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紫の雫(ヴィオラ・ドロップ) ——異世界に転移した薬学者は、毒と薬で裏社会の頂点に立つ —   作者: イロハ
第一部「灰の檻」

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第30話 老兵

***


 夜哭き菫の採取は夜明け前に行った。


 セレナを新しい小屋に残し、単独で北の森に向かった。セレナには「散歩だ」と言った。信じていないだろうが——セレナは何も聞き返さなかった。


 第七環の北端から森に入る。道はない。獣道のような細い筋が、灌木の間を縫っている。空が白み始める前の、最も暗い時間帯。月明かりだけが頼りだ。


 夜哭き菫は群生しない。湿った岩場の陰に、一本か二本ずつ生える。紫色の花弁が月光を反射して——暗い森の中でも、わずかに光る。


 最初の一本を見つけたのは、森に入って二十分後だった。岩の割れ目に——薄紫の花。茎を根元から折り取り、布袋に入れた。


 二本目。三本目。四本目。


 五本目を探しているとき——足音が聞こえた。


 賢治は灌木の陰に身を潜めた。呼吸を止めた。


 足音が近づく。一人。歩幅が広い。速度が一定。


 ——守備隊か。


 灌木の隙間から覗いた。


 男が森の小道を歩いていた。だが——守備隊ではなかった。


 老人だった。


 白髪。背が高い。だが背中は曲がっていない。六十代後半——いや、もっと上か。手に何も持っていない。武器もない。だが——歩き方が、異常だった。


 音がしない。


 六十代の老人が、夜明け前の森を、落ち葉を踏まずに歩いている。足の運びが完璧だった。体重の移動が滑らかで、一歩ごとの着地が正確だ。


 老人が立ち止まった。


 首を傾げた。——匂いを嗅いでいるのか。それとも——気配を読んでいるのか。


 賢治は灌木の陰で石のように動かなかった。心臓の音が聞こえるほどの静寂。


 老人が——賢治のいる方向を、見た。


 三秒。


 暗くて顔は見えない。だが——視線の方向が、正確に賢治を向いていた。


 五秒。


 老人が——歩き出した。賢治とは反対方向へ。ゆっくりと。音を立てずに。森の闇に溶けるように消えていった。


 賢治は——一分間、動けなかった。


 今の老人が誰か——わかっていた。ナディアが渡した灰の商会の人物情報。


 ザハール。六十七歳。ヴォルクの用心棒。


***


 夜哭き菫を八本採取して小屋に戻った。一週間分のストック。


 精製を始めた。蒸留酒を五口。震えが止まる。


 ナディアが回収に来た。


「佐伯。ヴォルクから連絡。明日——定例の報告に来いと」


「定例か。——偽物の件を報告する」


「あと一つ。——今朝、北の森に行っただろう」


「ああ。夜哭き菫の採取だ」


「森で——誰かに会わなかったか」


 賢治はナディアを見た。


「……ザハールがいた」


「ザハールが?」


「夜明け前に、一人で歩いていた。何のためかは知らない。だが——あの男は俺に気づいていた。気づいた上で、何もせず去った」


 ナディアは壁にもたれた。


「……ザハールは、ヴォルクの命令以外で人を殺さない。それが四十年間のルールだ。プロだから」


「それだけか。何かもっと——知っていることはないのか」


「ザハールについてか。——あんた、まだあの爺さんの実力を知らないんだな」


「噂しか知らない」


「噂じゃない。事実を教える。——去年、赤牙がヴォルクの居所を急襲したことがある。三十人で来た」


「三十人?」


「ドラガンが本気で潰しに来た。壁を破って突入した。——ヴォルクの部屋にいたのは、ヴォルクとザハールの二人だけ。マーラもイレーナも出払っていた」


「二人で三十人を——」


「違う。ヴォルクは戦ってない。椅子に座ったまま一歩も動かなかった。——ザハールが一人で対処した」


「一人で」


「刃物一本で。先頭の六人を——三十秒で斬った。残り二十四人は——逃げた。六人が死ぬのを見て、戦う気が失せた」


 三十秒。六人。刃物一本。六十六歳。


「……化け物だな」


「化け物だよ。——あたしは一度だけ、ザハールが戦うのを見たことがある。五年前だ。第六環で灰の商会の走り屋が襲われて、ザハールが助けに来た。そのとき——」


 ナディアが言葉を切った。


「……何だ」


「あの爺さんの動きは——説明できない。速いとか強いとかじゃない。相手が動く前に、もうそこにいるんだ。ナイフを振った瞬間には——もう相手の背後にいる。理刻を使ってるわけじゃない。ただの体術。四十年磨き続けた技だ」


