第37話 天秤
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灰の商会の本拠。第六環と第七環の境にある石造りの倉庫。
二階の部屋に入った瞬間——ザハールの手が賢治の背中を押した。膝の裏を蹴られた。
石の床に——膝から崩れ落ちた。
両膝が石に打ちつけられた。痛みが走った。だが——痛みよりも、目の前のものの方が怖かった。
ヴォルクが——椅子に座っていた。
大きな体。黒い外套。禿頭。顎の傷痕。
テーブルの上に——ナイフが一本、置いてあった。
ヴォルクのナイフではない。無造作に置かれた——道具。果物を剥くための小刀のように。だがその存在が——部屋の意味を決めていた。
「ザハール。押さえろ」
ザハールの手が——賢治の肩を掴んだ。跪いた姿勢のまま、動けなくなった。
ヴォルクが立ち上がった。
テーブルのナイフを——取らなかった。ナイフを置いたまま、賢治の前に歩いてきた。見下ろした。
「蒸留師。——お前は、何回嘘をついた」
「……ヴォルク——」
「数えろ」
「——数えられない」
「数えられないほどか」
ヴォルクの右手が——賢治の顎を掴んだ。顔を持ち上げた。指が顎の骨に食い込んだ。
「ドラガンの毒。セレナの離脱。碧瓶会への独断接触。調合の無断提供。内通者の確保。来客記録の隠蔽。——六つだ。俺が数えてやる。六つ。カティアが言ったのは三つまでだったな」
顎を——放した。賢治の頭が前に垂れた。
「倍だ。——蒸留師。お前は俺の許容量の倍の嘘をついた」
ヴォルクがテーブルに戻った。ナイフを取り上げた。刃先を見た。
「お前をどうするか——もう決めてある」
心臓が——跳ねた。
「ヴォルク——待ってくれ——」
「待つ理由を言え。五秒で」
「VDだ——VDを——」
「VDがどうした。お前がいなくなれば止まる。知ってる。——だがな、蒸留師。VDは灰の商会の利益の三割だ。三割を失っても——七割が残る。お前の命は——三割分の価値しかない」
「違う——」
「何が違う」
「三割じゃない——五割にできる——いや——」
頭が回らない。恐怖で。ザハールの手が肩を押さえている。ヴォルクがナイフを持っている。膝が石の床に当たって痛い。
考えろ。考えろ。考えろ。
「VDの——改良型を作れる」
ヴォルクの手が——止まった。
「改良型だと?」
「今のVDは——一瓶あたり夜哭き菫の茎が三本必要だ。原料の限界で——一日三本しか作れない。だが——俺は精製工程の最適化を——ずっと考えていた。理刻の分子操作のパターンを変えれば——茎一本から二瓶分の抽出ができる。原料効率が六倍になる。一日——十八本作れる」
嘘ではなかった。精製中に理刻が乱れたとき——偶然、分子の配列が変わったことに気づいていた。配列を意図的に変えれば——抽出効率を上げられる可能性はあった。可能性だ。まだ実験していない。成功するかはわからない。
だが——今はそんなことを言っている場合ではなかった。
「十八本。——今の六倍か」
「六倍だ。そして——改良型はもう一つある。濃度を変えられる。今のVDは一種類だが——濃度を三段階に分ければ、客層を広げられる。軽度の酩酊用、標準、高濃度。価格帯を分けて——市場を三倍にできる」
賢治の口が——止まらなかった。恐怖が言葉を搾り出していた。
「六倍の生産量で三倍の市場。つまり——VDの売上は今の十八倍になる。灰の商会の利益の三割が——」
「黙れ」
ヴォルクの声が——低くなった。
賢治は黙った。
ヴォルクが——ナイフをテーブルに置いた。刃先が賢治の方を向いていた。
「蒸留師。——それは、今までできなかったのか。それとも——やらなかったのか」
心臓が止まりかけた。
正直に答えれば——「やらなかった」が近い。効率化の可能性には気づいていた。だが——生産量を増やせば、VDの流通量が増える。流通量が増えれば——中毒者が増える。死者が増える。
だから——やらなかった。
だが今、それを言えば——ヴォルクは「お前は意図的に利益を抑えていた」と判断する。それは——嘘よりも重い裏切りだ。
「……できなかった。理刻の制御精度が足りなかった。だが——四十日間精製を続けて、精度が上がった。今なら——できる」
「できる、か。——証明しろ」
「ここに原料はないが——工房に戻れば——」
「戻れば、じゃない。今ここで——証明しろ。お前が持っている小瓶が——あるだろう。ポケットの中の」
ヴォルクが知っている。ポケットの中に——経皮型の毒が入っていたことを。ザハールが報告したのだ。
「毒の小瓶は——ザハールに取られた」
「ザハール」
「ここにある」
