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紫の雫(ヴィオラ・ドロップ) ——異世界に転移した薬学者は、毒と薬で裏社会の頂点に立つ —   作者: イロハ
第一部「灰の檻」

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第28話 犬の鼻

***


 グレゴールが二度目に来たのは、三日後だった。


 今度は——聞き込みではなかった。


 賢治が朝の精製を終えて(蒸留酒二口。震えが止まるまで三分。耐性が進んでいる)小瓶を布に包んでいるとき、セレナの声が外から聞こえた。


「蒸留師殿。——あの男が、また来ています」


 窓から覗いた。グレゴールが路地の入口に立っている。前回と同じ服装。角張った顎。感情のない目。


 だが——今回は一人ではなかった。


 隣に若い男がいる。二十代前半。痩せて背が高い。手に——革の鞄を持っている。鞄の中に何か道具が入っている。金属の柄が覗いている。


「セレナ。隣の男は」


「不明です。ただ——鞄の中身は採取道具に見えます。薬草の調査に使うものです」


 採取道具。


 ——前回の聞き込みで何も得られなかったから、次の手に出た。住民に聞くのではなく、物的証拠を探しに来た。


 賢治は精製道具を三分で片づけた。もう慣れた。夜哭き菫の茎は布袋に入れて藁束の下。小瓶は懐。皿は洗って棚に。ボールペンはポケット。


 だが——匂いは消せない。


 夜哭き菫を精製するとき、独特の甘い匂いが出る。すみれに似た、だがもっと重い匂い。賢治の鼻は慣れて感じなくなっているが、外から来た人間なら——気づくかもしれない。


 窓を開けた。路地の風を入れた。匂いを散らす。


 グレゴールが路地を歩いてきた。前回と同じ方向。東の端から西へ。だが今回は住民に話しかけていない。壁を見ている。地面を見ている。若い男が——しゃがみ込んで、路地の排水溝から何かを採取した。


 排水溝。


 ——まずい。


 精製のあとに出る廃液は、小屋の裏の排水溝に流していた。紫色の廃液。量は少ないが——蓄積している。排水溝の石に——紫色の染みが残っているはずだ。


 賢治は小屋の裏に回った。排水溝を見た。


 石の隙間に——薄い紫色の筋が走っていた。


 理刻を起動した。左手をかざし、石の表面に沈着した色素分子を分解した。紫色が——消えていく。三秒。五秒。十秒。


 排水溝の紫色が消えた。


 だが——小屋の裏にいる賢治を、セレナが見ていた。


「蒸留師殿。——今のは」


「何でもない」


「排水溝の色素を——理刻で消しましたか」


「……ああ」


 セレナの碧い目が、排水溝を見た。それから、賢治を見た。


 何を考えているのか——わからなかった。報告するかどうか。「蒸留師が証拠隠滅をしている」と。


 セレナは何も言わなかった。視線を正面に戻した。


 五分後、グレゴールが賢治の小屋の前を通った。


 立ち止まらなかった。若い男も立ち止まらなかった。小屋の裏には回らなかった。


 通り過ぎた。


 賢治は——息を吐いた。止めていたことに気づいた。


 今回は通り過ぎた。だが——次は来る。グレゴールは路地の排水溝から何かを採取した。それを分析すれば——夜哭き菫の成分が検出される。この路地のどこかで、夜哭き菫が使われていると特定される。


 次に来たときは——小屋一軒一軒を調べるだろう。


 時間がない。


***


 ——第二環。同日。


 翔太の視点。


 訓練後の洗い場で、蓮が横に来た。


 いつもは距離を取っている。バルドに「蓮と距離を置け」と言われてからは、翔太は意識的に蓮から離れていた。蓮もそれを知っているはずだ。


 だが——今日、蓮の方から来た。


「翔太」


「……何だ」


「バルド教官にさ——相談行ったっしょ?」


 翔太の手が止まった。顔を洗う途中だった。水滴が顎から落ちた。


「誰から聞いた」


「誰からも聞いてないよ。見てただけ。——翔太が訓練後にバルドの部屋行くの、中庭から窓見えるんだよね」


 窓が見える。——蓮は中庭から、翔太がバルドの部屋に入るのを見ていた。


「何話したの?」


「お前には関係ない」


「関係ないかなー。——俺の名前、出たっしょ」


 翔太は蓮を見た。


 薄い笑み。前髪が長くて目が半分隠れている。だがその目は——笑っていない。観察している。翔太の反応を、一つずつ記録している。


「……出した。お前に監視されていると言った」


「ふーん。——正直だね、翔太は。嘘つけない人だよな」


「嘘をつく理由がない」


「理由なくても嘘ついた方が安全なこともあるよ。——たとえばさ、父さんの居場所とか」


 翔太の心臓が止まった。


 比喩ではなく——一拍、飛んだ。


「……父さんの居場所は知らない。はぐれた」


「うん。バルド教官にもそう言ったんでしょ。——でもさ、翔太。俺って嘘見抜くの得意なんだよね。父親に似て」


 蓮の声は軽かった。脅しの声ではない。世間話の声。だからこそ——怖かった。


「翔太。——俺は別に翔太の敵じゃないよ」


「お前が何を考えているかわからない」


「何も考えてないって。ただ——見てるだけ。翔太が嘘つくとこ。翔太の顔色変わるとこ。先週の集会でさ——グレゴール調査官が蒸留師の話したとき、翔太の膝震えてたの、俺見てたよ」


