第29話 南の路地
***
南の路地の空き家は、ナディアの言った通りだった。
元皮なめし職人の工房。石造りの壁。天井が高い。窓が二つ。一つは路地に面し、もう一つは——裏手の水路に面している。水路は第七環の南端を流れる小川に繋がっている。排水は川に流れる。溝に残らない。
水場がある。石の水槽。水を溜めるための設備が残っている。
作業台として使えそうな木の台がある。皮をなめすために使われていたもので、表面に黒い染みがあるが、頑丈だ。
「……ここなら、使える」
「だろ。——問題は、引っ越しに時間がかかることだ。精製道具を運ぶのに一晩。夜哭き菫のストックも全部移す必要がある。走り屋に手伝わせるか」
「走り屋は使うな。人が多いと目立つ。——俺とセレナで運ぶ」
「セレナを使うのか。——あいつがヴォルクに報告するぞ。新しい拠点の場所を」
「セレナには報告させる。隠す意味がない。ヴォルクに新しい拠点を隠したら——それ自体が裏切りになる」
「なら——守備隊に対してはどうする。ヴォルクが新しい拠点を知っていれば、守備隊がヴォルクのルートを辿ってここを見つける可能性がある」
「偽情報が効いている間は——猶予がある。ソフィアの噂は流れたか」
「昨日流した。第五環の酒場三軒で『蒸留師が第四環に移った』って話を広めた。——グレゴールの耳に入るまで、二日か三日だ」
「二日。——引っ越しは今夜やる」
***
夜。
セレナと二人で荷物を運んだ。
外套の下に布袋を抱え、路地を歩く。月が薄い。第七環の夜は暗い。街灯がないから。
セレナが前を歩いた。護衛の歩き方。左右を確認し、角を曲がる前に一度止まり、安全を確認してから進む。
賢治がその後ろを歩いた。腕に夜哭き菫の乾燥束を抱えている。三日分のストック。残りは明日の二往復で運ぶ。
「蒸留師殿」
「何だ」
「先日——守備隊の調査官が来たとき、排水溝の色素を理刻で消していました」
「ああ」
「あれは——証拠隠滅です」
「そうだ」
「わたしは——あの場面を、ヴォルク様に報告していません」
賢治の足が止まった。
セレナが振り返った。碧い目が月光を反射して光っている。
「……なぜだ」
「わかりません。——報告すべきだと、頭ではわかっています。ヴォルク様の部下として、蒸留師殿の行動は全て報告する義務があります」
「なら——なぜ報告しなかった」
「……わたしが持ち場を離れたとき——蒸留師殿はわたしを庇いました。ヴォルク様に『俺が離れるよう命じた』と嘘をついてくれました。——わたしは、その嘘の借りを返していない」
「借りを返すために——報告を止めたのか」
「はい」
「セレナ。——借りの話をしているなら、もう十分だ。報告しろ。今後は全て報告しろ。お前がヴォルクに嘘をつく必要はない」
「しかし——」
「俺の嘘は俺で処理する。お前を巻き込むつもりはない」
セレナは——三秒間、黙った。
「……承知しました」
歩き始めた。
賢治はセレナの背中を見ながら歩いた。銀がかった金髪が夜風に揺れている。
——セレナは報告しなかった。証拠隠滅を。借りだと言った。
だが——本当に借りだけか。
考えるな。今は考えるな。荷物を運べ。精製道具を新しい小屋に設置しろ。明日の精製に間に合わせろ。
それだけだ。
***
新しい小屋での初日の精製。
蒸留酒を四口飲んだ。震えが止まるまで四分。
三口では——もう足りなくなっていた。
精製を始めた。夜哭き菫の液滴を皿に広げ、理刻を起動する。分子が見える。フッ素化ピリジン環。インドール骨格。——見慣れた景色だ。
分離。一つ目。二つ目。三つ目。
手が——揺れた。
酒の効果が切れかけている。四口飲んでも、持続時間が短くなっている。耐性。
五口目を飲んだ。
精製を続けた。四つ目。五つ目。六つ目。
完成。小瓶一本。
二本目に取りかかった。液滴を広げた。理刻を起動した。
——匂いが変だった。
夜哭き菫の甘い匂いに——別の匂いが混じっている。酸っぱい匂い。金属的な匂い。
賢治はペンを止めた。液滴を見た。紫色。——だが、紫の濃度が違う。いつもより薄い。
乾燥茎を手に取った。嗅いだ。——茎の匂いが弱い。いつもの夜哭き菫より——成分が薄い。
「……劣化している」
ストックの夜哭き菫が劣化していた。乾燥状態の保管で——成分が分解し始めている。保管場所を移動したストレスか、あるいは——保管期間が限界に達したか。
残りのストックを調べた。布袋から茎を一本ずつ取り出し、匂いと色を確認した。
十二本中——七本が劣化していた。使えるのは五本。五本で作れるヴィオラ・ドロップは——三日分。
「……三日後には、新しい夜哭き菫が必要になる」
夜哭き菫の自生地は第七環の北の森だ。前に一度、採取に行った。その時は——路地の外に出る危険を冒した。
今は——守備隊が第七環を見張っている。外に出れば——見つかるリスクがある。
だが——三日後にストックが尽きれば、精製ができなくなる。精製ができなければ、ヴォルクへの納品が止まる。納品が止まれば——
振り出しに戻る。
賢治は蒸留酒の瓶を見た。残りは三分の一。
メモ帳を開いた。
『第30日目。 新拠点での精製開始。酒の消費:朝五口。 夜哭き菫のストック劣化。使用可能分は三日分。 三日以内に北の森で採取が必要。 守備隊の目を避けながら採取に行く方法—— 一、夜間に単独で行く。リスク高。 二、セレナに護衛させる。報告される。 三、ナディアの走り屋に採取を頼む。夜哭き菫を識別できる人間がいない。 四、カティアに頼む。——カティアは植物に詳しいか? 前に聞いた。カティアは第七環で暮らしが長い。北の森にも行ったことがある。 カティアなら——夜哭き菫を見つけられるかもしれない。 保留。明日ナディアに相談する。』
***
その夜。
藁束の上で横になった。新しい小屋は前の小屋より広い。天井が高い。だが——藁束の匂いが違う。前の小屋の藁束は、長い間使い込まれて体に馴染んでいた。ここの藁束は新しい。固い。体が沈まない。
眠れなかった。
ユーリの声が聞こえる。「あんたの子供が——あんたと同じ目に——」。
目を閉じた。メモ帳を胸の上に置いた。開いてあるページは——葵の絵。向日葵の絵。クレヨンで描いた、太陽みたいな花。
葵は今、何をしているだろう。美智子は。翔太は。
第二環。遠い場所。環が五つも離れている。同じ王都にいるのに——別の惑星のようだ。
セレナに頼んだ伝言は届いたのか。「連絡を絶て」。翔太はそれを守っているのか。
守っていてくれ。——守れ。
蓮が翔太を見ている。黒木が情報を集めている。グレゴールが蒸留師を追っている。
全部が——翔太の方向から来ている。
第二環と第七環。二つの環を繋ぐ線の上に——翔太がいる。
翔太を守るために、距離を置いた。連絡を絶った。——だが、距離を置いても、線は消えない。血が繋がっている。名字が同じだ。佐伯。佐伯賢治と佐伯翔太。
グレゴールがその線を見つけたら——
考えるな。眠れ。
眠れなかった。
***




