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紫の雫(ヴィオラ・ドロップ) ——異世界に転移した薬学者は、毒と薬で裏社会の頂点に立つ —   作者: イロハ
第一部「灰の檻」

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第37話 天秤

***


 灰の商会の本拠。第六環と第七環の境にある石造りの倉庫。


 二階の部屋に入った瞬間——ザハールの手が賢治の背中を押した。膝の裏を蹴られた。


 石の床に——膝から崩れ落ちた。


 両膝が石に打ちつけられた。痛みが走った。だが——痛みよりも、目の前のものの方が怖かった。


 ヴォルクが——椅子に座っていた。


 大きな体。黒い外套。禿頭。顎の傷痕。


 テーブルの上に——ナイフが一本、置いてあった。


 ヴォルクのナイフではない。無造作に置かれた——道具。果物を剥くための小刀のように。だがその存在が——部屋の意味を決めていた。


「ザハール。押さえろ」


 ザハールの手が——賢治の肩を掴んだ。跪いた姿勢のまま、動けなくなった。


 ヴォルクが立ち上がった。


 テーブルのナイフを——取らなかった。ナイフを置いたまま、賢治の前に歩いてきた。見下ろした。


「蒸留師。——お前は、何回嘘をついた」


「……ヴォルク——」


「数えろ」


「——数えられない」


「数えられないほどか」


 ヴォルクの右手が——賢治の顎を掴んだ。顔を持ち上げた。指が顎の骨に食い込んだ。


「ドラガンの毒。セレナの離脱。碧瓶会への独断接触。調合の無断提供。内通者の確保。来客記録の隠蔽。——六つだ。俺が数えてやる。六つ。カティアが言ったのは三つまでだったな」


 顎を——放した。賢治の頭が前に垂れた。


「倍だ。——蒸留師。お前は俺の許容量の倍の嘘をついた」


 ヴォルクがテーブルに戻った。ナイフを取り上げた。刃先を見た。


「お前をどうするか——もう決めてある」


 心臓が——跳ねた。


「ヴォルク——待ってくれ——」


「待つ理由を言え。五秒で」


「VDだ——VDを——」


「VDがどうした。お前がいなくなれば止まる。知ってる。——だがな、蒸留師。VDは灰の商会の利益の三割だ。三割を失っても——七割が残る。お前の命は——三割分の価値しかない」


「違う——」


「何が違う」


「三割じゃない——五割にできる——いや——」


 頭が回らない。恐怖で。ザハールの手が肩を押さえている。ヴォルクがナイフを持っている。膝が石の床に当たって痛い。


 考えろ。考えろ。考えろ。


「VDの——改良型を作れる」


 ヴォルクの手が——止まった。


「改良型だと?」


「今のVDは——一瓶あたり夜哭き菫の茎が三本必要だ。原料の限界で——一日三本しか作れない。だが——俺は精製工程の最適化を——ずっと考えていた。理刻の分子操作のパターンを変えれば——茎一本から二瓶分の抽出ができる。原料効率が六倍になる。一日——十八本作れる」


 嘘ではなかった。精製中に理刻が乱れたとき——偶然、分子の配列が変わったことに気づいていた。配列を意図的に変えれば——抽出効率を上げられる可能性はあった。可能性だ。まだ実験していない。成功するかはわからない。


 だが——今はそんなことを言っている場合ではなかった。


「十八本。——今の六倍か」


「六倍だ。そして——改良型はもう一つある。濃度を変えられる。今のVDは一種類だが——濃度を三段階に分ければ、客層を広げられる。軽度の酩酊用、標準、高濃度。価格帯を分けて——市場を三倍にできる」


 賢治の口が——止まらなかった。恐怖が言葉を搾り出していた。


「六倍の生産量で三倍の市場。つまり——VDの売上は今の十八倍になる。灰の商会の利益の三割が——」


「黙れ」


 ヴォルクの声が——低くなった。


 賢治は黙った。


 ヴォルクが——ナイフをテーブルに置いた。刃先が賢治の方を向いていた。


「蒸留師。——それは、今までできなかったのか。それとも——やらなかったのか」


 心臓が止まりかけた。


 正直に答えれば——「やらなかった」が近い。効率化の可能性には気づいていた。だが——生産量を増やせば、VDの流通量が増える。流通量が増えれば——中毒者が増える。死者が増える。


