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紫の雫(ヴィオラ・ドロップ) ——異世界に転移した薬学者は、毒と薬で裏社会の頂点に立つ —   作者: イロハ
第一部「灰の檻」

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第35話 綻び

***


 エーリカの件は——ナディアが持ち帰った情報で、さらに悪くなった。


「碧瓶会の中で粛清が始まってる。オーレンがハインツの死に関わった可能性のある人間を洗い出してる。ハインツの最後の数日間に接触した人間——全員リストアップ」


「エーリカは」


「入ってる。ハインツが死んだ夜、三番館にいた人間は全員対象だ。エーリカはお茶を持っていった記録がある。——あと、もう一つ。碧瓶会は来客記録をつけてる。あんたが三番館に出入りした記録が三回分、帳簿に残ってる」


 三回分。名前と日時が帳簿に残っている。


「オーレンがその記録を見れば、蒸留師がハインツと複数回接触していたことがわかる。そこから灰の商会に繋がる」


「証拠にはならないだろう」


「証拠じゃなくても状況としては十分だ。碧瓶会は証拠で動く組織じゃない。オーレンの判断で動く。——あの爺さんは慎重だが、慎重な人間ほど確信を持ったときの動きが速い」


 賢治は窓の外を見た。路地には誰もいなかった。ザハールの巡回の時間ではない。


「ナディア。碧瓶会の来客記録を消す方法はあるか」


「金庫保管。碧瓶会の警備は堅い。外からの侵入は現実的じゃない」


「エーリカなら——帳簿に触れる機会があるか」


「あるかもしれない。薬師なら薬品の帳簿は管理してるし、来客記録も同じ金庫に入ってるなら——。だが佐伯、それは碧瓶会の内部の人間に組織の帳簿を改ざんさせるってことだ。バレたらエーリカが殺される」


「エーリカ自身もリストに入っている。来客記録に蒸留師の訪問が残っていれば、エーリカが蒸留師と接触した証拠にもなる。消すのはエーリカの保身にもなる」


「それをエーリカに——どう伝える。あんたが直接行けるか」


「行けない。碧瓶会はハインツの死後、外部の人間の出入りを制限してるだろう」


「制限してる。三番館には碧瓶会の関係者以外入れなくなってる。——あたしの走り屋なら碧瓶会の末端に繋がりがある。口伝えでエーリカに届けられるかもしれない。ただし——」


「ただし?」


「口伝えは途中で漏れる。走り屋一人、碧瓶会の末端一人、エーリカ。三人の口を経由する。どこかで漏れたら——あたしの走り屋も巻き添えだ」


「直接渡せる方法は」


「一つだけ。——碧瓶会の薬品仕入れルート。第四環の薬草市にエーリカが仕入れに来る。三日に一度。——そこで接触すれば、間に人を挟まない」


「俺が第四環に行くのか」


「あたしが行く。あんたの顔はもう第五環で売れてる可能性がある。あたしが行って、エーリカに伝える。書き換えるかどうかは——エーリカが決める」


 ナディアが外套の紐を結び直した。扉に向かった。


「ナディア。——一つだけ」


「何」


「エーリカに無理強いはするな。やるかやらないかは——本人に判断させろ」


「あたしに言うことじゃないだろ、それは。——行ってくる」


 扉が閉まった。


 一人になった。


 蒸留酒を飲んだ。七口。精製を再開した。


 指先に集中する。夜哭き菫の茎から液を分離する。琥珀色の液滴が皿の上に落ちる。一滴、二滴、三滴。


 ——不純物が混じった。


 指先が——ぶれた。理刻の制御が——一瞬乱れた。


 蒸留酒をもう一口飲んだ。八口目。やり直す。


 今度は成功した。小瓶に移す。一本完成。


 精製しながら考えた。


 来客記録。碧瓶会。エーリカ。——これが消えても、問題は半分しか解決しない。オーレンの疑いは記録がなくても消えない。状況が全て灰の商会を指している。


 だが記録がなければ——確信にはならない。疑いのまま止まる。碧瓶会は証拠なしでは動かない。オーレンは商人だ。リスクを取らない。


 二本目の精製に入った。


 外が暗くなっていた。蝋燭の光だけで精製を続ける。影が壁に揺れた。


 ——イレーナの影。


 ハインツを殺した影。窓の隙間から入り込み、気道を塞いだ影。


 あの影が——この小屋にも入れるということだ。


 賢治は窓の隙間を見た。木枠と石壁の間の——薄い隙間。布で塞いである。だが——影は布を通るのか。通らないのか。


 わからない。イレーナの理刻の詳細を——賢治は知らない。知っておくべきだった。ヴォルクの手駒の能力は——全て把握しておくべきだった。


 三本目。精製完了。


 合計三本。今日のノルマ。


 小瓶を布に包んで藁束の下に隠した。ナディアの回収を待つ。


***


 翌朝。


 セレナが——いつもと違う顔で立っていた。


 いつもの無表情ではなかった。碧い目の奥に——何かが揺れている。不安ではない。もっと複雑なもの。——判断を迫られている人間の目だった。


「蒸留師殿」


「何だ」


「ヴォルク様から——伝言です」


「伝言。——何だ」


「『碧瓶会への出入りの記録が残っていると聞いた。——蒸留師はそれを知っていたか?』」


 知っていたか。


 ヴォルクが——来客記録の存在を知っている。ナディアから聞いたのではない。ナディアはヴォルクに報告していない。ということは——ヴォルクには碧瓶会の中に別の情報源がある。あるいはイレーナがハインツの部屋で帳簿を見た。


