第27話 骨抜き
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碧瓶会の三番館。二度目の訪問。
前回と同じ受付の男。同じ階段。同じ薬草の匂い。
ハインツの部屋に入った。赤毛の男が机の前に座っている。指先で机を叩いている。とんとん、とんとん。
「来たか。——返事を聞こう」
「引き抜きは受けない」
ハインツの指が止まった。
三秒。
「……理由は」
「灰の商会を離れたら殺される。家族ごと」
「それは——碧瓶会が守れる。こちらには傭兵がいる。ヴォルクの手は——」
「ヴォルクの手は長い。お前が思っているより。——碧瓶会の傭兵で防げる相手じゃない」
ハインツの目が細くなった。値踏みの目。商人の目。
「……なら、この話はなしか」
「なしだ。——だが、別の話がある」
「別の話」
「蒼月の雫の調合を変えろ。興奮剤の配合を三分の一に下げろ。——そうすれば死人が出なくなる。死人が出なければ、守備隊の捜査の口実が消える。お前にとっても都合がいいはずだ」
ハインツが——椅子の背に体を預けた。天井を見た。考えている。
「……興奮剤を三分の一にしたら、効き目が弱くなる。客がつかない」
「効き目が弱い商品は、安さで売ればいい。ヴィオラ・ドロップの代替品ではなく——入門品として売る。安くて弱い。本物が欲しくなったら、本物を買う。客を育てる商品だ」
「客を育てる——」
「碧瓶会は流通網を持っている。俺は品質を持っている。競争ではなく——棲み分けだ。碧瓶会が入門品を売り、本物はこちらが売る。市場が広がれば——双方の利益になる」
ハインツの指が再び動き始めた。とんとん。とんとん。
「面白い話だ。——だが、調合を変えるには、具体的な配合比が必要だ。うちの薬師は——正直言って、精製が雑だ。配合比を間違えたら、また死人が出る」
「だから——俺が教える。配合比を。一度だけだ。碧瓶会の薬師を一人ここに連れてこい。俺が直接指導する」
ハインツの目が——光った。
商人の目が、別の光を帯びた。これは好条件だと気づいた目。蒸留師の技術指導を一度でも受ければ——碧瓶会の薬師の技量が底上げされる。配合比だけでなく、精製の考え方が伝わる。
「……蒸留師。お前さんは——自分が何を差し出しているかわかっているか」
「わかっている」
「うちの薬師が技術を覚えたら——いずれ、本物に近いものを作るかもしれない。お前さんの市場を食うかもしれない」
「近いものは作れても、本物は作れない。理刻がなければ分子操作ができない。碧瓶会の薬師に理刻は使えない」
「それは——今の話だ。理刻を使える人間が、碧瓶会にも現れるかもしれない」
「現れたら——そのときに考える」
ハインツが笑った。初めて——演技ではない笑い。
「お前さん、度胸だけは認めるよ。——いいだろう。薬師を一人送る。いつがいい」
「明日。場所はここだ。第七環には来させるな」
「第七環に来させるなって——なるほど。守備隊の目か」
「ああ」
「守備隊に嗅ぎつかれてるのか。——大変だな、蒸留師」
「お互い様だ」
「違いない。——明日、薬師のエーリカを送る。二十代の女だ。腕はうちで一番いい。扱いやすいから安心しろ」
「扱いやすさはどうでもいい。頭が良ければいい」
「頭はいい。——ただ、口が軽い。気をつけろ」
賢治は席を立った。
ハインツが背後から声をかけた。
「蒸留師。——一つだけ聞いていいか」
「何だ」
「お前さん、いつまで灰の商会にいるつもりだ」
「いる限り」
「いる限りか。——その答え、三ヶ月後にもう一度聞くよ」
賢治は振り返らなかった。三番館を出た。
通りの角にセレナが立っていた。
「蒸留師殿。——碧瓶会との話は、まとまりましたか」
「まとまった。偽物の調合を変えさせる。——ヴォルクには、偽物の流通が収束に向かっていると報告してくれ」
「……承知しました」
セレナの碧い目が——賢治の顔を見ていた。
何を報告して、何を報告しないか。セレナはそれを判断しなければならない。「偽物の調合を教える」という事実を報告するか。「碧瓶会に引き抜きを打診された」という事実を報告するか。
セレナはヴォルクの部下だ。全て報告するのが任務だ。
だが——セレナは黙っていた。何も聞き返さなかった。
それが——協力なのか、判断の保留なのか、賢治にはわからなかった。
***
翌日。碧瓶会の三番館。
ハインツが送ってきた薬師は——想像と違っていた。
エーリカ。二十代前半。長い黒髪を後ろで束ねている。顔は丸く、目が大きい。口元には——笑みが張りついていた。愛想のいい笑み。だが、目は笑っていない。
「蒸留師さん、ですよね。エーリカです。よろしくお願いします」
