第24話 第五環
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第五環に足を踏み入れたのは初めてだった。
第七環とは別の世界だった。石畳が敷かれている。路地ではなく通りがある。建物は二階建て、三階建て。窓にはガラスが嵌まっている。人々の服に穴がない。靴を履いている。——第七環では裸足が普通だった。
賢治は外套のフードを深く被り、セレナと並んで通りを歩いた。
セレナの姿が——変わっていた。護衛の黒装束ではなく、平民の灰色の服。ナイフは腰ではなく袖の中に隠している。碧い目は変えようがないが、フードの下に入れている。
「蒸留師殿。碧瓶会の本部は東通りの三番館です。薬商ギルドの看板が出ています」
「わかった。——セレナ、中には入るな。外で待て」
「しかし——」
「碧瓶会は合法組織だ。護衛を連れていけば『灰の商会の人間だ』と疑われる。俺一人で行く」
セレナの碧い目が、フードの下から賢治を見た。
「……承知しました。ただし——一刻以上戻らなければ、入ります」
「それでいい」
東通りを歩いた。通りの両側に薬草店が並んでいる。乾燥した葉の束が軒先にぶら下がり、すり鉢で薬を潰す音が聞こえる。薬商の街だ。碧瓶会がこの通りを仕切っていることは、看板を見ればわかった。店の入口に——碧い瓶のマークが彫り込まれている。統一されたマーク。フランチャイズのようなものだ。
三番館は通りの奥にあった。三階建ての石造りの建物。入口に碧い瓶の看板。扉は開いている。
入った。
受付の男がいた。三十代。顎が長い。帳簿を開いて何かを書いていた。
「何の用だ。——取引なら裏口から来い」
「副長のハインツに会いたい。蒸留師が来たと伝えてくれ」
受付の男の手が——止まった。ペンの先が帳簿の上で固まった。
三秒間、賢治を見た。フードの下の顔。冴えない中年。
「……蒸留師?」
「そうだ」
「名前は」
「名前はない。蒸留師と言えばわかる」
受付の男は帳簿を閉じ、奥の階段を上がっていった。
賢治は待った。
入口の横に長椅子があった。座った。左手がポケットの中の小瓶に触れた。経皮型の静寂。護身用に持ってきた。使う場面がないことを——祈った。
また祈っている。
五分後、受付の男が戻ってきた。
「二階。奥の部屋だ。——武器は」
「持っていない」
「嘘をつくな。外套の下を見せろ」
賢治は外套を開いた。ポケットの中の小瓶は——布に包んで腰帯に移してある。見た目は薬師の携帯道具にしか見えない。
受付の男は頷いた。
「行け」
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二階の奥の部屋。
扉を開けた瞬間——薬草の匂いが押し寄せた。
部屋の壁一面に棚があり、棚には瓶が並んでいた。碧い瓶、茶色い瓶、透明な瓶。何百本。瓶の中に——液体、粉末、乾燥した葉。薬商の見本棚だ。
部屋の中央に机があり、男が座っていた。
赤毛。三十代後半。痩せている。目が——鋭かった。顔の造作は平凡だが、目だけが別の人間のように光っている。商人の目。値踏みする目。人間を金額に換算する目。
ハインツだ。
ハインツは賢治を見て——五秒間、何も言わなかった。値踏みしている。外套。靴。手。顔。全てを見ている。
「……座れ。——茶を出す」
ハインツの声は低く、落ち着いていた。怒りもない。警戒もない。——商談の声だ。
賢治は椅子に座った。ハインツが陶器の杯に茶を注いだ。湯気が立つ。薬草茶だ。甘い匂い。
「飲め。——毒は入っていない。俺は毒を使う趣味がない。金がかかる」
賢治は杯を取った。唇に当てた。——飲まなかった。匂いを嗅いだだけだ。薬草茶。甘草の匂い。——他に不純物はない。飲んでもよさそうだが、念のため置いた。
ハインツが——笑った。薄い唇が横に引かれた。
「用心深いな。——いいことだ。馬鹿は出された茶を三秒で飲む。賢い人間は匂いを嗅ぐ。もっと賢い人間は——置く」
「本題に入る。偽物のヴィオラ・ドロップを流通させているな」
