第36話 牙
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セレナの報告から——二日間、何もなかった。
ヴォルクからの連絡がなかった。指示もなかった。伝言もなかった。セレナがヴォルクの元に行き、報告し、戻ってきた。そのあと——沈黙。
二日間。
ナディアは通常通り小瓶を回収しに来た。走り屋たちからの情報もいつも通り流れてきた。グレゴールは第四環での捜査を続けている。碧瓶会のオーレンは動いていない。ソフィアの動きもない。
全てが——いつも通りだった。
それが——怖かった。
ヴォルクが黙っている。嘘を四つも五つも重ねた蒸留師に対して——何も言わない。処分もしない。呼び出しもしない。
静かすぎる。
精製を続けた。蒸留酒を十口。手の震えが止まる。夜哭き菫の分離。理刻を使う。集中する。今日は——乱れなかった。三本完成。
窓の外は曇り空だった。路地に人影はない。ザハールの巡回は朝に一度あった。白髪の老人が路地の端を歩いて、角を曲がって消えた。いつも通りだ。
セレナは小屋の前にいた。壁にもたれて、碧い目で路地を見ている。いつもの位置。いつもの姿勢。だが——二日前から、セレナの目が時折遠くを見るようになっていた。何を見ているのかは聞かなかった。
***
三日目の朝。
賢治が小屋の中で夜哭き菫の在庫を確認していたとき——セレナの声が聞こえた。
「——ザハール殿」
声のトーンが——違った。いつもの報告の声ではなかった。硬い声だった。
賢治は窓から覗いた。
路地の入口に——ザハールが立っていた。
いつもの巡回の時間ではなかった。巡回は朝と夕方。今は——昼だ。時間が違う。
そしてもう一つ。
ザハールの後ろに——人影が二つあった。灰の商会の構成員。腰に刃物。外套の下に革鎧。
賢治の指先が——冷たくなった。
ザハールが——路地を歩いてきた。いつもの歩き方。音がしない。背が高く、背中が曲がっていない。白髪が風に揺れている。
セレナの前で——止まった。
「セレナ。——蒸留師に会わせてもらえるか」
穏やかな声だった。低くて、落ち着いていて、六十七歳の老人の声。
「何のご用でしょうか」
「ヴォルクから——蒸留師に来てもらいたいと伝言がある。一緒に来てもらう」
一緒に来てもらう。
穏やかな声。穏やかな言い方。——だが、賢治の背中を冷たいものが走った。
「呼び出し」ではなく「一緒に来てもらう」。ザハールが直接迎えに来ている。後ろに構成員が二人。
これは——護送だ。
カティアが前に来たときと同じだ。だが——カティアのときは「蒸留師ー、ヴォルクが呼んでるよー」だった。今回は——ザハールだ。
格が違う。
賢治は小屋の扉を開けた。
「ザハール。——ヴォルクが俺に用があるなら、いつも通りセレナを通じて伝えればいい。わざわざあんたが来る必要はないだろう」
ザハールの目が——賢治を見た。老人の目。濁りのない目。
「蒸留師。——まあ、そう堅くなるな。ヴォルクが話したいことがある。すぐに済む。一緒に来てくれ」
穏やかだった。脅しの気配はなかった。だが——穏やかすぎた。
ザハールの後ろの二人が——路地の出口を塞ぐように立っていた。退路がない。
「……何の話だ」
「俺は聞いてない。ヴォルクが直接話す。——蒸留師、手間をかけさせるな。歩いて行けば十分で着く」
穏やかな声。穏やかな言い方。——だが、「手間をかけさせるな」の一言が、空気を変えた。
手間をかけさせるな。——拒否すれば、手間をかけることになる。手間をかければ——ザハールが「手間をかけなくて済む方法」を選ぶ。
賢治は——セレナを見た。
セレナが——賢治とザハールの間に立っていた。半歩前。護衛の位置。碧い目が——ザハールを見ている。
「ザハール殿。——蒸留師殿の護衛はわたしの任務です。蒸留師殿を連行するのであれば——わたしも同行します」
「連行じゃない。一緒に来てもらうだけだ。——セレナ、お前も来ればいい。邪魔はしない」
「しかし——後ろの二人は何です。蒸留師殿への面会に——武装した構成員が必要ですか」
「念のためだ。守備隊が動いてる。護衛を増やせとヴォルクに言われた」
