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紫の雫(ヴィオラ・ドロップ) ——異世界に転移した薬学者は、毒と薬で裏社会の頂点に立つ —   作者: イロハ
第一部「灰の檻」

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第32話 口軽

***


 ハインツが守備隊に蒸留師の顔を売る。


 ソフィアの情報が正しいなら——時間がない。


 賢治はセレナを見た。セレナは昨夜の面会内容を全てヴォルクに報告する。ハインツと守備隊の接触も含めて。ヴォルクがそれを聞いたら——ヴォルクがどう動くかは読めない。


 だが——一つだけ読めることがある。ヴォルクに任せたら、ヴォルクの方法で解決する。ヴォルクの方法は——暴力か、取引か、排除か。どれにしても——賢治の手の届かない場所で決まる。


 それは——まずい。


「セレナ。昨夜の面会のことは——いつヴォルクに報告する」


「今日中に」


「少し待ってくれ」


 セレナの碧い目が——賢治を見た。


「……蒸留師殿。報告を遅らせろということですか」


「遅らせるんじゃない。——報告の前に、俺が碧瓶会に行く。ハインツに直接確認する。ソフィアの情報が本当かどうか——確かめてからの方が、報告の精度が上がる」


「ソフィアの情報が偽であった場合——ヴォルク様を無駄に動かすことになります。確認してからの方が合理的です。——ただし、蒸留師殿が碧瓶会に行くこと自体を報告する必要があります」


「それは構わない。碧瓶会への訪問は報告しろ。面会の内容は——確認が取れてから報告しろ」


「……承知しました」


 セレナの碧い目が——三秒間、賢治を見ていた。何を考えているのかはわからなかった。だが——「合理的」という言葉を使ったのは、セレナ自身の判断だ。セレナは賢治の言い分に一理あると認めた上で——報告の順序を調整した。


 ヴォルクへの報告を操作しているわけではない。——だが、報告の順序を変えるだけで、情報の意味は変わる。


***


 碧瓶会の三番館。三度目の訪問。


 ハインツの部屋に通された。だが——ハインツはいなかった。


 代わりに、エーリカが机の前に座っていた。黒髪を後ろで束ねた二十代の女。大きな目。口元の笑みは——今日は消えていた。


「蒸留師さん。——ハインツ副長は外出中です」


「いつ戻る」


「わかりません。——今朝早く出ていきました。第三環に行くと」


「第三環?」


「はい。——蒸留師さん。一つ、お伝えしたいことがあります」


 エーリカが立ち上がった。扉を閉めた。声を落とした。


「昨日——ハインツ副長が、知らない男と会っていました。三番館の別室で」


「知らない男」


「背が高くて、黒髪を短く刈り込んでいて、顎が角張っている男です。——わたし、お茶を出しに行ったんです。そしたら——ハインツ副長が怒って追い出されました。『入るなと言っただろう』って」


 黒髪。短く刈り込み。角張った顎。


 ——グレゴール。


「エーリカ。その男と——ハインツは何を話していた」


「聞こえませんでした。扉の外に追い出されたので。——ただ、お茶を置くとき、一瞬だけ聞こえた言葉があります」


「何だ」


「『蒸留師の顔を知っている』。——ハインツ副長がそう言いました」


 ——確定した。


 ソフィアの情報は正しかった。ハインツはグレゴールに蒸留師の顔を売ろうとしている。


「エーリカ。——お前はなぜ、これを俺に教える」


 エーリカの笑みが——戻った。だが、いつもの営業用の笑みではなかった。


「蒸留師さんが教えてくれた調合で——蒼月の雫で死ぬ人はいなくなりました。マルコみたいな人は——もう出ません。それは——わたしにとって、大きなことです」


「それだけか」


「それだけです。——わたしは碧瓶会の薬師です。ハインツ副長の部下です。裏切るつもりはありません。ただ——蒸留師さんが捕まったら、調合のことを教えてくれる人がいなくなります。それは困ります」


