶会の副長格が二十年かけて磨いた仮面。


「ハインツ。第六環で蒼月の雫を飲んだ男が一人死んだ。知っているか」


「知っている。——気の毒なことだ。用法用量を守らなかったのだろう」


「興奮剤の配合量が多すぎる。あの調合で半瓶以上飲めば心停止に至る。——お前はそれを知っていて出荷した」


 ハインツの目が——変わった。演技が一枚剥がれた。


「……お前さん、詳しいな。興奮剤の配合量がわかるのか。飲んだだけで」


「飲んでいない。サンプルを見た」


「サンプルを見ただけで配合比がわかるのか」


「わかる」


 ハインツは椅子に深く座り直した。指先で机を叩いた。とんとん、とんとん。考えるときの癖らしい。


「……蒸留師。噂は聞いている。灰の商会の——いや、灰の商会の『近くにいる』人間が、高純度の薬物を精製しているとな。分子操作ができる理刻の使い手だと」


「噂は噂だ」


「噂は噂。——だが、お前さんが今ここにいるのは噂ではない。事実だ。碧瓶会の本部に、一人で来た。護衛もつけず。名前も名乗らず。——度胸があるのか、追い詰められているのか。どっちだ」


「どちらでもない。偽物の流通を止めに来た」


「止める? 止める権限がお前さんにあるのか。——お前さんは灰の商会の構成員ではないだろう。個人の技術者だ。個人の技術者が合法ギルドの商品を止める権限は——どこにもない」


 正論だった。


 ハインツは頭がいい。叩き上げの商才は——理屈の組み立てに長けている。法と権限の話に持ち込めば、碧瓶会が有利だ。合法組織の強みはそこにある。


「権限の話をしているんじゃない。人が死ぬ話をしている」


「人が死ぬのは——どの商売でもある。酒で死ぬ人間もいれば、薬で死ぬ人間もいる。お前さんのヴィオラ・ドロップで死ぬ人間もいるだろう?」


 賢治の言葉が——詰まった。


 反論できなかった。ナディアに聞かれたばかりだ。「本物でも人は死ぬのか」と。答えは——「ある」だった。


 ハインツは賢治の沈黙を見逃さなかった。


「図星だな。——蒸留師、お前さんは自分の商品が完全に安全だと思っているのか。思っていないだろう。お前さんは頭がいいからな」


「……完全に安全とは言っていない。だが、蒼月の雫よりは——」


「安全だ。認める。お前さんの商品は、うちの商品より品質が高い。それは事実だ。——だが、品質が高い商品だけが市場に並ぶべきだという理屈は——商売にはない」


 ハインツが机から身を乗り出した。


「蒸留師。——俺はお前さんと戦いたくない。正直に言おう。碧瓶会は蒼月の雫を——引っ込めてもいい」


「条件は」


「お前さんがうちに来い」


 賢治は——目を見開いた。


「碧瓶会の専属蒸留師になれ。灰の商会を離れて、こちらに移れ。——お前さんの技術を、碧瓶会の流通網で売る。利益は折半だ。灰の商会では——取り分はいくらだ?」


「……それを答える義理はない」


「義理はない。だが——灰の商会で、お前さんは道具として扱われている。俺の目は節穴じゃない。道具として使われる技術者が、一人で交渉に来ている。——つまり、灰の商会はお前さんを使い捨てにする気だ。ここで碧瓶会と揉めて潰れても、別の蒸留師を探せばいい——と、ヴォルクは思っている」


