第25話 紫の薬禍
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——第二環。王宮守備隊本営。
翔太の視点。
朝の訓練が始まる前に、集合がかかった。
いつもの訓練場ではなく、本営の中庭だった。見習い全員——四十二名が整列している。翔太は後列。蓮は中列。距離がある。
バルドが中庭に出てきた。その隣に——翔太の知らない男がいた。
四十代後半。背が高い。黒髪を短く刈り込み、顎が角張っている。目が——冷たかった。バルドの鋭さとは違う。感情を排除した、書類を読むときのような目。
バルドが口を開いた。
「今日は通常訓練の前に伝達事項がある。——こちらは王都守備隊第三部の調査官、グレゴール・ヴェーバー殿だ」
第三部。翔太は記憶を探った。王都守備隊の組織は訓練で叩き込まれている。第一部が外壁防衛。第二部が内壁治安。第三部が——犯罪捜査。
犯罪捜査の調査官が、なぜ見習いの前に立っている。
グレゴールが前に出た。腕を後ろで組み、中庭を見渡した。
「手短に話す。——王都守備隊は、第五環から第七環にかけて流通している薬物の捜査を開始した。通称『紫の薬』。正式名はヴィオラ・ドロップと呼ばれている」
翔太の心臓が——跳ねた。
ヴィオラ・ドロップ。父が作っている薬。
「この薬物は高い依存性を持ち、過剰摂取による死亡例が報告されている。さらに——模倣品が出回り、模倣品による死者も発生している。王都の公衆衛生上、重大な脅威だ」
グレゴールの声は淡々としていた。感情がない。報告書を読み上げるような声。
「捜査の目的は二つ。一つ、製造者の特定と拘束。二つ、流通網の解体。——見習い諸君に伝える理由は、諸君が今後、下層環への巡回任務に就く可能性があるからだ。下層環で紫色の液体を扱う者を発見した場合、即座に報告せよ。自分で対処するな。相手は毒物を扱う危険人物だ」
毒物を扱う危険人物。
——父のことだ。
翔太の足が震えた。後列だから誰にも見えない。だが——膝が、ガタガタと揺れていた。拳を握って、太ももに押しつけた。
グレゴールが続けた。
「現時点で判明している情報。製造者は『蒸留師』と呼ばれる人物。理刻による分子操作能力を持つ。活動拠点は第七環と推定。——人相、年齢、本名は不明」
不明。
まだ——不明だ。父の顔も名前もわかっていない。だが——「第七環」「理刻」「分子操作」。そこまで絞り込まれている。第七環で理刻を使う人間は——何人いる。
「質問はあるか」
沈黙。見習いたちは黙っている。薬物捜査は自分たちには遠い話だと思っている。
翔太は——手を挙げなかった。挙げられなかった。
グレゴールが中庭を去った。バルドが通常訓練の指示を出した。見習いたちが散っていく。
翔太は——動けなかった。
蓮が中列から振り返った。薄い笑み。翔太を見ている。——翔太の顔色が変わったのを、見ていたのだ。
蓮は何も言わなかった。ただ笑って、訓練場に向かった。
その背中が——翔太には、黒木の背中と重なった。
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——第七環。同日。
賢治の視点。
ハインツとの会談から二日が経った。期限は明日。
第三の選択肢は——まだ見つかっていなかった。
引き抜きを受ければヴォルクに殺される。断れば偽物が止まらず市場が壊れる。
賢治は小屋の中で、碧い瓶を見つめていた。ハインツの手土産。開けていない。
ナディアが入ってきた。
「佐伯。——新しい情報が入った」
「何だ」
「王都守備隊が動き出した。ヴィオラ・ドロップの捜査を開始した。第三部——犯罪捜査の管轄だ」
賢治の手から、ペンが落ちた。土の床の上で、からん、と音がした。
「……捜査」
「第五環から第七環の薬物流通を調べてる。蒸留師の特定が目的だ。——あんたの名前も顔もまだ出てないが、『第七環に拠点を持つ理刻の使い手』とまでは掴んでる」
「情報源は」
「わからない。ただ——碧瓶会の偽物で人が死んだ件が、第六環の衛生管理官に報告された。そこから守備隊に上がったんだろう。偽物の捜査が——本物にまで波及した」
碧瓶会の偽物が、守備隊の捜査を呼んだ。
