第33話 解決
***
ヴォルクの返事は——翌朝に来た。
セレナが伝えた。
「ヴォルク様からの指示です。碧瓶会のハインツの件は——処理します。蒸留師殿は何もしなくていい、と」
「処理?」
「それ以上は聞いていません」
処理。ヴォルクの「処理」が何を意味するか——賢治にはわからなかった。だが——嫌な予感がした。
「セレナ。『処理』というのは——ハインツとの交渉か。それとも——」
「わかりません。——ヴォルク様は、詳細を伝えていません」
セレナの碧い目が——わずかに曇っていた。セレナも「処理」の意味を察している。だが口にしない。
***
——前夜。第五環。碧瓶会三番館。
イレーナの視点。
あーあ。めんどくさ。
イレーナは三番館の裏路地の屋根の上で、猫のように丸まっていた。銀髪のハーフアップが夜風に揺れている。眠そうな半目で——三番館の二階の窓を見ている。
ヴォルクからの指示は簡潔だった。「碧瓶会のハインツを殺せ。痕跡を残すな。今夜中に」
今夜中に。——もう少し余裕くれないかな。せめて明日の昼とか。夜は眠いんだけど。
ハインツの部屋は二階の奥。窓が一つ。窓は閉まっている。鍵がかかっているかどうかは——関係ない。
イレーナは欠伸をした。大きく口を開けて、涙が出るほどの欠伸。それから——半目のまま、右手を屋根の上にぺたりと置いた。
影が——動いた。
イレーナの体の下に伸びる影が——屋根の縁を這い、壁を伝い、三番館の外壁を下へ。影は光のない場所を選んで流れていく。月明かりが当たる場所は避け、庇の影、窓枠の影、排水管の影を辿って——二階の窓の下に到達した。
窓の隙間。木枠と石壁の間の、髪の毛一本分の隙間。影はそこを通った。影に厚みはない。隙間さえあれば——どこにでも入れる。
部屋の中。
ハインツが机に向かっていた。蝋燭の光。赤毛が揺れている。帳簿を開いて、ペンを走らせている。指先で机を叩く癖。とんとん、とんとん。
イレーナの影が——部屋の床を這った。蝋燭の光が作るハインツの影に——近づいていく。
ハインツの影。机の上に伸びる、長い影。
イレーナの影が——ハインツの影に、触れた。
繋がった。
イレーナの理刻——『黒幕』。自分の影を伸ばし、対象の影と繋げる。繋がった瞬間——対象の体を、影を通じて拘束できる。
だが今夜は——拘束ではない。
イレーナは半目のまま、右手の指先に力を入れた。
影が——ハインツの影の中を、這い上がった。床から。足元から。膝。腰。胸。——首。
ハインツのペンが止まった。
息が——吸えなかった。
「——なん、だ——」
ハインツの手が首に伸びた。何も巻きついていない。紐もない。手もない。だが——喉が、締まっている。影が——喉の内側から、気道を塞いでいた。
ハインツの目が見開かれた。赤毛が揺れた。椅子から立ち上がろうとした。足が——動かなかった。影が、足首を床に縫い止めていた。
「誰——だ——」
声が出ない。空気が通らない。ハインツの顔が赤くなり——紫に変わっていく。
ハインツの手が帳簿を掴んだ。投げようとした。だが——腕が途中で止まった。影が肘を押さえている。
ハインツの目が——蝋燭を見た。蝋燭の光。影を作る光。光がなければ影は——
ハインツの左手が——震えながら蝋燭に伸びた。蝋燭を倒せば——影が消える。光がなければ——
指先が蝋燭に触れた。
蝋燭が——倒れなかった。影が蝋燭の根元を押さえていた。
ハインツの目から——涙が流れた。窒息の涙。恐怖の涙ではない。体が酸素を求めて出す、生理的な涙。
十秒。二十秒。
ハインツの体が——前のめりに倒れた。机の上に突っ伏した。帳簿の上に。ペンが転がった。
三十秒。
呼吸が止まった。
四十秒。
心臓が止まった。
イレーナの影が——ハインツの影から離れた。床を這い、窓の隙間を通り、外壁を上がり、屋根の上に戻ってきた。
イレーナは欠伸をした。
「……はー。終わり」
屋根の上で伸びをした。猫みたいに背中を丸めて、また伸ばした。
眠そうな半目で——三番館の窓を見た。二階の窓の向こうで、蝋燭がまだ燃えている。ハインツが机に突っ伏している。帳簿を書いていて——疲れて眠ってしまったように見える。
外傷なし。毒なし。窒息の痕跡も——影が気道を塞いだだけだから、首に指の跡は残らない。
「痕跡残すなって言われたけど……まあ、いいでしょ。完璧完璧」
イレーナは屋根から飛び降りた。着地は無音。猫のように。
路地を歩きながら——また欠伸をした。
「帰って寝よ……」
***
——翌朝。第七環。
賢治の視点。
賢治は小屋の中で精製を続けた。蒸留酒を七口。手の震えが止まった。夜哭き菫の分離。一本目。二本目。
三本目の途中で——ナディアが飛び込んできた。
扉を蹴り開けるように入ってきた。息が上がっている。額に汗が浮いている。走ってきたのだ。
「佐伯——!」
「どうした」
「ハインツが——死んだ」
賢治の手が——止まった。理刻が切れた。皿の上の液滴が——混ざった。精製が台無しになった。