 心臓が跳ねた。


 ハインツの言葉が——的を射ていた。ヴォルクは賢治を碧瓶会にぶつけた。成功すればいい。失敗しても——ヴォルクは損をしない。損をするのは賢治だけだ。


 ハインツはそれを見抜いている。


「蒸留師。——お前さん、灰の商会で幸せか」


 幸せか。


 この男は——何を言っているんだ。幸せかどうかなど、問題ではない。生き延びるために灰の商会にいる。選択の余地はなかった。


「幸せかどうかは関係ない」


「関係ない、か。——それは、灰の商会にいる人間が言う台詞だな。うちに来れば——関係があるようにしてやるよ」


 ハインツが立ち上がった。棚から一本の瓶を取った。碧い瓶。中に——透明な液体が入っている。


「これは碧瓶会の最高級蒸留酒だ。第二環にしか出回らない。——持っていけ。手土産だ。返事は——三日以内にくれ」


 賢治は瓶を受け取った。


 受け取ってしまった。


 断るべきだった。ハインツの申し出は——罠かもしれない。碧瓶会に入れば、今度はヴォルクに命を狙われる。灰の商会を裏切った人間は——生かされない。


 だが——受け取った。なぜか。


 ハインツが言った言葉が、引っかかっているのだ。「灰の商会で幸せか」。その問いが——蒸留酒の瓶のように、手の中に残っている。


***


 三番館を出た。


 通りの角にセレナがいた。灰色の服のフードの下から碧い目が賢治を見た。


「蒸留師殿。——何かありましたか」


「何もなかった。話をしただけだ」


 嘘だった。


 ハインツの申し出は——話しただけ、では片付けられない。だがセレナに話せば——セレナはヴォルク様に報告する。「碧瓶会が蒸留師を引き抜こうとしている」と。


 ヴォルクがそれを知ったら——賢治への監視が強まる。セレナが処分される可能性もある。「蒸留師が碧瓶会と接触している間、何をしていたのか」と。


「セレナ。帰るぞ」


「はい」


 二人で通りを歩いた。


 賢治の外套の下に、碧い瓶がある。ハインツの手土産。


 ポケットには蒸留酒の瓶。震える手を止めるための酒。


 腰帯には静寂の小瓶。人を殺すための毒。


 三つの瓶を抱えて、第五環の石畳を歩いた。


***


 第七環に戻ったのは夕刻だった。


 ナディアが小屋で待っていた。


「どうだった」


「碧瓶会のハインツに会った。——偽物の流通を止めると言った」


「本当か」


「条件がある」


「何だ」


「俺が碧瓶会に移ること」


 ナディアの顔が——凍った。


「……引き抜きか」


「そうだ。灰の商会を離れて、碧瓶会の専属になれ、と」


「あんた——それを受けるつもりか」


「受けるわけがない。受けたらヴォルクに殺される。家族ごと」


「なら——なんで碧い瓶を持ってる」


 賢治の手の中の碧い瓶を、ナディアの目が見ていた。


「手土産だと言われた。突っ返したら——交渉の余地がなくなる。受け取っておいた方が、三日間の猶予が稼げる」


「三日間——」


「三日以内に返事をしろと言われた。三日間で——碧瓶会の弱点を探る」


 ナディアの表情が変わった。凍りついた顔が——溶けて、代わりに思考の顔になった。情報屋の顔。


「弱点。——碧瓶会の弱点か。……ハインツについては、一つだけ知ってることがある。あいつは叩き上げだ。第五環の孤児院育ちで、碧瓶会には十五歳で丁稚に入った。——つまり、ギルドマスターのオーレンとは出自が違う。オーレンは貴族の三男坊だ。ハインツは商才で上に立ったが——血筋では、永遠にオーレンに勝てない」


「オーレンとハインツの間に——亀裂があるのか」


「亀裂というほどではない。だが——温度差はある。ハインツは碧瓶会の実務を回しているが、利益の大半はオーレンの取り分だ。ハインツが不満を持っていても——不思議じゃない」


 賢治はメモ帳を開いた。左手で書いた。


 『碧瓶会。   ハインツの提案:蒸留師を碧瓶会に引き抜く。   条件:偽物の流通を止める代わりに、専属蒸留師として移籍。   期限:三日以内の返事。   ハインツの弱点候補:   一、オーレンとの出自の格差。叩き上げvs貴族。   二、ハインツが碧瓶会を離れたいと思っている可能性?   三、——保留。情報が足りない。   対策:   一、引き抜きを断る → 偽物の流通が止まらない。期限切れ。ヴォルクに切られる。   二、引き抜きを受ける → ヴォルクに殺される。   三、——第三の選択肢を、三日以内に見つける。   三日。』


***

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