セレナの碧い目が——ザハールの目を見た。三秒。
「……ザハール殿。正直にお聞きします。——これはヴォルク様の指示ですか」
「ヴォルクの指示だ」
ザハールの声が——変わらなかった。穏やかなまま。だが——「ヴォルクの指示だ」の四文字が、空気に重さを加えた。
ヴォルク様の指示。
セレナにとって——それは絶対だ。ヴォルク様の部下として、ヴォルク様の指示に逆らうことは——できない。
だが——セレナの体が、動かなかった。賢治とザハールの間に立ったまま。
「しかし——」
セレナの声が——揺れた。
「しかし——蒸留師殿は、ヴォルク様への報告を全て行いました。わたしが報告しました。その上で——」
「セレナ。俺はヴォルクから言われたことを伝えに来ただけだ。それ以上のことは知らない。——蒸留師、来るか来ないか。返事をくれ」
賢治は路地を見た。
路地の入口にザハール。その後ろに二人。路地の奥は——行き止まりではない。旧なめし革工房の裏手に抜ける道がある。だが——ザハールの速度なら、走り出した瞬間に追いつかれる。
逃げられない。
だが——行けば、どうなる。ヴォルクの部屋に行けば——「話がある」では済まない可能性がある。嘘を重ねた蒸留師を——ヴォルクが許すか。
許さないなら——。
「……行かない」
賢治の声が——自分の耳に届いた。低い声だった。震えていた。
ザハールの目が——細くなった。
「行かない、か」
「ヴォルクに話があるなら——ここに来ればいい。俺は精製がある。小屋を離れるわけにはいかない」
「蒸留師。——それは理由にならんな」
ザハールが——一歩、前に出た。
一歩。それだけだった。だが——空気が変わった。路地全体の空気が。
あの夜、森で見た歩き方。落ち葉を踏まない足。今、石畳の上で——同じ足が、音を立てずに一歩を踏んだ。
セレナが——動いた。
賢治の前に立った。完全に正面。ザハールと賢治の間に——セレナの背中があった。
「ザハール殿。——蒸留師殿は行かないと言っています。強制するのであれば——わたしは護衛として、蒸留師殿を守らなければなりません」
「セレナ。お前の護衛任務はヴォルクから与えられたものだ。ヴォルクの指示で蒸留師を連れてくる俺に——ヴォルクの護衛任務で対抗するのか。矛盾してるぞ」
矛盾。
セレナの体が——震えた。微かに。だが——震えていた。
ザハールの言う通りだった。セレナの護衛任務はヴォルク様が与えたもの。ザハールの連行もヴォルク様の指示。どちらもヴォルク様の命令。——矛盾している。
セレナの碧い目が——賢治を振り返った。一瞬だけ。
賢治は——セレナの目を見た。
揺れていた。ガラス玉が——割れかけていた。任務と判断の間で。忠誠と義理の間で。
「……ザハール殿。矛盾していることは——承知しています」
それだけ言った。理由は言わなかった。外套の留め金に手をかけた。
「……そうか。——残念だ」
ザハールが——動いた。
一歩目は——歩くような速度だった。だが二歩目で加速した。三歩目で——セレナの間合いに入った。
セレナの外套が翻った。
右手が外套の内側に入った。指先がナイフの柄に触れた。一瞬で二本抜いた。同時に——左手がもう一本。
三本のナイフが——空中に放たれた。
一本目はザハールの顔面へ。正面から。直線軌道。
ザハールが頭を右に傾けた。ナイフが頬の横を通過した。——だが、通過しなかった。
ナイフが——空中で軌道を変えた。
ザハールの頭を通過した瞬間、刃先が弧を描いて——背後から戻ってきた。後頭部を狙って。
セレナの理刻——『糸引き(ストリング)』。投擲した物体に見えない糸を繋ぎ、飛行中の軌道を自在に操る。
同時に——二本目と三本目が左右から挟み込むように飛んだ。三方向からの同時攻撃。正面を避ければ背後から。背後を避ければ左右から。
ザハールが——しゃがんだ。
三本のナイフが——ザハールの頭上で交差した。金属がぶつかる甲高い音。
しゃがんだ姿勢から——ザハールが跳んだ。セレナとの距離を一瞬で詰めた。
セレナは後退しながら——さらに四本のナイフを抜いた。外套の内側から。両手で二本ずつ。合計七本が空中にある。
