第32話 口軽
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ハインツが守備隊に蒸留師の顔を売る。
ソフィアの情報が正しいなら——時間がない。
賢治はセレナを見た。セレナは昨夜の面会内容を全てヴォルクに報告する。ハインツと守備隊の接触も含めて。ヴォルクがそれを聞いたら——ヴォルクがどう動くかは読めない。
だが——一つだけ読めることがある。ヴォルクに任せたら、ヴォルクの方法で解決する。ヴォルクの方法は——暴力か、取引か、排除か。どれにしても——賢治の手の届かない場所で決まる。
それは——まずい。
「セレナ。昨夜の面会のことは——いつヴォルクに報告する」
「今日中に」
「少し待ってくれ」
セレナの碧い目が——賢治を見た。
「……蒸留師殿。報告を遅らせろということですか」
「遅らせるんじゃない。——報告の前に、俺が碧瓶会に行く。ハインツに直接確認する。ソフィアの情報が本当かどうか——確かめてからの方が、報告の精度が上がる」
「ソフィアの情報が偽であった場合——ヴォルク様を無駄に動かすことになります。確認してからの方が合理的です。——ただし、蒸留師殿が碧瓶会に行くこと自体を報告する必要があります」
「それは構わない。碧瓶会への訪問は報告しろ。面会の内容は——確認が取れてから報告しろ」
「……承知しました」
セレナの碧い目が——三秒間、賢治を見ていた。何を考えているのかはわからなかった。だが——「合理的」という言葉を使ったのは、セレナ自身の判断だ。セレナは賢治の言い分に一理あると認めた上で——報告の順序を調整した。
ヴォルクへの報告を操作しているわけではない。——だが、報告の順序を変えるだけで、情報の意味は変わる。
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碧瓶会の三番館。三度目の訪問。
ハインツの部屋に通された。だが——ハインツはいなかった。
代わりに、エーリカが机の前に座っていた。黒髪を後ろで束ねた二十代の女。大きな目。口元の笑みは——今日は消えていた。
「蒸留師さん。——ハインツ副長は外出中です」
「いつ戻る」
「わかりません。——今朝早く出ていきました。第三環に行くと」
「第三環?」
「はい。——蒸留師さん。一つ、お伝えしたいことがあります」
エーリカが立ち上がった。扉を閉めた。声を落とした。
「昨日——ハインツ副長が、知らない男と会っていました。三番館の別室で」
「知らない男」
「背が高くて、黒髪を短く刈り込んでいて、顎が角張っている男です。——わたし、お茶を出しに行ったんです。そしたら——ハインツ副長が怒って追い出されました。『入るなと言っただろう』って」
黒髪。短く刈り込み。角張った顎。
——グレゴール。
「エーリカ。その男と——ハインツは何を話していた」
「聞こえませんでした。扉の外に追い出されたので。——ただ、お茶を置くとき、一瞬だけ聞こえた言葉があります」
「何だ」
「『蒸留師の顔を知っている』。——ハインツ副長がそう言いました」
——確定した。
ソフィアの情報は正しかった。ハインツはグレゴールに蒸留師の顔を売ろうとしている。
「エーリカ。——お前はなぜ、これを俺に教える」
エーリカの笑みが——戻った。だが、いつもの営業用の笑みではなかった。
「蒸留師さんが教えてくれた調合で——蒼月の雫で死ぬ人はいなくなりました。マルコみたいな人は——もう出ません。それは——わたしにとって、大きなことです」
「それだけか」
「それだけです。——わたしは碧瓶会の薬師です。ハインツ副長の部下です。裏切るつもりはありません。ただ——蒸留師さんが捕まったら、調合のことを教えてくれる人がいなくなります。それは困ります」
利害。エーリカも——利害で動いている。恩義ではなく、自分の利益。
この世界では——それが普通なのだ。
「エーリカ。ハインツが守備隊に渡したのは——俺の顔の特徴だけか。名前も渡したか」
「名前は——聞こえませんでした。顔の話だけだったと思います」
「わかった。——エーリカ、ハインツにはこの話をするな」
「はい。——口が軽いって言われてますけど、黙っていられるときは黙れます」
エーリカが笑った。口が軽い女が——黙ると決めた。それがどこまで持つかはわからない。だが、今はこれしかない。
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三番館を出た。
石畳の通りを歩きながら、賢治は考えた。
ハインツが守備隊に売ったのは蒸留師の顔の特徴。名前はまだ。
グレゴールが賢治の顔の特徴を手に入れたら——第七環に戻ったとき、前に会った「病人」と照合する。一致すれば——小屋を特定される。