 嘘をつくか。知らなかったと言うか。


 ——無駄だ。ヴォルクが「知っていたか」と聞いているのは——答えを知った上で聞いている。試している。


「……知っていた」


「知っていて——ヴォルク様に報告しなかったのですか」


「報告しなかった」


「なぜ」


「来客記録の処理は自分でやるつもりだった。碧瓶会の内部の——」


 言いかけて——止まった。


 だが——遅かった。


 セレナの碧い目が——変わっていた。「内部の」という言葉を聞いた瞬間に。


「蒸留師殿。——碧瓶会の中に、蒸留師殿の協力者がいるのですか」


 沈黙が落ちた。


 路地の向こうで犬が吠えた。遠い声。壁越しに聞こえる、別の世界の音。


 賢治は——答えなかった。


 だが、セレナは待たなかった。


「蒸留師殿。沈黙は——肯定と同じです。わたしの判断では」


「お前の判断?」


「はい。わたしの判断です。——ヴォルク様は報告を求めています。わたしは報告しなければなりません」


「何を報告する」


 セレナの声が——変わった。いつもの無機質な声が、硬くなった。


「碧瓶会の中に蒸留師殿の協力者がいること。来客記録の存在を知りながらヴォルク様に報告しなかったこと。記録を独自に処理しようとしていたこと」


 一つずつ——並べた。事実を。嘘を。隠蔽を。


「——全てです」


「全て報告しろ。お前の仕事だ」


「はい。——わたしの仕事です」


 セレナが——一歩、後ずさった。


 それが——初めてだった。セレナが賢治の前で後ずさったのは。


 いつも半歩後ろに立っていた。常に同じ距離を保っていた。だが今——セレナは一歩引いた。距離が開いた。


 その一歩が——意味を持っていた。


「蒸留師殿。——一つだけ、聞いてもいいですか」


「何だ」


「なぜ——ヴォルク様に話さなかったのですか。碧瓶会の協力者のことを。報告していれば——ヴォルク様も承知の上で利用できたはずです。隠す必要が——なかったはずです」


 なぜ隠したのか。


 答えは——単純だった。


「ヴォルクに報告したら——ヴォルクがエーリカを使い潰す。道具として。情報を搾り取って、用が済んだら捨てる。——ハインツと同じように」


 セレナの碧い目が——揺れた。


「……エーリカ、というのですか。その方は」


「ああ。碧瓶会の薬師だ。二十代の女だ。口が軽くて、笑顔が多くて、——俺が教えた調合で人が死なない配合を作った。その女を——ヴォルクに差し出すわけにはいかなかった」


 セレナは黙った。五秒。十秒。


 口が——開いた。だが声が出なかった。閉じた。もう一度開いた。


「……蒸留師殿。それは——ヴォルク様への不信ではなく、蒸留師殿の——」


「善意か? ——違う。俺が善人だからじゃない。俺がこれ以上——自分のせいで人が死ぬのを見たくないだけだ。城島もユーリもハインツも——俺の行動が原因で死んだ。エーリカまで死なせたら——」


 言葉が止まった。


 エーリカまで死なせたら——何だ。何が起きる。


 壊れるのか。自分が。


 わからない。もう壊れているのかもしれない。


「……セレナ。報告しろ。全部。ただし——」


「ただし?」


「エーリカの名前は——できれば伏せてくれ。『碧瓶会の内部に協力者がいる』とだけ伝えてくれ。名前を出さなければ——ヴォルクがエーリカを特定するまでに時間がかかる」


 セレナは賢治を見た。


 長い視線だった。十秒。碧い目が、何かを——計算していた。任務と感情の間で。ヴォルクへの忠誠と、蒸留師の言葉の間で。


「……承知しました。——協力者がいるとだけ報告します。名前は伏せます。ただし——ヴォルク様が名前を問われた場合は、答えなければなりません」


「わかっている」


 セレナが背を向けた。扉に手をかけた。


「蒸留師殿」


「何だ」


「わたしは——ヴォルク様の部下です。灰の商会の護衛です。蒸留師殿の監視役です。——それは変わりません。変えられません」


「ああ」


「ですが——」


 セレナの手が——扉の上で止まった。


「——わたしは、報告の『順序』を選ぶことはできます。何を先に報告し、何を後に報告するか。それは——わたしの裁量です」


 扉が開いた。閉まった。足音が遠ざかっていった。


 賢治は藁束の上に座った。


 セレナが——名前を伏せると言った。セレナの裁量で——報告の順序を変えると言った。


 それは——小さなことだ。ヴォルクが問えば名前は出る。時間稼ぎにしかならない。


 だが——セレナが、初めて賢治のために「選んだ」。任務の範囲内で——賢治を守ろうとした。


 それが——どれだけ危険なことか。セレナ自身がわかっている。ヴォルクに対して報告を操作するということは——セレナ自身が「信用できない部下」になるということだ。


 蒸留酒の瓶を取った。八口。九口。十口。


 十口で——止まった。手が——まだ震えている。だがもう一口飲む気力がなかった。


 メモ帳を開いた。


 『第39日目。   来客記録の件がヴォルクに知られた。   エーリカの存在が——事実上ばれた。   セレナが報告する。全部。   ただし名前は伏せると言った。   セレナの裁量で。   ——セレナが俺のために嘘をつく。   それは——俺がセレナを巻き込んだということだ。   セレナを。   城島。ユーリ。ハインツ。ナディア。エーリカ。   俺に関わった人間が——一人ずつ、壊れていく。   セレナも——壊してしまうのか。   蒸留酒が十口になった。   増えるのが早い。   だが——今日、精製中に理刻が乱れた。   アルコールで手の震えは止まるが、   理刻の精度は——下がっている。   震えを止めるために飲む酒が、精製の精度を殺す。   矛盾している。   全部——矛盾している。』


***

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