 翔太の拳が——握りしめられた。爪が掌に食い込んだ。


「それが——何だ」


「何でもない。ただの観察。——でもさ、翔太。俺が見てることは——父さんも知ってる。父さん俺に報告しろって言うから」


 黒木。


 蓮の父。王宮守備隊の教官。——蓮を翔太の隣に置いた男。


 蓮は翔太を監視している。そしてその情報は——黒木に流れている。


「蓮。——お前は、何がしたいんだ」


「何がしたいか? ——わかんない。ほんとにわかんないんだよ。父さんが見ろって言うから見てる。報告しろって言うから報告してる。俺には——自分の意志ってないんだよね。父さんの目として生きてる。それだけ」


 蓮の声が——揺れた。一瞬だけ。すぐに戻った。薄い笑み。


「……ただ、一つだけ言えるのは——俺がバルド教官に話したのは、翔太の家族が第七環に関わりがある、ってだけだよ。父さんが蒸留師だとか、そういうのは言ってない。——だって、知らないし。ほんとに」


「じゃあ——なぜ、第七環の話をした」


「父さんに言われたから。『佐伯翔太の周辺を探れ、第七環との繋がりを確認しろ』って」


「黒木は——何を知っているんだ」


「わかんない。父さん俺に全部は教えないんだよ。道具に全体像教える必要ないから」


 道具。


 蓮は自分を——道具と呼んだ。


 翔太は蓮の顔を見た。薄い笑み。だがその笑みの下に——疲弊があった。父の道具として動くことへの、言葉にならない疲弊。


「蓮。——お前、辛くないのか」


「辛い? 何が」


「父親の道具として——生きてることが」


 蓮の笑みが——消えた。


 一秒。二秒。


 笑みが戻った。だが——前の笑みより、薄かった。


「翔太。——その質問は、しない方がいいよ。俺にも、自分にも」


 蓮が洗い場を出ていった。


 翔太は一人で残った。水の音だけが響いている。


 ——蓮は道具だ。黒木の道具。


 父さんはヴォルクの道具だ。


 そして俺は——何の道具だ。


 答えが出ないまま、水が流れ続けていた。


***


 ——第七環。夜。


 賢治の視点。


 ナディアに報告した。守備隊が排水溝を採取したこと。証拠を消したこと。次に来たら小屋を調べられる可能性があること。


 ナディアは腕を組んで聞いていた。


「……拠点を移すべきだ」


「移す? どこに」


「第七環の中で、場所を変える。この小屋は——もう安全じゃない。守備隊に目をつけられた」


「だが——精製には設備がいる。作業台、水場、藁束の保管場所。別の小屋を一から整えるには——」


「時間がないのはわかってる。だが——グレゴールが次に来たら終わりだ。あの男の鼻は犬並みだ。排水溝の染みを消したくらいじゃ——騙しきれない」


 ナディアが小屋の中を見回した。


「……南の路地に、空き家がある。元は皮なめし職人の工房だった。水場がある。排水は川に直接流れるから、溝に染みが残らない。——明日、下見に行くか」


「ああ。——だが、引っ越しをすればセレナがついてくる。セレナが新しい拠点をヴォルクに報告する。ヴォルクが新しい拠点を知る。——守備隊が次にヴォルクを調べたら、ヴォルクから新しい拠点が割れる」


「ヴォルクは守備隊に喋らない」


「喋らなくても——ヴォルクの動きを守備隊が追跡したら、連絡ルートから拠点が推測される。グレゴールは三年かけて組織を潰す男だ。時間をかけて、全部繋げる」


 ナディアは黙った。


「……どっちに転んでも詰んでるな」


「詰んでる。——だから、別の手を打つ」


「別の手?」


「守備隊に——蒸留師の偽情報を流す」


 ナディアの目が細くなった。


「偽情報。どういう」


「蒸留師は第七環にいない。第四環に移った、という情報を流す。——グレゴールの捜査の方向を、第七環から逸らす」


「誰が流す」


「ソフィアだ。ソフィアの赤牙は第五環にも第四環にも人がいる。酒場で噂を流せば——守備隊の耳に入る」


「嘘の噂を流すだけで——グレゴールが引っかかるか」


「引っかからなくてもいい。捜査の焦点がぼやければ——時間が稼げる。時間さえあれば——」


「時間さえあれば、何をする」


 賢治は蒸留酒の瓶を見た。琥珀色の液体が底に揺れている。


「……わからない。だが——時間がなければ、何もできない。まず時間を買う。次の手は——その間に考える」


 ナディアは外套を翻した。


「ソフィアに連絡する。——佐伯。あんたの嘘、何個目だ」


「碧瓶会の調合提供が三つ目だ。——守備隊への偽情報は、ヴォルクへの嘘じゃない。守備隊への嘘だ。カウントは別だ」


「嘘のカウントを分けるようになったか。——あんた、変わってきてるよ」


 ナディアが出ていった。


 賢治は藁束の上に座った。蒸留酒を一口飲んだ。三口目。今日はもう三口だ。


 メモ帳を開いた。


 『第29日目。   守備隊が排水溝を採取。証拠は消した。   拠点移転を検討。南の路地の空き家。   偽情報作戦。ソフィア経由。蒸留師は第四環に移った、と。   ナディアに言われた。「嘘のカウントを分けるようになった」。   分けている。ヴォルクへの嘘と、守備隊への嘘と、碧瓶会への嘘。   全部——俺がついた嘘だ。   カウントを分けても、嘘の総量は変わらない。   日本にいた頃——嘘をつくのが苦手だった。   今は——数えないと忘れるくらい、ついている。』


***

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