「偽物? 心外だな。——あれは碧瓶会の新商品だ。名前もつけてある。『蒼月の雫』。お前さんの商品とは、まったく別物だよ」
「見た目を紫色にしているのは偶然か」
「偶然だ。——薬草の色素がたまたま紫になった。不思議なこともあるものだ」
ハインツの目が——笑っていなかった。唇は笑っている。目は冷たい。商人の演技。碧瓶会の副長格が二十年かけて磨いた仮面。
「ハインツ。第六環で蒼月の雫を飲んだ男が一人死んだ。知っているか」
「知っている。——気の毒なことだ。用法用量を守らなかったのだろう」
「興奮剤の配合量が多すぎる。あの調合で半瓶以上飲めば心停止に至る。——お前はそれを知っていて出荷した」
ハインツの目が——変わった。演技が一枚剥がれた。
「……お前さん、詳しいな。興奮剤の配合量がわかるのか。飲んだだけで」
「飲んでいない。サンプルを見た」
「サンプルを見ただけで配合比がわかるのか」
「わかる」
ハインツは椅子に深く座り直した。指先で机を叩いた。とんとん、とんとん。考えるときの癖らしい。
「……蒸留師。噂は聞いている。灰の商会の——いや、灰の商会の『近くにいる』人間が、高純度の薬物を精製しているとな。分子操作ができる理刻の使い手だと」
「噂は噂だ」
「噂は噂。——だが、お前さんが今ここにいるのは噂ではない。事実だ。碧瓶会の本部に、一人で来た。護衛もつけず。名前も名乗らず。——度胸があるのか、追い詰められているのか。どっちだ」
「どちらでもない。偽物の流通を止めに来た」
「止める? 止める権限がお前さんにあるのか。——お前さんは灰の商会の構成員ではないだろう。個人の技術者だ。個人の技術者が合法ギルドの商品を止める権限は——どこにもない」
正論だった。
ハインツは頭がいい。叩き上げの商才は——理屈の組み立てに長けている。法と権限の話に持ち込めば、碧瓶会が有利だ。合法組織の強みはそこにある。
「権限の話をしているんじゃない。人が死ぬ話をしている」
「人が死ぬのは——どの商売でもある。酒で死ぬ人間もいれば、薬で死ぬ人間もいる。お前さんのヴィオラ・ドロップで死ぬ人間もいるだろう?」
賢治の言葉が——詰まった。
反論できなかった。ナディアに聞かれたばかりだ。「本物でも人は死ぬのか」と。答えは——「ある」だった。
ハインツは賢治の沈黙を見逃さなかった。
「図星だな。——蒸留師、お前さんは自分の商品が完全に安全だと思っているのか。思っていないだろう。お前さんは頭がいいからな」
「……完全に安全とは言っていない。だが、蒼月の雫よりは——」
「安全だ。認める。お前さんの商品は、うちの商品より品質が高い。それは事実だ。——だが、品質が高い商品だけが市場に並ぶべきだという理屈は——商売にはない」
ハインツが机から身を乗り出した。
「蒸留師。——俺はお前さんと戦いたくない。正直に言おう。碧瓶会は蒼月の雫を——引っ込めてもいい」
「条件は」
「お前さんがうちに来い」
賢治は——目を見開いた。
「碧瓶会の専属蒸留師になれ。灰の商会を離れて、こちらに移れ。——お前さんの技術を、碧瓶会の流通網で売る。利益は折半だ。灰の商会では——取り分はいくらだ?」
「……それを答える義理はない」
「義理はない。だが——灰の商会で、お前さんは道具として扱われている。俺の目は節穴じゃない。道具として使われる技術者が、一人で交渉に来ている。——つまり、灰の商会はお前さんを使い捨てにする気だ。ここで碧瓶会と揉めて潰れても、別の蒸留師を探せばいい——と、ヴォルクは思っている」
心臓が跳ねた。
ハインツの言葉が——的を射ていた。ヴォルクは賢治を碧瓶会にぶつけた。成功すればいい。失敗しても——ヴォルクは損をしない。損をするのは賢治だけだ。
ハインツはそれを見抜いている。
「蒸留師。——お前さん、灰の商会で幸せか」
幸せか。
この男は——何を言っているんだ。幸せかどうかなど、問題ではない。生き延びるために灰の商会にいる。選択の余地はなかった。
「幸せかどうかは関係ない」
「関係ない、か。——それは、灰の商会にいる人間が言う台詞だな。うちに来れば——関係があるようにしてやるよ」
