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紫の雫(ヴィオラ・ドロップ) ——異世界に転移した薬学者は、毒と薬で裏社会の頂点に立つ —   作者: イロハ
第一部「灰の檻」

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第34話 雷光

***


 ——第二環。王宮守備隊訓練場。


 翔太の視点。


 その日の訓練は——中止になった。


 朝の集合で、バルドが告げた。「今日は訓練場を上位騎士に譲る。見習いは観覧席で見学しろ」


 見習い四十二名が訓練場の外周に設けられた石段に座った。翔太は後列。蓮が——いつもと違い、前列に座っていた。前のめりになっている。薄笑いが消えて——目が光っていた。


「翔太。——前に来なよ。これ、見ないと損だよ」


 蓮が振り返って言った。声が——いつもの軽さとは違った。興奮を隠しきれていない。


「何があるんだ」


「グランツだよ。——グランツ卿の演習がある」


 グランツ。名前は聞いたことがある。王都守備隊第一部——外壁防衛を統括する騎士。上位第一等級の理刻使い。


 翔太は前列に移った。


 訓練場に——男が立っていた。


 大柄だった。百九十センチはある。だが重くない。大型の猛獣のような体つき。黒髪を後ろで無造作に束ね、彫りの深い顔に——暗い金色の目。


 白銀の甲冑をまとっている。甲冑の右腕に——古い焼痕が走っていた。雷の形をした焼痕。自分の力で焼けた痕だと、後でバルドが教えてくれた。


 グランツの向かいに——訓練用の標的が並んでいた。石の柱が五本。高さ三メートル。太さは大人の胴回りほど。


 グランツが——剣を抜いた。


 片手剣。刃渡り八十センチほど。特別な剣には見えなかった。だが——グランツが剣を握った瞬間、空気が変わった。


 翔太の腕の毛が——逆立った。静電気。訓練場の空気が——帯電し始めている。


 蓮が隣で呟いた。


「来るよ——」


 グランツが——踏み込んだ。


 翔太の目には——何も見えなかった。


 グランツの体が消えた。消えたのではない。速すぎて——目が追えなかった。


 音が遅れて来た。


 ドン。という衝撃音ではなかった。バリッ、という——雷鳴に似た、空気が裂ける音。


 翔太が音に反応して目を向けたとき——五本の石柱は、もう立っていなかった。


 五本が——全部、斜めに切断されていた。


 断面が滑らかだった。石が——溶けている。切断面の石が、雷の熱で焼けてガラス状に変質していた。


 一瞬だった。翔太が瞬きする間に——石柱五本が斬られていた。


 グランツが——元の位置に立っていた。剣を振った後の残心。暗い金色の目が、感情を映していない。


 訓練場が——静まり返っていた。見習い四十二名が——誰も声を出せなかった。


 蓮が——息を吐いた。


「……やば」


 翔太も——息ができなかった。


 あれが——上位第一等級の理刻。雷の速度で動き、雷の熱で斬る。石柱五本を——一瞬で。


 バルドが石段の横に立っていた。腕を組んで、グランツを見ている。バルドの目にも——畏怖があった。バルド自身も強い。だが——あの領域には届かない。そういう目だった。


 グランツが剣を納めた。訓練場を歩いて去っていく。見習いたちの横を通った。


 通り過ぎるとき——グランツの暗い金色の目が、一瞬だけ翔太を見た。


 見たのか——見ていないのか。わからなかった。だが、翔太の体が——凍った。見られただけで。


 あの目は——人を見ていない。障害物を走査している目だ。翔太が敵か味方か、脅威か無害か——それだけを判定する目。


 グランツが訓練場を去った。空気が——戻った。帯電が消えた。腕の毛が下がった。


 蓮が翔太の肩を叩いた。


「すごかったね。——あの人と戦ったら、俺ら一秒で死ぬよ」


 軽い声で言った。だが——蓮の手が、微かに震えていた。


***


 ——第七環。同日。


 賢治の視点。


 ハインツが死んで三日が経った。


 碧瓶会の動きは——ナディアが追っていた。


「碧瓶会のトップ、オーレンが動いてる。ハインツの死因を調べさせてる。——今のところ、病死扱いだ。外傷も毒もないから。だが——オーレンは信じてない」


「オーレンはハインツの死がヴォルクの仕業だと——」


「疑ってる。疑ってるだけで、証拠がない。だから——まだ動けてない。だが、時間の問題だ。オーレンが確信を持ったら——碧瓶会は報復に出る」


「報復の規模は」


「碧瓶会は合法組織だ。正面から灰の商会と戦争はしない。——やるなら暗殺か、あるいは守備隊を使う。ハインツが守備隊と接触していたルートを——オーレンが引き継ぐ可能性がある」


 ハインツを殺しても——問題は消えなかった。ハインツの後任がグレゴールと繋がれば——蒸留師の情報は結局流れる。


「……佐伯。あんた——エーリカと連絡は取れるか」


「碧瓶会に出入りしづらくなっている。ハインツが死んだ直後だ。外部の人間を警戒してるだろう」


「なら——あたしが行く。走り屋を使えば碧瓶会の内部に伝手がある。エーリカに——様子を聞いてくる」


「頼む。——エーリカが疑われていないか、確認してくれ」


 ナディアが出ていった。


 賢治は精製を続けた。蒸留酒を七口。手が止まる。精製に集中する。


 だが——集中できなかった。


 ハインツを殺したのはヴォルクだ。イレーナが実行した。賢治が報告したから。


 報告しなければ——ハインツは生きていた。だがそうすれば——蒸留師の顔がグレゴールに渡っていた。


 どちらに転んでも——誰かが損をする。


 この世界では——誰かを守ることが、別の誰かを殺すことに繋がる。城島を殺したときもそうだった。ユーリを殺したときもそうだった。


 守るために——殺す。


 自分を守るために——人を差し出す。


 それが——蒸留師の仕事だ。


 メモ帳を開いた。


 『第38日目。   ハインツの死後三日。碧瓶会は報復を検討中。   オーレンが守備隊との繋がりを引き継ぐ可能性。   問題は消えない。人を殺しても。   エーリカの安全確認。ナディアに依頼。   エーリカをヴォルクに隠していることは——まだばれていない。   嘘の上に嘘を重ねている。   カティアの忠告。嘘は三つまで。   もう——超えている。   超えたことを——ヴォルクが知るのは、いつだ。』


***

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