第26話 調査官
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ハインツへの返事の期限の朝——第七環に、見たことのない男が来た。
賢治が気づいたのは偶然だった。朝の精製を始める前、蒸留酒を一口飲んで手の震えが収まるのを待っている間、小屋の窓の穴から路地を見ていた。
第七環の路地を歩く人間には法則がある。住民は下を向いて歩く。走り屋は壁際を歩く。外来者は——きょろきょろする。
その男は——きょろきょろしなかった。
背が高い。黒髪を短く刈り込んでいる。顎が角張っている。服は第五環の商人風——だが、歩き方が商人ではなかった。歩幅が均一。速度が一定。左右の確認を自然な首の動きに織り込んでいる。訓練された歩き方だ。
軍人か、あるいは——捜査官。
賢治は窓から顔を引いた。
セレナが小屋の前に立っている。碧い目が、同じ男を見ていた。
「蒸留師殿」
「見た。——あの男は誰だ」
「わかりません。ただ——歩き方が守備隊の歩兵訓練を受けた人間です」
守備隊。
昨日ナディアが言った。守備隊の第三部が動き出した、と。
——もう来たのか。
賢治は小屋の中を見回した。作業台の上には夜哭き菫の乾燥茎。陶器の皿。ボールペン。小瓶。——全て、蒸留師の証拠だ。
「セレナ。あの男がこの小屋に来る可能性は」
「不明です。ただ——あの男は路地の住民に話しかけています」
窓から覗いた。男が——路地の老婆に話しかけていた。老婆は首を振っている。男は頷いて、次の住民に向かった。
聞き込みだ。
何を聞いているかは——わからない。だが、紫色の薬のことを聞いているとしたら——この路地の住民は、蒸留師の存在を知っている。赤牙の襲撃の夜に、全員が見ていた。薬師で、毒師で、住民を守った男。
「……まずい」
賢治は作業台の上のものを片づけ始めた。夜哭き菫の茎を布袋に入れ、藁束の下に押し込んだ。皿を洗った。小瓶を懐に入れた。ボールペンはポケットに。
三分で——小屋の中から蒸留師の痕跡が消えた。残っているのは藁束と、木の杯二つと、空の蒸留酒の瓶。
杯——城島の杯とユーリの杯を、藁束の下に隠した。蒸留酒の瓶は棚に置いた。第七環では珍しくない。
外を見た。男が——近づいている。路地の奥から、こちらに向かって歩いてきている。
「セレナ。——あの男が来たら、お前はどうする」
「わたしはヴォルク様の部下です。守備隊に対しては——協力する義務はありません。ただし、妨害もしません」
「それでいい。——俺は藁束の上にいる。体調が悪くて寝ている男だ。それだけだ」
賢治は藁束の上に横になった。外套を被った。目を閉じた。
——体調が悪い男。第七環では珍しくない。病人は多い。薬が足りないからだ。
皮肉だった。薬を作っている男が、薬が足りない場所で病人のふりをしている。
***
足音が近づいた。
小屋の前で止まった。
「——すまないが、少し聞きたいことがある」
男の声。低く、落ち着いている。第二環の訛り。
セレナの声が応じた。
「何でしょうか」
「この辺りで——薬を売っている人間を知らないか。紫色の液体を扱っている者だ」
「存じません」
「そうか。——この小屋には誰が住んでいる」
「体の弱い男です。第七環で働いていましたが、体を壊して寝込んでいます」
「話を聞いてもいいか」
「体調が悪いのですが——」
「手短に済ませる」
足音が入ってきた。
賢治は目を閉じたまま、呼吸を浅くした。病人の呼吸。——藁束の上で、外套を被って、動かない。
「……おい。少し聞きたいことがある。起きられるか」
賢治は——ゆっくりと目を開けた。ぼんやりした目。焦点が合わないふりをした。
「……なん、ですか」
「王都守備隊の者だ。この辺りで、紫色の薬を見たことはあるか」
「紫色の——薬……?」
「ああ。ヴィオラ・ドロップという名前で流通している。知っているか」
「……聞いたことは、あります。第六環で売ってるとか——」
「第六環。——この辺りでは見ないか」
「この辺りじゃ——薬なんて買えません。高くて」
「そうか。——この辺りに、薬を作る人間は住んでいないか。薬草を扱う者とか」
賢治の心臓が——跳ねた。
だが——顔には出さなかった。研究者の訓練が生きた。実験が失敗したとき、表情を変えない。データが予想と違ったとき、声のトーンを変えない。
「薬を作る人間は——知りません。薬草なら——路地の外れに自生してますが、みんなそれを煮て飲んでるだけです」
「理刻を使える人間は——この辺りにいるか」
理刻。
——直球だ。この男は、蒸留師の能力が理刻だと知っている。そしてそれを、第七環の住民に聞いている。
「理刻……ですか。——第七環じゃ、あまり聞かないですね。第二環の騎士とかが使うものじゃ——」
「そうだな。すまなかった。——体を大事にしろ」
男が出ていった。
足音が路地を遠ざかっていった。
賢治は——動けなかった。
藁束の上で、外套の下で、心臓がばくばくと鳴っている。汗が背中を流れている。
——あれが、グレゴールか。
ナディアの情報と一致する。第三部の調査官。犯罪捜査。黒髪。角張った顎。
あの男は——第七環に来た。初日に。蒸留師の拠点を「第七環」と特定しているから、直接来た。聞き込みを始めている。住民の一人が「ああ、薬を作る男がいるよ」と答えたら——