ハインツが立ち上がった。棚から一本の瓶を取った。碧い瓶。中に——透明な液体が入っている。
「これは碧瓶会の最高級蒸留酒だ。第二環にしか出回らない。——持っていけ。手土産だ。返事は——三日以内にくれ」
賢治は瓶を受け取った。
受け取ってしまった。
断るべきだった。ハインツの申し出は——罠かもしれない。碧瓶会に入れば、今度はヴォルクに命を狙われる。灰の商会を裏切った人間は——生かされない。
だが——受け取った。なぜか。
ハインツが言った言葉が、引っかかっているのだ。「灰の商会で幸せか」。その問いが——蒸留酒の瓶のように、手の中に残っている。
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三番館を出た。
通りの角にセレナがいた。灰色の服のフードの下から碧い目が賢治を見た。
「蒸留師殿。——何かありましたか」
「何もなかった。話をしただけだ」
嘘だった。
ハインツの申し出は——話しただけ、では片付けられない。だがセレナに話せば——セレナはヴォルク様に報告する。「碧瓶会が蒸留師を引き抜こうとしている」と。
ヴォルクがそれを知ったら——賢治への監視が強まる。セレナが処分される可能性もある。「蒸留師が碧瓶会と接触している間、何をしていたのか」と。
「セレナ。帰るぞ」
「はい」
二人で通りを歩いた。
賢治の外套の下に、碧い瓶がある。ハインツの手土産。
ポケットには蒸留酒の瓶。震える手を止めるための酒。
腰帯には静寂の小瓶。人を殺すための毒。
三つの瓶を抱えて、第五環の石畳を歩いた。
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第七環に戻ったのは夕刻だった。
ナディアが小屋で待っていた。
「どうだった」
「碧瓶会のハインツに会った。——偽物の流通を止めると言った」
「本当か」
「条件がある」
「何だ」
「俺が碧瓶会に移ること」
ナディアの顔が——凍った。
「……引き抜きか」
「そうだ。灰の商会を離れて、碧瓶会の専属になれ、と」
「あんた——それを受けるつもりか」
「受けるわけがない。受けたらヴォルクに殺される。家族ごと」
「なら——なんで碧い瓶を持ってる」
賢治の手の中の碧い瓶を、ナディアの目が見ていた。
「手土産だと言われた。突っ返したら——交渉の余地がなくなる。受け取っておいた方が、三日間の猶予が稼げる」
「三日間——」
「三日以内に返事をしろと言われた。三日間で——碧瓶会の弱点を探る」
ナディアの表情が変わった。凍りついた顔が——溶けて、代わりに思考の顔になった。情報屋の顔。
「弱点。——碧瓶会の弱点か。……ハインツについては、一つだけ知ってることがある。あいつは叩き上げだ。第五環の孤児院育ちで、碧瓶会には十五歳で丁稚に入った。——つまり、ギルドマスターのオーレンとは出自が違う。オーレンは貴族の三男坊だ。ハインツは商才で上に立ったが——血筋では、永遠にオーレンに勝てない」
「オーレンとハインツの間に——亀裂があるのか」
「亀裂というほどではない。だが——温度差はある。ハインツは碧瓶会の実務を回しているが、利益の大半はオーレンの取り分だ。ハインツが不満を持っていても——不思議じゃない」
賢治はメモ帳を開いた。左手で書いた。
『碧瓶会。 ハインツの提案:蒸留師を碧瓶会に引き抜く。 条件:偽物の流通を止める代わりに、専属蒸留師として移籍。 期限:三日以内の返事。 ハインツの弱点候補: 一、オーレンとの出自の格差。叩き上げvs貴族。 二、ハインツが碧瓶会を離れたいと思っている可能性? 三、——保留。情報が足りない。 対策: 一、引き抜きを断る → 偽物の流通が止まらない。期限切れ。ヴォルクに切られる。 二、引き抜きを受ける → ヴォルクに殺される。 三、——第三の選択肢を、三日以内に見つける。 三日。』
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