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紫の雫(ヴィオラ・ドロップ) ——異世界に転移した薬学者は、毒と薬で裏社会の頂点に立つ —   作者: イロハ
第一部「灰の檻」

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第31話 刃物

***


 新しい拠点に移って五日目。


 ザハールの「巡回」が始まった。


 セレナが報告した。「ザハール殿が、拠点周辺の路地を歩いています。朝と夕方、一日二回。同じルートを通っています」


 賢治は窓から路地を見た。ザハールの姿はなかった。巡回の時間は不規則だ。「朝と夕方」と言っても、来る時間が毎日違う。パターンを読ませない歩き方。


「セレナ。ザハールは——お前が知っている限り、何年ヴォルクの傍にいる」


「わたしが灰の商会に入ったとき、すでにいらっしゃいました。——少なくとも十五年以上だと思います」


「ザハールが戦うところを見たことは」


「一度だけ。——三年前です」


「何があった」


 セレナは一瞬だけ——口ごもった。


「第六環で、ヴォルク様の取引に護衛として同行しました。取引相手が裏切り、伏兵が五人出てきました。わたしが二人を相手にしている間に——ザハール殿が残りの三人を」


「倒したのか」


「三人とも——刃物を持っていました。ザハール殿は素手でした。——十秒で三人が倒れました。殺してはいません。全員、手首か肘の関節を外されていました」


「素手で」


「はい。——わたしは二人を相手にするのに三十秒かかりました。ザハール殿は素手で三人を十秒。——あの方に、わたしは勝てません」


 セレナの声は平坦だった。だが——「勝てません」という言葉に、感情が混じっていなかった。事実の報告。それが逆に——ザハールの異常さを際立たせた。


***


 その日の夕方。


 精製が終わり、小瓶を布に包んでいたとき——路地の奥から声が聞こえた。


 怒鳴り声。男の声。複数。


 賢治は窓から覗いた。


 路地の突き当たりに——男が三人いた。第七環の住民ではない。服が違う。革の上着に、腰にナイフを差している。第六環あたりの荒事師だろう。


 三人が囲んでいるのは——子供だった。八歳くらいの女の子。茶色い髪を二つに結んでいる。顔が汚れていて、服が破けている。


「おい、ガキ。お前のじいさんはどこだ。ザハールっていう爺だよ。知ってるだろ」


 リーザ。


 ザハールの孫。


 賢治の体が固まった。


 三人の男がリーザを囲んでいる。リーザは壁を背にして、口を結んでいる。泣いていない。だが——小さな手が、震えていた。


「答えろよ。じいさんの居場所を教えろ。ヴォルクの用心棒だろ。居場所がわかりゃ——」


 男の一人がリーザの腕を掴もうとした。


 掴めなかった。


 ——音がしなかった。


 気づいたとき、男の腕が弾かれていた。誰かが——男の手首を掴んで、外側にひねっていた。


 ザハールだった。


 いつ来たのかわからなかった。足音がなかった。路地の端にも入口にも——一秒前まで誰もいなかった。なのに——ザハールが、リーザと男の間に立っていた。


 白髪。背が高い。背中が曲がっていない。


 右手で男の手首を掴んでいた。左手は——何もしていない。体の横に下げたまま。


「じいさん——!」


 男が叫んだ。ナイフを抜こうとした。左手がベルトに伸びた。


 ザハールの左手が——動いた。


 賢治の目には、何が起きたかわからなかった。


 ザハールの左手が、男のベルトのナイフに触れた。触れたのか、触れなかったのか。——結果だけが見えた。男のナイフがベルトから外れて、石畳の上に落ちた。からん、と乾いた音。