賢治は起き上がった。セレナを見た。
「セレナ。——あの男は、路地の住民何人に聞いた」
「わたしが見た範囲では——七人です」
「七人。——誰か答えたか」
「全員、首を振っていました。——第七環の住民は、守備隊に協力しません。守備隊は——ここでは嫌われています」
「なぜだ」
「守備隊は第七環の治安を守る仕事を放棄しています。赤牙が暴れても来ない。病人が出ても来ない。——それなのに、聞き込みだけは来る。住民はそれを知っています」
守備隊は嫌われている。だから住民は答えない。
だが——それがいつまで続くか。金を積まれたら。脅されたら。家族を人質に取られたら。
「……時間の問題だ」
「はい。——蒸留師殿。わたしは今日の件をヴォルク様に報告します」
賢治はセレナを見た。
「……報告するか」
「はい。守備隊が第七環に来たことは——ヴォルク様にとって重要な情報です。報告しないわけにはいきません」
当然だ。セレナはヴォルク様の部下だ。守備隊の動きを報告しないことは——任務放棄にあたる。
だが——ヴォルクが守備隊の動きを知れば、ヴォルクは次の手を打つ。その次の手が——蒸留師を消すことかもしれない。
セレナの報告が——賢治自身の死刑宣告になる可能性がある。
「……わかった。報告しろ」
「はい」
セレナの碧い目が——一瞬だけ、賢治を見た。
何を思っているのか、わからなかった。
***
昼前にナディアが来た。
「佐伯。ハインツの期限が今日だ。——返事は」
「断る」
「断る?——代案はあるのか」
「ある。——碧瓶会に行って、ハインツに直接伝える。『引き抜きは受けない。だが、取引をしたい』と」
「取引? 何の」
「偽物の中身を変えさせる。興奮剤の配合を下げて、死人が出ない調合に変える。——その調合を、俺が教える」
ナディアの目が見開かれた。
「あんた——正気か。偽物の調合を改良してやるのか」
「改良じゃない。骨抜きだ。興奮剤の配合を下げれば、偽物の効き目が弱くなる。効き目の弱い偽物は——本物との差が明確になる。客が偽物を選ばなくなる。偽物は勝手に市場から消える」
「……なるほど。偽物を殺さずに、偽物を無力化する」
「そうだ。碧瓶会は偽物で金を稼ぎたい。死人が出なければ、守備隊の捜査の口実も消える。碧瓶会にとっても悪い話じゃない。——ハインツは商人だ。金の話には乗る」
「だが——ヴォルクには」
「ヴォルクには『碧瓶会の偽物を無力化した』とだけ報告する。調合を教えたことは——言わない」
ナディアは腕を組んだ。
「嘘が増えてるな、あんた」
「ああ。増えてる」
「カティアに言われたんだろ。嘘は三つまでだって」
「三つ目だ。——ドラガンの毒、セレナの離脱、碧瓶会への調合提供。三つ。」
「四つ目を使ったら——」
「切られる。——だからこれ以上嘘はつけない。次にヴォルクに隠し事をしたら——終わりだ」
ナディアは何も言わなかった。外套を翻して出ていこうとした。
扉の前で振り返った。
「佐伯。——あんた、守備隊が来たのは知ってるか」
「知ってる。今朝、小屋に来た」
「何だって?」
「聞き込みに来た。俺は病人のふりをした。——向こうは気づいていない。たぶん」
「たぶん、か。——あの調査官、グレゴール・ヴェーバーっていう男だ。第三部で十年以上やってる。第四環の薬物組織を二つ潰した実績がある。——甘く見るなよ。あの男は、しつこい」
「しつこい」
「一度嗅ぎつけたら、離れない。犬みたいな男だ。証拠を一つずつ積み上げて、最後に——全部繋げる。第四環の組織を潰したときも、三年かけた。三年間、証拠を集め続けた」
三年。
「……三年は長い」
「長い。——だが、あの男にとっては短いんだよ。仕事だから。毎日、一歩ずつ。確実に。——あんたの嘘がいくつあっても、あの男は一つずつ剥がす」
ナディアが出ていった。
賢治は藁束の上に座った。
グレゴール・ヴェーバー。第三部の調査官。十年以上の経験。三年かけて組織を潰す男。
今朝——あの男は、賢治の小屋に来た。病人のふりで誤魔化した。あの男の目は——信じたのか。信じなかったのか。
あの角張った顎。感情のない目。書類を読むような目。
あの目が——一つずつ、証拠を積み上げていく。
住民の証言。薬草の痕跡。第七環と第五環を結ぶ流通ルート。灰の商会との繋がり。
そして——翔太。第二環にいる息子。守備隊の見習い。
グレゴールが翔太に辿り着いたら——全部が繋がる。
賢治は蒸留酒の瓶を取った。一口飲んだ。手の震えが止まった。
止まった手で、メモ帳を開いた。
『グレゴール・ヴェーバー。 第三部調査官。十年以上。三年かけて組織を潰す。 今朝、小屋に来た。病人のふりをした。 信じたかどうか——不明。 この男を止める方法は—— 殺すか。 殺せない。守備隊の調査官を殺したら、守備隊が総力で来る。 買収するか。 金がない。 騙すか。 しつこい男は騙しきれない。 なら——逃げるか。 逃げ場がない。家族が人質。 —— どの方向にも壁がある。 壁を壊す力もない。 なら——壁そのものを、味方にするしかない。 それは——どういう意味だ。 まだわからない。』
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