「賢治でいい。——これから蒼月の雫の調合を見直す。まず、今の配合を教えてくれ」
「はい。——スイートルートの煮汁三十ミリ、赤蜥蜴の乾燥粉末五グラム、青苔の搾り汁十ミリ。それに——興奮剤として、カッパーバインの精油を十五滴」
「十五滴。——多すぎる。五滴で十分だ。十五滴は心臓を止める量だ」
「十五滴って——ハインツ副長が決めた配合ですけど」
「ハインツは薬師じゃない。商人だ。効き目の強さだけで決めた配合だ。——これを五滴に変える。代わりに、甘草の抽出液を八滴足す。甘草がカッパーバインの刺激を和らげて、持続時間を延ばす」
エーリカが目を見開いた。
「甘草と——カッパーバインを組み合わせるんですか。それは——」
「やったことがないのか」
「ないです。甘草は解毒に使うもので——興奮剤と組み合わせるなんて——」
「毒と薬は同じものだ。量と組み合わせが違うだけだ。——メモを取れ」
エーリカが帳面を取り出した。ペンを握った。
賢治は配合を口頭で指示した。分量。手順。温度。混合の順番。——精製の核心部分、理刻を使う工程は教えなかった。教えたのは「理刻なしでもできる範囲」の調合技術だけだ。
だが——それだけでも、エーリカにとっては衝撃だったらしい。
「……蒸留師さん。——あなたの知識は、どこから来てるんですか」
「日本から」
「日本って——異世界ですか。漂着者の?」
「ああ」
「異世界の知識で薬を作ってるんですか。——すごいですね」
「すごくない。——この世界の薬草は日本にはない。俺がやっているのは、日本の知識をこの世界の素材に当てはめているだけだ。試行錯誤の連続で——何度も失敗している」
「でも——ヴィオラ・ドロップは、誰にも真似できない」
「理刻がなければ真似できないだけだ。理刻を持った別の人間が現れたら——俺の価値はなくなる」
エーリカは帳面に書き続けていた。ペンが止まらない。配合だけでなく、賢治の言葉もメモしている。
「——蒸留師さん。一つ、聞いてもいいですか」
「何だ」
「ヴィオラ・ドロップで——人が死んだことは、ありますか」
賢治の手が——止まった。
「……ない。今のところは」
「今のところは?」
「過剰摂取すれば死ぬ。——まだ報告は上がっていないが、いつ起きてもおかしくない」
エーリカの笑みが——消えた。
「蒼月の雫で死んだ男は——第六環の労働者でした。名前はマルコ。三十二歳。妻と子供が二人。——わたし、マルコに蒼月の雫を売ったんです」
賢治はエーリカを見た。
「売ったのはお前か」
「はい。碧瓶会の薬師は——調合もしますが、販売もします。マルコは——常連でした。肩の痛みがあって、鎮痛剤として買っていました。蒼月の雫が出たとき、安いからって——切り替えたんです。そして——」
エーリカの声が途切れた。
「——死にました。わたしが売った薬で」
沈黙が落ちた。
賢治は何も言わなかった。言えることがなかった。
自分も——同じだ。ヴィオラ・ドロップでまだ人は死んでいない。だが——いつ起きてもおかしくない。ナディアに言われた。「本物で人が死んだら——それはあたしたちのせいだ」。
「……エーリカ。今日教えた配合なら——死人は出ない。カッパーバインの量が致死量を大幅に下回る。甘草が心臓への負荷を緩和する。——マルコのような客は、もう出ない」
「……ほんとうですか」
「保証する。——それが、俺がここに来た理由だ」
エーリカの目に——涙が浮かんだ。すぐに拭った。笑みが戻った。だが——さっきまでの営業用の笑みとは、微かに違っていた。
「ありがとうございます。——蒸留師さん」
「礼を言うな。俺は碧瓶会の商品改良を手伝っているだけだ」
「手伝い——ですか。わたしには——人助けに見えますけど」
「見えるだけだ」
賢治は立ち上がった。
帳面を閉じるエーリカを見下ろして、一つだけ言った。
「エーリカ。——口が軽いとハインツに言われた。今日のことは、ハインツ以外に話すな」
「はい」
「守備隊に聞かれたら——知らないと言え。蒸留師に会ったことはない、と」
「……守備隊が来てるんですか」
「来ている。——気をつけろ」
三番館を出た。
石畳の通りを歩きながら、賢治は空を見上げた。赤い太陽が高い位置にある。昼だ。
偽物の調合を変えた。死人は出なくなる。碧瓶会は弱い偽物を安く売り続ける。本物との差が開く。客が本物に流れる。市場は安定する。
——だが、ハインツは最後に言った。「三ヶ月後にもう一度聞くよ」。
ハインツは待っている。賢治がヴォルクと決裂する日を。そのとき——碧瓶会は再び手を伸ばす。
三ヶ月。
三ヶ月後——自分がどこにいるか、賢治にはわからなかった。
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