第30話 老兵
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夜哭き菫の採取は夜明け前に行った。
セレナを新しい小屋に残し、単独で北の森に向かった。セレナには「散歩だ」と言った。信じていないだろうが——セレナは何も聞き返さなかった。
第七環の北端から森に入る。道はない。獣道のような細い筋が、灌木の間を縫っている。空が白み始める前の、最も暗い時間帯。月明かりだけが頼りだ。
夜哭き菫は群生しない。湿った岩場の陰に、一本か二本ずつ生える。紫色の花弁が月光を反射して——暗い森の中でも、わずかに光る。
最初の一本を見つけたのは、森に入って二十分後だった。岩の割れ目に——薄紫の花。茎を根元から折り取り、布袋に入れた。
二本目。三本目。四本目。
五本目を探しているとき——足音が聞こえた。
賢治は灌木の陰に身を潜めた。呼吸を止めた。
足音が近づく。一人。歩幅が広い。速度が一定。
——守備隊か。
灌木の隙間から覗いた。
男が森の小道を歩いていた。だが——守備隊ではなかった。
老人だった。
白髪。背が高い。だが背中は曲がっていない。六十代後半——いや、もっと上か。手に何も持っていない。武器もない。だが——歩き方が、異常だった。
音がしない。
六十代の老人が、夜明け前の森を、落ち葉を踏まずに歩いている。足の運びが完璧だった。体重の移動が滑らかで、一歩ごとの着地が正確だ。
老人が立ち止まった。
首を傾げた。——匂いを嗅いでいるのか。それとも——気配を読んでいるのか。
賢治は灌木の陰で石のように動かなかった。心臓の音が聞こえるほどの静寂。
老人が——賢治のいる方向を、見た。
三秒。
暗くて顔は見えない。だが——視線の方向が、正確に賢治を向いていた。
五秒。
老人が——歩き出した。賢治とは反対方向へ。ゆっくりと。音を立てずに。森の闇に溶けるように消えていった。
賢治は——一分間、動けなかった。
今の老人が誰か——わかっていた。ナディアが渡した灰の商会の人物情報。
ザハール。六十七歳。ヴォルクの用心棒。
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夜哭き菫を八本採取して小屋に戻った。一週間分のストック。
精製を始めた。蒸留酒を五口。震えが止まる。
ナディアが回収に来た。
「佐伯。ヴォルクから連絡。明日——定例の報告に来いと」
「定例か。——偽物の件を報告する」
「あと一つ。——今朝、北の森に行っただろう」
「ああ。夜哭き菫の採取だ」
「森で——誰かに会わなかったか」
賢治はナディアを見た。
「……ザハールがいた」
「ザハールが?」
「夜明け前に、一人で歩いていた。何のためかは知らない。だが——あの男は俺に気づいていた。気づいた上で、何もせず去った」
ナディアは壁にもたれた。
「……ザハールは、ヴォルクの命令以外で人を殺さない。それが四十年間のルールだ。プロだから」
「それだけか。何かもっと——知っていることはないのか」
「ザハールについてか。——あんた、まだあの爺さんの実力を知らないんだな」
「噂しか知らない」
「噂じゃない。事実を教える。——去年、赤牙がヴォルクの居所を急襲したことがある。三十人で来た」
「三十人?」
「ドラガンが本気で潰しに来た。壁を破って突入した。——ヴォルクの部屋にいたのは、ヴォルクとザハールの二人だけ。マーラもイレーナも出払っていた」
「二人で三十人を——」
「違う。ヴォルクは戦ってない。椅子に座ったまま一歩も動かなかった。——ザハールが一人で対処した」
「一人で」
「刃物一本で。先頭の六人を——三十秒で斬った。残り二十四人は——逃げた。六人が死ぬのを見て、戦う気が失せた」
三十秒。六人。刃物一本。六十六歳。
「……化け物だな」
「化け物だよ。——あたしは一度だけ、ザハールが戦うのを見たことがある。五年前だ。第六環で灰の商会の走り屋が襲われて、ザハールが助けに来た。そのとき——」
ナディアが言葉を切った。
「……何だ」
「あの爺さんの動きは——説明できない。速いとか強いとかじゃない。相手が動く前に、もうそこにいるんだ。ナイフを振った瞬間には——もう相手の背後にいる。理刻を使ってるわけじゃない。ただの体術。四十年磨き続けた技だ」
「理刻なしで——そこまで」
「理刻に頼る若い戦闘員が、全員束になっても勝てない。マーラもイレーナもカティアも——ザハール一人に手が出せない。あたしはそう聞いてる」
賢治は黙った。