顔を変えることはできない。理刻で分子操作はできるが、人間の顔の骨格を変える技術は——ない。
なら——グレゴールに顔の情報が渡る前に、ハインツを止めるか。
止める方法は。
脅すか。——碧瓶会の副長を脅す力はない。
買収するか。——金がない。
ハインツにとって蒸留師の顔を売るより得になる取引を——持ちかけるか。
何を差し出す。もう調合は教えた。蒸留師の技術は——理刻がなければ真似できない。差し出せるものが——もうない。
「……詰んでるな」
セレナが隣を歩いている。
「蒸留師殿。——この件は、ヴォルク様に報告すべきだと思います」
「ああ。——報告する。全部報告する。ハインツが守備隊と接触していること。蒸留師の顔を売ろうとしていること。——ヴォルクに任せる」
自分で解決できないなら——ヴォルクに任せるしかない。
それが——賢治にとって一番嫌な選択肢だった。ヴォルクに借りを作る。ヴォルクに依存する。ヴォルクの方法で——解決される。
だが——他に手がない。
「セレナ。報告しろ。全部」
「承知しました」
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——第二環。同日。
翔太の視点。
グレゴール調査官が——訓練場に来た。
二度目だった。前回は見習い全員への伝達だったが、今回は——違った。グレゴールがバルドと二人で話している。訓練場の端。声は聞こえない。だが——バルドの表情が、いつもと違っていた。
バルドは感情を出さない男だ。訓練中に叱ることはあっても、顔色は変わらない。だが今——バルドの眉間にしわが寄っていた。困惑。あるいは——警戒。
グレゴールが話し終えた。バルドが頷いた。グレゴールが訓練場を去った。
バルドが——翔太を見た。
一瞬だけ。すぐに視線を逸らした。
だが——翔太は見た。バルドの目が、一瞬だけ翔太に向いたことを。
午後の訓練後、バルドが翔太を呼んだ。
「佐伯。——少し話がある。執務室に来い」
執務棟の二階。バルドの部屋。前に蓮の相談をしに来た部屋だ。
バルドが椅子に座った。翔太は立ったまま。
「佐伯。——お前に聞く。正直に答えろ」
「はい」
「お前の父親は——今、どこにいる」
翔太の指先が——冷たくなった。
「……知りません。はぐれました」
「はぐれた。——いつだ」
「王都に入ってすぐです。人が多くて——」
「佐伯。俺は正直に答えろと言った」
バルドの声が——低くなった。怒りではない。重さだった。
「グレゴール調査官から——情報が入った。蒸留師と呼ばれる人物の捜査に関する情報だ。——蒸留師は転移者である可能性が高い。理刻を使う。第七環を拠点にしている」
翔太は黙った。
「佐伯。お前は転移者だ。お前の父親も転移者だ。——父親の行方がわからないと言ったな。本当にわからないのか」
「……わかりません」
「佐伯。俺はお前の味方だ。お前がここで正直に話せば——守れることがある。だが嘘をつけば——守れなくなる」
翔太は——バルドの目を見た。
バルドの目は鋭い。だが——嘘を暴こうとする目ではなかった。守ろうとしている目だった。この男は——本当に翔太を守ろうとしている。
だが——話せない。
父さんが第七環にいると言えば——守備隊が動く。グレゴールが第七環に行く。父さんが見つかる。
「……バルド教官。——父のことは、本当にわかりません。ただ——」
「ただ?」
「父は——悪い人間じゃありません」
バルドは三秒間、翔太を見た。
「……わかった。——今日はこれでいい。戻れ」
翔太は部屋を出た。
廊下で——蓮が壁にもたれて立っていた。
「バルドに呼ばれた?」
「……ああ」
「何聞かれた?」
「お前には関係ない」
「まあ——そうだね」
蓮が薄く笑った。前髪の下の目が——いつもの観察の目ではなかった。何かを——迷っている目だった。
「翔太。——一個だけ言っとく」
「何だ」
「父さんが——バルドにも聞いてる。翔太の父親のことを。バルドが何を知ってるか確認しろって」
「……黒木が」
「うん。——だからバルドが翔太に聞いたのは、バルド自身の判断じゃないかもしれない。父さんに言われたから聞いたのかもしれない。——わかんないけど」
蓮が壁から背を離した。
「翔太。——気をつけな」
蓮が廊下を去っていった。
翔太は——動けなかった。
黒木がバルドにも圧力をかけている。バルドは翔太を守ろうとしているのか、それとも黒木に従って情報を引き出そうとしているのか。
——どっちなんだ。
わからなかった。
蓮が教えてくれた。だが——蓮が教えてくれた理由もわからなかった。黒木の指示か。蓮自身の判断か。
誰を信じていいのか——わからなくなっていた。
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