ザハールが——ポケットから小瓶を二つ出した。賢治から取り上げたもの。経皮型の静寂と、揮発性の麻痺剤。
ヴォルクがテーブルに小瓶を置いた。
「この毒を——今ここで、無害な物質に変えてみろ。お前の理刻で。——それができれば、お前の分子操作の精度がどの程度か、わかる」
無害な物質に変える。
理論上は——できる。経皮型の静寂の主成分は夜哭き菫の神経毒素。分子構造を変えれば——ただの苦い液体になる。
だが——手が震えている。恐怖で。酒を飲んでいない。今朝から何も飲んでいない。
「……やる」
ザハールの手が——肩から離れた。
賢治は立ち上がった。膝が震えていた。テーブルの前に立った。
小瓶を取った。蓋を開けた。琥珀色の液体。指先を——瓶の縁に当てた。
理刻を——発動した。
指先から——分子に触れる感覚。液体の中の分子配列が——見えた。毒素の構造。炭素鎖の並び。窒素原子の位置。——ここを切断すれば、毒性が消える。
だが——指先が震えていた。
配列が——ぶれる。焦点が合わない。いつもなら蒸留酒を飲んで震えを止めてから精製する。だが今は——酒がない。
震える指先で——分子を操作した。
切断。再結合。切断。再結合。
——液体の色が変わった。琥珀色から——薄い黄色に。
賢治は小瓶をテーブルに置いた。
「……できた。毒性は消えている。——確認するなら、指先に一滴垂らしてくれ。何も起きない」
ヴォルクは小瓶を見た。取り上げなかった。
「ザハール。確認しろ」
ザハールが小瓶を取った。指先に一滴垂らした。三十秒待った。
「……何も起きん」
ヴォルクが——賢治を見た。
長い視線だった。十秒。二十秒。
計算している。天秤に載せている。蒸留師の嘘と裏切り。蒸留師の技術と利益。——どちらが重いか。
「蒸留師。——改良型を作れ。一週間でだ。一週間後に——十八本の生産が可能だと証明しろ。できなければ——お前の価値はない」
「……やる」
「条件を出す」
ヴォルクが指を立てた。
「一つ。セレナは護衛から外す。今後の監視はザハールが直接行う。お前はザハールの許可なく小屋から出るな」
「二つ。碧瓶会への接触は一切禁止する。エーリカとやらの名前も——もう聞きたくない」
「三つ。一週間で改良型を完成させろ。生産量を六倍にしろ。できなければ——次はこの部屋に戻ることになる。その時は——ナイフがテーブルの上にあるだけでは済まない」
「四つ」
ヴォルクが——一歩、近づいた。
「お前の息子が第二環にいることは——知っている。お前がもう一度俺に嘘をついたら——俺は息子に興味を持つことになる。それだけは——避けた方がいい」
翔太を——カードにした。
ヴォルクは翔太の存在を最初から知っていた。セレナが報告しているのだから当然だ。だが——今まで一度も翔太の名前を出さなかった。出す必要がなかった。
今、出した。——それが意味することは一つだ。
「……わかった」
「わかったな。——出ろ」
賢治は部屋を出た。
廊下に出た瞬間——膝から崩れた。壁に手をついた。呼吸が——荒かった。心臓が耳の中で鳴っていた。
死ぬところだった。
本当に——死ぬところだった。
改良型。六倍の生産量。三段階の濃度。——あの場で搾り出した言葉だ。理論上の可能性。まだ一度も試していない。
一週間で証明しろとヴォルクは言った。
できるのか。
——できなければ死ぬ。
できれば——VDの流通量が爆発的に増える。中毒者が増える。死者が増える。
どちらを選んでも——地獄だ。
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小屋に戻った。
セレナが——いなかった。
いつもの位置に——誰もいなかった。
石畳の上に——ナイフが一本、落ちていた。セレナのナイフだった。ザハールとの戦闘で落としたもの。回収されずに残っている。
刃に——薄く血がついていた。
賢治はナイフを拾い上げた。
セレナは——自分でヴォルクのところに行ったのだろう。ザハールに逆らったことを報告しに。処分を受けるために。
セレナが戻ってくるかどうか——わからなかった。
藁束の上に座った。ナイフを膝の上に置いた。
蒸留酒の瓶を取った。十口。十一口。十二口。
十二口で——手の震えが止まった。
改良型の設計を考えなければならない。一週間しかない。
だが——頭が動かなかった。ヴォルクの顔が消えない。ナイフが消えない。翔太の名前を口にしたときのヴォルクの目が消えない。
あの男の下で——これから先も働くのか。
あの男に——翔太を握られたまま。
蒸留酒をもう一口飲んだ。十三口目。
手は——まだ震えていた。
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