 同時に——男の手首がねじれた。骨は折れていない。だが関節が外れた。男が膝をついた。悲鳴は出なかった。痛みが神経を伝わる前に——体が崩れた。


 残り二人が動いた。同時にナイフを抜いた。


 一人が正面から突いた。もう一人が横から切りつけた。


 ザハールは——一歩も動かなかった。


 正面の突きを——体の角度だけで避けた。上半身を五度傾けた。刃先が外套を掠めた。掠めただけ。


 横からの斬撃を——左手で受けた。


 受けた。素手で。


 刃を——掴んだのではない。刃の腹を——手の甲で弾いた。金属が金属にぶつかるような音がした。だが——ザハールの手は素手だ。手袋すらしていない。


 弾かれたナイフが宙を舞った。ザハールの右手が——正面の男の顎を打った。掌底。音がした。骨が当たる鈍い音。男がその場に崩れ落ちた。


 残りの一人が——ナイフを失って後ずさった。


 ザハールが——初めて声を出した。


「帰れ」


 一言。低い声。穏やかな声。


 男は走って逃げた。倒れた二人を置いて。


 ザハールがリーザの前にしゃがんだ。大きな手で——小さな頭を撫でた。


「大丈夫か」


「……うん。大丈夫」


「怪我はないか」


「ない」


「そうか。——まあ、なんとかなったな」


 まあ、なんとかなった。


 三人の武装した男を、十秒以内に、素手で無力化した老人が——「なんとかなった」と言った。


 賢治は窓の陰から——全部見ていた。


 手が震えていた。蒸留酒のせいではない。アルコールが切れたせいでもない。


 恐怖だ。


 あの老人が——ヴォルクの傍にいる。常に。二十四時間。


 セレナが「勝てない」と言った意味が——わかった。ナディアが「化け物」と言った意味が——わかった。


 セレナは強い。理刻を持っている。戦闘訓練を受けている。——それでも「勝てない」。


 あの老人の動きは——速さではなかった。速さなら若い戦闘員の方が上かもしれない。ザハールの動きは——「正確さ」だった。一切の無駄がない。最小限の動作で、最大の効果。四十年間の実戦で磨き上げた——殺すための技術。