皮肉だった。碧瓶会が偽物をばらまいたせいで、死者が出て、官が動いた。そして官は——偽物だけでなく本物も追っている。碧瓶会は合法組織だから捜査をかわせるが、灰の商会は——非合法だ。捜査が進めば、潰されるのは灰の商会の方だ。
「……碧瓶会は、これを狙っていたのか」
「何だって」
「偽物を流通させた目的が——これだ。偽物で死者を出し、守備隊を動かし、捜査で灰の商会を潰す。碧瓶会自身は合法だから捜査を逃れる。——偽物は、市場破壊だけが目的じゃなかった。官を使って灰の商会を潰すための——」
「——餌か」
ナディアの顔が白くなった。
「あいつら——最初からそのつもりだったのか。偽物で人を殺して、その死体を官への通報に使う。官が動けば灰の商会が潰れて、碧瓶会だけが残る——」
「全部——ハインツの計算だ」
賢治の頭の中で、ハインツの言葉が反芻された。
「お前さんがうちに来い」。
あれは——善意の勧誘ではなかった。碧瓶会に来なければ官に潰される、という脅迫だった。三日の猶予は——官の捜査が始まるまでの猶予だった。
賢治が碧瓶会に移れば——蒸留師は合法組織の傘下に入る。捜査は碧瓶会には及ばない。灰の商会だけが潰れる。
碧瓶会に移らなければ——灰の商会ごと蒸留師が潰される。
どちらに転んでも——ハインツの勝ちだ。
「……ナディア。この情報は——ヴォルクにも入っているか」
「入ってると思う。灰の商会にも間者はいる。守備隊が動いたなら——ヴォルクの耳にはもう届いてる」
ヴォルクが守備隊の捜査を知った。
ヴォルクの頭の中で、何が起きているか。——賢治は想像した。
蒸留師が捕まれば、灰の商会に繋がる。灰の商会はヴォルクの生命線だ。蒸留師が捕まる前に——蒸留師を消す。
証拠ごと。
賢治の背筋を、冷たいものが走った。
「ナディア。——俺は今、三方向から追われている」
「三方向?」
「碧瓶会のハインツが引き抜きの返事を待っている。明日が期限だ。——王都守備隊が蒸留師を探している。——そしてヴォルクが、蒸留師を『証拠』として消す可能性がある」
ナディアは黙った。壁にもたれて天井を見上げた。
十秒。二十秒。
「……佐伯。あんたの頭で——考えろ。あんたの頭は、そういうときに一番よく回る」
「回らない。手が震えてる。酒を飲まないと精製もできない。そんな人間の頭が——」
「回る。——ドラガンを殺したときも、ソフィアと交渉したときも、あんたは追い詰められたときに一番いい手を打った」
「あれは——」
「あれもこれも同じだ。追い詰められてる。三方向から。——なら、三方向を一つにまとめればいい」
三方向を一つにまとめる。
賢治はナディアを見た。
「……どういう意味だ」
「あたしは情報屋だ。策を立てるのはあんたの仕事だよ。——ただ、一つだけ言える。ハインツも、守備隊も、ヴォルクも——あんたが『蒸留師である』ことが問題の核だ。蒸留師でなくなれば——全部消える」
「蒸留師を辞める?」
「辞めるんじゃない。——蒸留師を、別の場所に移す」
賢治はナディアの言葉を反芻した。
蒸留師を別の場所に移す。——どういう意味だ。
ナディアは何も言わなかった。情報屋は答えを言わない。材料を並べるだけだ。答えを出すのは——依頼者の仕事。
賢治はメモ帳を開いた。震える手で書いた。
『第26日目。 三方向の包囲。 一、碧瓶会ハインツ。引き抜き。期限明日。 二、王都守備隊第三部。犯罪捜査。蒸留師の特定。 三、ヴォルク。証拠隠滅のため蒸留師を消す可能性。 ナディアの言葉:蒸留師を別の場所に移す。 別の場所とは。 別の人間に蒸留師を演じさせる? → 理刻は俺にしかできない。不可能。 蒸留師の拠点を移す? → 第七環から出れば、ヴォルクの支配圏を外れる。しかし家族が人質。 蒸留師を「死なせる」? → 蒸留師が死んだことにすれば、捜査は止まる。ヴォルクも追う理由を失う。 だが——死んだはずの蒸留師が、別の場所で生きていたら? —— 待て。 もう一つ、考えるべきことがある。 ヴォルクが俺を消そうとするなら——俺がヴォルクを先に消すという選択肢。 それは—— まだ書けない。 まだ。』
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