「理刻なしで——そこまで」


「理刻に頼る若い戦闘員が、全員束になっても勝てない。マーラもイレーナもカティアも——ザハール一人に手が出せない。あたしはそう聞いてる」


 賢治は黙った。


 ザハール。ヴォルクの横に常にいる男。あの男がヴォルクを守っている限り——ヴォルクは安全だ。


 だが——今はそのことを考える意味がない。ヴォルクは今、賢治の雇い主だ。敵ではない。


 敵ではない——はずだ。


***


 翌日。ヴォルクへの定例報告。


 ヴォルクの部屋に入った。


 灰色の目。銀の髪。穏やかな声。


 ——そして、部屋の隅にザハールが立っていた。


 昨日森で見た老人。白髪。背が高い。背中が曲がっていない。手に何も持っていない。


 だが——立っているだけで、部屋の空気が変わっていた。温度が下がったわけではない。圧力が変わったわけでもない。ただ——「何かが起きたら、この老人が最初に動く」という確信が、空気の中に溶けていた。


 賢治が部屋に入った瞬間、ザハールの目が動いた。一瞬だけ。賢治の手元。ポケットの位置。腰帯の位置。懐の膨らみ。——一秒で全部見た。


「蒸留師。座れ」


 賢治は座った。ザハールは壁際に立ったまま動かない。


「碧瓶会の偽物の件を聞こう」


「偽物の調合が変わった。興奮剤の配合が下がり、効き目が弱くなった。死者は出なくなる。——偽物は市場から自然に消える」


「お前が働きかけたのか」


「碧瓶会のハインツに会って、偽物の危険性を指摘した。碧瓶会も死者が出れば守備隊の目が向くから——変えた」


 嘘ではない。だが——全部ではない。


 ヴォルクの灰色の目が三秒間、賢治を見た。


「それだけか」


「それだけだ」


「……そうか。——蒸留師、お前は最近、よく動くな。碧瓶会に行き、偽物を止め、拠点も移した。——俺の許可なく」


「拠点の移転はセレナを通じて報告した」


「報告と許可は違う。——まあいい。結果が出ているから、今回は見逃す」


 見逃す。


 その言葉の温度が——低かった。穏やかな声。穏やかな笑み。だが——「見逃す」という言葉は、「今回は」という条件がついている。今回は。次は——わからない。


「守備隊が動いている。第七環の周辺を調べ回っている。——お前のことは、セレナから聞いている。調査官が小屋に来たそうだな」


「来た。病人のふりで切り抜けた」


「病人のふりか。——長くは持たないな」


「ソフィアを通じて偽情報を流した。蒸留師は第四環に移った、と」


「俺に相談なくか」


「時間がなかった」


 ヴォルクが——笑った。穏やかな笑みではない。面白がっている笑みだった。


 カティアの言葉が脳裏をよぎった。「面白がっているときの方が怖い」。


「蒸留師。お前は——自分で判断し、自分で動くようになった。それは悪いことではない。だが——」


 ヴォルクが窓際に立った。外を見た。


「——俺に相談なく動くということは、お前が俺を信用していないということだ。信用していない人間は——いずれ裏切る」


「裏切るつもりはない」


「つもりがあるかどうかは関係ない。行動が全てだ。——蒸留師、今回は見逃す。次からは——必ず俺に相談しろ。動く前に。お前がどこに行き、誰と会い、何をするか。全て報告しろ」


「……わかった」


「ザハール」


 壁際の老人が一歩前に出た。


「蒸留師の新しい拠点の周辺を——見ておけ。守備隊が近づかないように」


「まあ、なんとかなるだろう」


 ザハールの声は低く、穏やかだった。だが——その穏やかさが、ナディアの語った戦闘力と結びついたとき、賢治の背中に冷たいものが走った。


 この老人が——俺の周辺にいる。


 守備隊から守るためだけではない。俺を監視するためでもある。


 ヴォルクはセレナだけでは不足だと判断した。ザハールの目も——加えた。


 賢治は部屋を出た。


 廊下を歩いた。背中にザハールの視線は感じなかった。だが——視線がないことが、逆に怖かった。見ていないのではない。見る必要がないほど——把握しているのだ。


 小屋に戻った。藁束の上に座った。蒸留酒の瓶を見た。


 メモ帳を開いた。


 『第31日目。   定例報告。偽物の件は通った。   ヴォルクの態度が変わった。   「見逃す」「次からは必ず相談しろ」「行動が全てだ」。   ザハールが俺の拠点の周辺を見張る。   セレナ+ザハール。監視が二重になった。   俺は——ヴォルクの信用を失いかけている。   碧瓶会への独断行動。拠点移転。偽情報。   全部——ヴォルクの許可を取っていない。   嘘は三つまで。カティアが言った。   三つ目は——もう使ったのか。   まだか。   数えている余裕がなくなっている。   それが一番——まずい。』


***

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