ザハール。ヴォルクの横に常にいる男。あの男がヴォルクを守っている限り——ヴォルクは安全だ。
だが——今はそのことを考える意味がない。ヴォルクは今、賢治の雇い主だ。敵ではない。
敵ではない——はずだ。
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翌日。ヴォルクへの定例報告。
ヴォルクの部屋に入った。
灰色の目。銀の髪。穏やかな声。
——そして、部屋の隅にザハールが立っていた。
昨日森で見た老人。白髪。背が高い。背中が曲がっていない。手に何も持っていない。
だが——立っているだけで、部屋の空気が変わっていた。温度が下がったわけではない。圧力が変わったわけでもない。ただ——「何かが起きたら、この老人が最初に動く」という確信が、空気の中に溶けていた。
賢治が部屋に入った瞬間、ザハールの目が動いた。一瞬だけ。賢治の手元。ポケットの位置。腰帯の位置。懐の膨らみ。——一秒で全部見た。
「蒸留師。座れ」
賢治は座った。ザハールは壁際に立ったまま動かない。
「碧瓶会の偽物の件を聞こう」
「偽物の調合が変わった。興奮剤の配合が下がり、効き目が弱くなった。死者は出なくなる。——偽物は市場から自然に消える」
「お前が働きかけたのか」
「碧瓶会のハインツに会って、偽物の危険性を指摘した。碧瓶会も死者が出れば守備隊の目が向くから——変えた」
嘘ではない。だが——全部ではない。
ヴォルクの灰色の目が三秒間、賢治を見た。
「それだけか」
「それだけだ」
「……そうか。——蒸留師、お前は最近、よく動くな。碧瓶会に行き、偽物を止め、拠点も移した。——俺の許可なく」
「拠点の移転はセレナを通じて報告した」
「報告と許可は違う。——まあいい。結果が出ているから、今回は見逃す」
見逃す。
その言葉の温度が——低かった。穏やかな声。穏やかな笑み。だが——「見逃す」という言葉は、「今回は」という条件がついている。今回は。次は——わからない。
「守備隊が動いている。第七環の周辺を調べ回っている。——お前のことは、セレナから聞いている。調査官が小屋に来たそうだな」
「来た。病人のふりで切り抜けた」
「病人のふりか。——長くは持たないな」
「ソフィアを通じて偽情報を流した。蒸留師は第四環に移った、と」
「俺に相談なくか」
「時間がなかった」
ヴォルクが——笑った。穏やかな笑みではない。面白がっている笑みだった。
カティアの言葉が脳裏をよぎった。「面白がっているときの方が怖い」。
「蒸留師。お前は——自分で判断し、自分で動くようになった。それは悪いことではない。だが——」
ヴォルクが窓際に立った。外を見た。
「——俺に相談なく動くということは、お前が俺を信用していないということだ。信用していない人間は——いずれ裏切る」
「裏切るつもりはない」
「つもりがあるかどうかは関係ない。行動が全てだ。——蒸留師、今回は見逃す。次からは——必ず俺に相談しろ。動く前に。お前がどこに行き、誰と会い、何をするか。全て報告しろ」
「……わかった」
「ザハール」
壁際の老人が一歩前に出た。
「蒸留師の新しい拠点の周辺を——見ておけ。守備隊が近づかないように」
「まあ、なんとかなるだろう」
ザハールの声は低く、穏やかだった。だが——その穏やかさが、ナディアの語った戦闘力と結びついたとき、賢治の背中に冷たいものが走った。
この老人が——俺の周辺にいる。
守備隊から守るためだけではない。俺を監視するためでもある。
ヴォルクはセレナだけでは不足だと判断した。ザハールの目も——加えた。
賢治は部屋を出た。
廊下を歩いた。背中にザハールの視線は感じなかった。だが——視線がないことが、逆に怖かった。見ていないのではない。見る必要がないほど——把握しているのだ。
小屋に戻った。藁束の上に座った。蒸留酒の瓶を見た。
メモ帳を開いた。
『第31日目。 定例報告。偽物の件は通った。 ヴォルクの態度が変わった。 「見逃す」「次からは必ず相談しろ」「行動が全てだ」。 ザハールが俺の拠点の周辺を見張る。 セレナ+ザハール。監視が二重になった。 俺は——ヴォルクの信用を失いかけている。 碧瓶会への独断行動。拠点移転。偽情報。 全部——ヴォルクの許可を取っていない。 嘘は三つまで。カティアが言った。 三つ目は——もう使ったのか。 まだか。 数えている余裕がなくなっている。 それが一番——まずい。』
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