 今回は殺さなかった。関節を外しただけだ。だが——殺す気なら、三人とも死んでいた。


 賢治は蒸留酒の瓶を取った。一口飲んだ。手が——まだ震えている。もう一口。まだ。もう一口。


 七口で——止まった。


 五口が七口に増えた。


***


 翌朝。


 ナディアが来た。


「佐伯。偽情報が効いてる。——グレゴールが第四環に捜査員を派遣した。第七環への巡回が減ってる」


「一時的だろう」


「一時的だ。長くて二週間。第四環で何も見つからなければ——戻ってくる。その間に——」


「何をする」


「ソフィアから連絡があった。——会いたいと」


「ソフィア? 何の用だ」


「知らない。赤牙の元副長が、蒸留師に用があるらしい。——場所は第六環の酒場。今夜」


「……ヴォルクに報告するか」


「する。——報告しない理由はないだろう。ソフィアとの接触は前にもあった。ヴォルクは知っている」


「ああ。——報告しろ」


 賢治はセレナを見た。


「セレナ。ソフィアとの面会を——ヴォルクに報告してくれ」


「承知しました。——ザハール殿にも伝えます」


「ザハールにも?」


「はい。ザハール殿は——蒸留師殿の外出を全て把握するよう、ヴォルク様から指示を受けています」


 セレナの碧い目が——賢治を見ていた。忠告だった。「あなたの行動は全て監視されています」という忠告。


「……わかった。伝えろ」


***


 夜。第六環の酒場。


 ソフィアが奥の席に座っていた。黒髪ロングストレート。切れ長の目。肩に刀傷。蒸留酒のグラスを手に持って、入ってきた賢治を見上げた。


「座れ」


「何の用だ」


「用がなけりゃ呼ばないよ。——座れって」


 賢治は座った。セレナが壁際に立った。


「護衛つきか。——まあいい。手短に話す」


 ソフィアがグラスを置いた。


「蒸留師。あんた——ヴォルクの信用を失いかけてるだろ」


 賢治の目が——細くなった。


「なぜそう思う」


「ヴォルクがザハールをあんたの周辺に配置した。——あたしの耳にもそれは入ってる。ザハールが動くのは——ヴォルクが本気のときだけだ」


「……何が言いたい」


「あんたに教えたい情報がある。——碧瓶会のハインツが、守備隊のグレゴールと接触した」


 賢治の心臓が——跳ねた。


「接触? 碧瓶会と守備隊が——」


「商人の嗅覚ってやつだよ。ハインツはあんたが守備隊に追われていることを知っている。碧瓶会はあんたの引き抜きに失敗した。——なら次の手は、守備隊に蒸留師の情報を売ることだ」


「情報を——売る。何の情報を」


「知らない。だが——ハインツはあんたの顔を知っている。蒸留師の顔を、グレゴールに教えることができる」


 碧瓶会のハインツが——グレゴールに蒸留師の顔を教える。


 偽情報で第四環に逸らしたグレゴールが——蒸留師の顔の情報を得たら。第四環で「この顔の男を知らないか」と聞き回る。当然、見つからない。だが——第七環に戻ったとき、同じ顔を探す。


 そのとき——前に小屋で会った「病人」の顔を思い出す。


「……まずいな」


「まずいだろうな。——勘違いするなよ。あたしはあんたにドラガンを殺された恨みをまだ忘れてない。だが——あんたが潰れると、碧瓶会が裏社会を独占する。それはあたしにとっても都合が悪い。だからこれは取引だ。情報をやる。代わりに——あんたがこの先も碧瓶会の対抗勢力でいろ」


 ソフィアがグラスを取った。一気に飲み干した。


「蒸留師。——あんた、今すぐ顔を変えるか、この街を出るか、二つに一つだ」


「どっちもできない」


「なら——三つ目を考えろ。あんたはいつもそうだろ。二つしかない選択肢の三つ目を見つける。——あたしはもう行く。これ以上関わると、あたしもヴォルクに目をつけられる」


 ソフィアが立ち上がった。外套を羽織った。


 入口で——振り返った。切れ長の目が、賢治を見下ろした。


「一つだけ。——あんたがユーリにやったこと、あたしは知ってる。忘れてない」


 ソフィアが消えた。


 賢治は空のグラスを見つめた。


 ハインツが守備隊に情報を売る。蒸留師の顔が——グレゴールに渡る。


 碧瓶会との取引は——裏目に出た。調合を教えて恩を売ったつもりだったが——ハインツはそんな恩義には縛られない。商人だ。利益になることをする。蒸留師の情報を守備隊に売れば——碧瓶会の立場は安泰になる。


「セレナ。——今の話は」


「聞いていました」


「ヴォルクに報告するか」


「……はい。報告します」


 セレナの声が——わずかに揺れた。


 報告する。ソフィアとの面会内容を全て報告する。ハインツが守備隊と接触したことを報告する。蒸留師の顔がグレゴールに渡る可能性を報告する。


 ヴォルクが——それを聞いたら。


 蒸留師の顔が守備隊に知られる。守備隊が蒸留師を捕まえる。蒸留師が捕まれば——灰の商会に繋がる。


 ヴォルクにとって——蒸留師が捕まることは、灰の商会の崩壊を意味する。


 蒸留師が捕まる前に——蒸留師を消すか。あるいは——蒸留師を守り切るか。


 ヴォルクがどちらを選ぶか——賢治にはわからなかった。


 小屋に戻った。蒸留酒を飲んだ。七口。震えが止まった。


 メモ帳を開いた。


 『第33日目。   ソフィアからの情報。   ハインツが守備隊のグレゴールと接触。   蒸留師の顔が守備隊に渡る可能性。   偽情報は一時的にしか効かない。   顔を変えるか、街を出るか。   どちらもできない。   三つ目は——まだ見えない。   ヴォルクが俺を「リスク」と判断したら——   どうなる。   わからない。   わからないのが——一番怖い。』


***

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