 だから——やらなかった。


 だが今、それを言えば——ヴォルクは「お前は意図的に利益を抑えていた」と判断する。それは——嘘よりも重い裏切りだ。


「……できなかった。理刻の制御精度が足りなかった。だが——四十日間精製を続けて、精度が上がった。今なら——できる」


「できる、か。——証明しろ」


「ここに原料はないが——工房に戻れば——」


「戻れば、じゃない。今ここで——証明しろ。お前が持っている小瓶が——あるだろう。ポケットの中の」


 ヴォルクが知っている。ポケットの中に——経皮型の毒が入っていたことを。ザハールが報告したのだ。


「毒の小瓶は——ザハールに取られた」


「ザハール」


「ここにある」


 ザハールが——ポケットから小瓶を二つ出した。賢治から取り上げたもの。経皮型の静寂と、揮発性の麻痺剤。


 ヴォルクがテーブルに小瓶を置いた。


「この毒を——今ここで、無害な物質に変えてみろ。お前の理刻で。——それができれば、お前の分子操作の精度がどの程度か、わかる」


 無害な物質に変える。


 理論上は——できる。経皮型の静寂の主成分は夜哭き菫の神経毒素。分子構造を変えれば——ただの苦い液体になる。


 だが——手が震えている。恐怖で。酒を飲んでいない。今朝から何も飲んでいない。


「……やる」


 ザハールの手が——肩から離れた。


 賢治は立ち上がった。膝が震えていた。テーブルの前に立った。


 小瓶を取った。蓋を開けた。琥珀色の液体。指先を——瓶の縁に当てた。


 理刻を——発動した。


 指先から——分子に触れる感覚。液体の中の分子配列が——見えた。毒素の構造。炭素鎖の並び。窒素原子の位置。——ここを切断すれば、毒性が消える。


 だが——指先が震えていた。


 配列が——ぶれる。焦点が合わない。いつもなら蒸留酒を飲んで震えを止めてから精製する。だが今は——酒がない。


 震える指先で——分子を操作した。


 切断。再結合。切断。再結合。


 ——液体の色が変わった。琥珀色から——薄い黄色に。


 賢治は小瓶をテーブルに置いた。


「……できた。毒性は消えている。——確認するなら、指先に一滴垂らしてくれ。何も起きない」


 ヴォルクは小瓶を見た。取り上げなかった。


「ザハール。確認しろ」


 ザハールが小瓶を取った。指先に一滴垂らした。三十秒待った。


「……何も起きん」


 ヴォルクが——賢治を見た。


 長い視線だった。十秒。二十秒。


 計算している。天秤に載せている。蒸留師の嘘と裏切り。蒸留師の技術と利益。——どちらが重いか。


「蒸留師。——改良型を作れ。一週間でだ。一週間後に——十八本の生産が可能だと証明しろ。できなければ——お前の価値はない」


「……やる」


「条件を出す」


 ヴォルクが指を立てた。


「一つ。セレナは護衛から外す。今後の監視はザハールが直接行う。お前はザハールの許可なく小屋から出るな」


「二つ。碧瓶会への接触は一切禁止する。エーリカとやらの名前も——もう聞きたくない」


「三つ。一週間で改良型を完成させろ。生産量を六倍にしろ。できなければ——次はこの部屋に戻ることになる。その時は——ナイフがテーブルの上にあるだけでは済まない」


「四つ」


 ヴォルクが——一歩、近づいた。


「お前の息子が第二環にいることは——知っている。お前がもう一度俺に嘘をついたら——俺は息子に興味を持つことになる。それだけは——避けた方がいい」


 翔太を——カードにした。


 ヴォルクは翔太の存在を最初から知っていた。セレナが報告しているのだから当然だ。だが——今まで一度も翔太の名前を出さなかった。出す必要がなかった。


 今、出した。——それが意味することは一つだ。


「……わかった」


「わかったな。——出ろ」


 賢治は部屋を出た。


 廊下に出た瞬間——膝から崩れた。壁に手をついた。呼吸が——荒かった。心臓が耳の中で鳴っていた。


 死ぬところだった。


 本当に——死ぬところだった。


 改良型。六倍の生産量。三段階の濃度。——あの場で搾り出した言葉だ。理論上の可能性。まだ一度も試していない。


 一週間で証明しろとヴォルクは言った。


 できるのか。


 ——できなければ死ぬ。


 できれば——VDの流通量が爆発的に増える。中毒者が増える。死者が増える。


 どちらを選んでも——地獄だ。


***


 小屋に戻った。


 セレナが——いなかった。


 いつもの位置に——誰もいなかった。


 石畳の上に——ナイフが一本、落ちていた。セレナのナイフだった。ザハールとの戦闘で落としたもの。回収されずに残っている。


 刃に——薄く血がついていた。


 賢治はナイフを拾い上げた。


 セレナは——自分でヴォルクのところに行ったのだろう。ザハールに逆らったことを報告しに。処分を受けるために。


 セレナが戻ってくるかどうか——わからなかった。


 藁束の上に座った。ナイフを膝の上に置いた。


 蒸留酒の瓶を取った。十口。十一口。十二口。


 十二口で——手の震えが止まった。


 改良型の設計を考えなければならない。一週間しかない。


 だが——頭が動かなかった。ヴォルクの顔が消えない。ナイフが消えない。翔太の名前を口にしたときのヴォルクの目が消えない。


 あの男の下で——これから先も働くのか。


 あの男に——翔太を握られたまま。


 蒸留酒をもう一口飲んだ。十三口目。


 手は——まだ震えていた。


***

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