 利害。エーリカも——利害で動いている。恩義ではなく、自分の利益。


 この世界では——それが普通なのだ。


「エーリカ。ハインツが守備隊に渡したのは——俺の顔の特徴だけか。名前も渡したか」


「名前は——聞こえませんでした。顔の話だけだったと思います」


「わかった。——エーリカ、ハインツにはこの話をするな」


「はい。——口が軽いって言われてますけど、黙っていられるときは黙れます」


 エーリカが笑った。口が軽い女が——黙ると決めた。それがどこまで持つかはわからない。だが、今はこれしかない。


***


 三番館を出た。


 石畳の通りを歩きながら、賢治は考えた。


 ハインツが守備隊に売ったのは蒸留師の顔の特徴。名前はまだ。


 グレゴールが賢治の顔の特徴を手に入れたら——第七環に戻ったとき、前に会った「病人」と照合する。一致すれば——小屋を特定される。


 顔を変えることはできない。理刻で分子操作はできるが、人間の顔の骨格を変える技術は——ない。


 なら——グレゴールに顔の情報が渡る前に、ハインツを止めるか。


 止める方法は。


 脅すか。——碧瓶会の副長を脅す力はない。


 買収するか。——金がない。


 ハインツにとって蒸留師の顔を売るより得になる取引を——持ちかけるか。


 何を差し出す。もう調合は教えた。蒸留師の技術は——理刻がなければ真似できない。差し出せるものが——もうない。


「……詰んでるな」


 セレナが隣を歩いている。


「蒸留師殿。——この件は、ヴォルク様に報告すべきだと思います」


「ああ。——報告する。全部報告する。ハインツが守備隊と接触していること。蒸留師の顔を売ろうとしていること。——ヴォルクに任せる」


 自分で解決できないなら——ヴォルクに任せるしかない。


 それが——賢治にとって一番嫌な選択肢だった。ヴォルクに借りを作る。ヴォルクに依存する。ヴォルクの方法で——解決される。


 だが——他に手がない。


「セレナ。報告しろ。全部」


「承知しました」


***


 ——第二環。同日。


 翔太の視点。


 グレゴール調査官が——訓練場に来た。


 二度目だった。前回は見習い全員への伝達だったが、今回は——違った。グレゴールがバルドと二人で話している。訓練場の端。声は聞こえない。だが——バルドの表情が、いつもと違っていた。


 バルドは感情を出さない男だ。訓練中に叱ることはあっても、顔色は変わらない。だが今——バルドの眉間にしわが寄っていた。困惑。あるいは——警戒。


 グレゴールが話し終えた。バルドが頷いた。グレゴールが訓練場を去った。


 バルドが——翔太を見た。


 一瞬だけ。すぐに視線を逸らした。


 だが——翔太は見た。バルドの目が、一瞬だけ翔太に向いたことを。


 午後の訓練後、バルドが翔太を呼んだ。


「佐伯。——少し話がある。執務室に来い」


 執務棟の二階。バルドの部屋。前に蓮の相談をしに来た部屋だ。


 バルドが椅子に座った。翔太は立ったまま。


「佐伯。——お前に聞く。正直に答えろ」


「はい」


「お前の父親は——今、どこにいる」


 翔太の指先が——冷たくなった。


「……知りません。はぐれました」


「はぐれた。——いつだ」


「王都に入ってすぐです。人が多くて——」


「佐伯。俺は正直に答えろと言った」


 バルドの声が——低くなった。怒りではない。重さだった。


「グレゴール調査官から——情報が入った。蒸留師と呼ばれる人物の捜査に関する情報だ。——蒸留師は転移者である可能性が高い。理刻を使う。第七環を拠点にしている」


 翔太は黙った。


「佐伯。お前は転移者だ。お前の父親も転移者だ。——父親の行方がわからないと言ったな。本当にわからないのか」


「……わかりません」


「佐伯。俺はお前の味方だ。お前がここで正直に話せば——守れることがある。だが嘘をつけば——守れなくなる」


 翔太は——バルドの目を見た。


 バルドの目は鋭い。だが——嘘を暴こうとする目ではなかった。守ろうとしている目だった。この男は——本当に翔太を守ろうとしている。


 だが——話せない。


 父さんが第七環にいると言えば——守備隊が動く。グレゴールが第七環に行く。父さんが見つかる。


「……バルド教官。——父のことは、本当にわかりません。ただ——」


「ただ?」


「父は——悪い人間じゃありません」


 バルドは三秒間、翔太を見た。


「……わかった。——今日はこれでいい。戻れ」


 翔太は部屋を出た。


 廊下で——蓮が壁にもたれて立っていた。


「バルドに呼ばれた?」


「……ああ」


「何聞かれた?」


「お前には関係ない」


「まあ——そうだね」


 蓮が薄く笑った。前髪の下の目が——いつもの観察の目ではなかった。何かを——迷っている目だった。


「翔太。——一個だけ言っとく」


「何だ」


「父さんが——バルドにも聞いてる。翔太の父親のことを。バルドが何を知ってるか確認しろって」


「……黒木が」


「うん。——だからバルドが翔太に聞いたのは、バルド自身の判断じゃないかもしれない。父さんに言われたから聞いたのかもしれない。——わかんないけど」


 蓮が壁から背を離した。


「翔太。——気をつけな」


 蓮が廊下を去っていった。


 翔太は——動けなかった。


 黒木がバルドにも圧力をかけている。バルドは翔太を守ろうとしているのか、それとも黒木に従って情報を引き出そうとしているのか。


 ——どっちなんだ。


 わからなかった。


 蓮が教えてくれた。だが——蓮が教えてくれた理由もわからなかった。黒木の指示か。蓮自身の判断か。


 誰を信じていいのか——わからなくなっていた。


***

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