七本のナイフが——セレナの意志で動いた。
蜘蛛の巣のように。
上下左右、交差し、回転し、ザハールの周囲を旋回した。一本が顔面を狙い、一本が膝裏を狙い、一本が手首を狙い——残りの四本が退路を塞ぐように空中に浮かんだ。
ザハールが——立ち止まった。
七本のナイフに囲まれている。どの方向に動いても——刃が待っている。
セレナの碧い目が——研ぎ澄まされていた。十指が微かに動いている。七本の糸を——同時に操っている。
ザハールは——動いた。
動いた方向は——下だった。
石畳の上に倒れ込むように身を沈めた。七本のナイフが頭上で交差した瞬間——ザハールの右手が石畳を掴んだ。そのまま——体を回転させた。
足が——セレナの足首を払った。
低い位置からの足払い。セレナの体が——傾いた。バランスが崩れた。一瞬——糸の制御が乱れた。
一瞬で十分だった。
ザハールが起き上がった。セレナが体勢を立て直すより——速かった。
右手がセレナの右手首を掴んだ。左手がセレナの左肩を押した。セレナの体が——回転した。背中から石畳に叩きつけられた。
衝撃。セレナの碧い目が見開かれた。肺の空気が全て吐き出された。
七本のナイフが——地面に落ちた。糸が切れた。制御を失ったナイフが、からからと石畳の上で転がった。
ザハールが手を離した。追撃しなかった。
ザハールが賢治に向き直った。
「蒸留師。——セレナは倒した。お前の番だ。来るか」
賢治の左手がポケットに入った。小瓶。経皮型の静寂。蓋を開けた。布に染み込ませた。
ザハールに向かって——投げた。
布がザハールの顔に向かって飛んだ。毒を染み込ませた布。顔に触れれば——皮膚から浸透し、神経を麻痺させる。
ザハールが——布を避けなかった。
右手で布を掴んだ。空中で。指先で。
掴んで——地面に落とした。
「毒か。——蒸留師、それは知ってるよ。ヴォルクから聞いてる。お前の武器は毒と化学物質だ。——だから俺は素手で来てない」
ザハールが——外套の袖を捲った。
両手に——薄い革の手袋をしていた。手のひらから指先まで覆う革手袋。毒が皮膚に触れないように。
知っている。ザハールは——賢治の手口を全て知っている。ヴォルクから聞いている。
賢治はもう一つの小瓶を取り出した。揮発性の麻痺剤。蓋を開ければ——気化して空気中に広がる。吸い込めば——三十秒で意識を失う。
蓋に手をかけた。
「やめておけ」
ザハールの声が——低くなった。穏やかさが——消えた。
「それを開けたら、お前も吸う。倒れるのは俺じゃなくてお前だ。——蒸留師、俺はお前を傷つけたくない。ヴォルクも殺せとは言っていない。連れて来いと言っただけだ。——だから、来い」
賢治の手が——震えていた。小瓶を持つ手が。蒸留酒の震えではない。恐怖の震え。
セレナが——石畳の上で咳き込んでいた。首元を押さえて。碧い目が——賢治を見ていた。
何か言おうとしていた。口が動いていた。だが——声が出なかった。背中を打った衝撃で、呼吸がまだ戻っていない。
賢治は——セレナを見た。
石畳の上に倒れた女。薄い金髪が石畳に広がっている。碧い目が——賢治を見ている。声が出ない。手が——賢治の方に伸びかけて、途中で止まった。
セレナは——何と言おうとしたのか。
「任務ですから」か。「お気をつけて」か。
わからなかった。
小瓶を——置いた。石畳の上に。
手を——上げた。
「……行く」
ザハールが頷いた。
「まあ——なんとかなるだろう」
その口癖が——今日は、賢治を安心させなかった。
ザハールが賢治の腕を掴んだ。力は強くなかった。だが——外せなかった。鉄の万力のような握力が、薄い革手袋越しに賢治の前腕を包んでいた。
後ろの構成員二人が——左右に立った。
路地を出た。石畳の通りに入った。
賢治は振り返らなかった。
だが——背中に、セレナの視線を感じた。石畳の上で倒れたまま、声の出ない碧い目で、賢治の背中を見つめている女の視線を。
路地が——遠ざかっていった。
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