「……死んだ?」
「今朝——碧瓶会の三番館で見つかった。自室の机に突っ伏した状態で。——死因は不明。外傷なし。毒の痕跡もなし。まるで——眠ったまま死んだように」
外傷なし。毒の痕跡なし。
——俺と同じ手口だ。
城島を殺したときと。不整脈誘発剤。無味無臭。水に溶ける。投与後六時間で心臓が止まる。検死しても——この世界の技術では検出できない。
だが——あれは賢治が作った毒だ。賢治以外に作れる人間は——
「ナディア。ハインツを殺したのは——ヴォルクか」
「わからない。だが——タイミングが良すぎる。あんたが守備隊との接触を報告した翌朝に死んだ」
「ヴォルクが——俺の毒を使ったのか」
「あんたが納品したヴィオラ・ドロップの中に——不整脈誘発剤の成分が含まれているか?」
「含まれていない。VDと不整脈誘発剤は別物だ。原料は同じ夜哭き菫だが——精製工程が全く違う」
「なら——ヴォルクは別の手段を持っている。あんたの毒じゃない」
別の手段。
賢治はヴォルクの手駒を思い浮かべた。マーラ。イレーナ。カティア。ザハール。——外傷なし、毒の痕跡なしで人を殺せる手駒。
「……イレーナか」
「イレーナ?」
「イレーナの理刻は影操作だ。——影を使って何ができるか、俺は詳しく知らない。だが——外傷なしで殺すなら、物理的な手段じゃない。理刻による殺害だ」
ナディアは壁にもたれた。
「……ヴォルクは——あんたの報告を受けて、一晩でハインツを殺した。あんたが何もしなくていいと言った。——言った通りだ。何もしなくてよかった。ヴォルクが全部——処理した」
処理した。
ハインツは商人だった。計算高く、合理的で、笑顔の裏で全てを計算していた。碧瓶会の副長。第五環の裏社会で十年以上生き延びてきた男。
——一晩で消された。
「……碧瓶会は——どう動く」
「わからない。ハインツが死んで、副長の座が空いた。碧瓶会のトップはオーレン——あの老人だ。オーレンがどう判断するか。ハインツの死を——事故と見るか、殺しと見るか」
「殺しと見たら——灰の商会との関係が壊れる」
「壊れるどころの話じゃない。碧瓶会がヴォルクに報復する可能性がある。——碧瓶会は合法組織だが、裏では傭兵を雇ってる。本気でやり合えば——」
「戦争になる」
「ああ。——佐伯。あんたが報告したから、ヴォルクが動いた。ハインツが死んだ。碧瓶会が怒れば戦争になる。——全部、あんたの報告から始まってる」
賢治は黙った。
そうだ。俺が報告した。ハインツが守備隊と接触していると。それを聞いたヴォルクが——最も効率的な方法で問題を排除した。
俺は——自分で解決できなかったからヴォルクに頼った。ヴォルクは人を殺して解決した。
俺の報告が——人を殺した。
「……ナディア。エーリカは」
「エーリカ? 碧瓶会の薬師の」
「ああ。ハインツが死んだ今——エーリカは無事か」
「知らない。——佐伯。あんた今、碧瓶会の薬師の心配をしてる場合じゃないだろ」
「エーリカは俺に情報をくれた。ハインツが守備隊と会っていたことを教えてくれた。もし碧瓶会が——ハインツの死の原因を調べるなら、エーリカが疑われる可能性がある」
「エーリカが——あんたに情報を流したと」
「ああ。ハインツに来客があったとき、お茶を出しに行って追い出された。それを俺に話した。——碧瓶会がその時系列を調べれば、エーリカが外部に情報を漏らしたと——」
「……あんた。その話は——ヴォルクに言ったのか」
「言っていない。エーリカのことは——セレナにも報告していない」
ナディアの目が——光った。
「言ってない。——つまりあんたは、碧瓶会の中に独自の情報源を持っていることを——ヴォルクに隠している」
「……ああ」
「嘘が——何個目だ、佐伯」
賢治は答えなかった。
嘘の数を——もう数えていなかった。
***
夕方。
セレナがヴォルクからの伝言を持ってきた。
「ヴォルク様からです。——碧瓶会の件は解決した。蒸留師の顔の情報は守備隊に渡っていない。以上」
「……ヴォルクは、ハインツが死んだことに——何か言っていたか」
「いいえ。——『解決した』とだけ」
解決した。
人を一人殺して——「解決した」。
賢治は藁束の上に座った。メモ帳を開いた。
『第35日目。 ハインツが死んだ。 俺の報告が原因だ。 ヴォルクに頼った。ヴォルクが殺した。 俺は——自分の手を汚さなかった。 だが——俺の言葉が殺した。 城島は俺が直接殺した。ユーリも俺が直接殺した。 ハインツは——俺の言葉がヴォルクの手を動かして殺した。 どちらが重いのか。 わからない。 わからないのが——一番怖い。 エーリカのことはヴォルクに言っていない。 碧瓶会に独自の情報源を持っていることを隠している。 カティアが言った。嘘は三つまで。 もう三つを超えている。 次にヴォルクが気づいたら——』
ペンが——止まった。
「次にヴォルクが気づいたら」の続きを——書けなかった。
***




