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紫の雫(ヴィオラ・ドロップ) ——異世界に転移した薬学者は、毒と薬で裏社会の頂点に立つ —   作者: イロハ
第一部「灰の檻」

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第38話 六倍

***


 一日目。


 小屋の外にザハールが立っていた。セレナの位置に。セレナの代わりに。


 朝。ザハールが扉を叩いた。


「蒸留師。飯を持ってきた」


 黒パンと干し肉。水筒。それだけだった。


「ザハール。——セレナは」


「知らん。俺の管轄じゃない」


 それ以上は聞けなかった。


 改良型の開発に取りかかった。


 まず、今のVDの精製工程を紙に書き出した。夜哭き菫の茎を砕く。汁を絞る。理刻で分子を分離する。毒素を除去する。有効成分だけを抽出する。小瓶に詰める。


 この工程で茎三本から一瓶。効率が悪い原因は——分離の段階にある。理刻で分子を一つずつ選り分けている。指先で砂金を拾うような作業だ。こぼれ落ちる分子が多い。


 六倍にするには——こぼれ落ちる分子を拾わなければならない。


 方法は一つ。分離のパターンを変える。一つずつ拾うのではなく——まとめて分類する。分子の性質ごとに——層を作って分離する。


 理論は——ある。ヴォルクの前で言ったことは嘘ではなかった。精製中に理刻が乱れたとき、偶然——分子が層状に分離したことがあった。あのパターンを意図的に再現できれば——効率は跳ね上がる。


 だが——偶然を意図に変えるのが、最も難しい。


 蒸留酒を飲んだ。十口。手の震えが止まった。理刻を起動した。


 夜哭き菫の茎を一本取った。皿の上に汁を絞った。指先を浸けた。


 分子に触れる。配列を読む。——ここから先が、新しい領域だ。


 一つずつ拾うのではなく——全体に力をかける。分子の重さの違いを利用して——遠心分離のように——層に分ける。


 力をかけた。


 液が——動かなかった。


 力が足りない。一つの分子を動かすのと、液体全体を一度に操作するのとでは——必要なエネルギーが桁違いだ。


 もう一度。力を込めた。指先が——熱くなった。理刻の負荷が上がっている。


 液が——わずかに揺れた。分子が——動き始めた。だが——層にならない。混ざったまま。


 失敗。


 一回目。失敗。


***


 二日目。


 十四回目の試行。


 蒸留酒を十二口飲んだ。手の震えが止まった。理刻を起動した。


 力の方向を変えた。全体に均一にかけるのではなく——螺旋状に。液の中心から外側に向かって回転する力。遠心力。


 液が——回り始めた。皿の上で、琥珀色の液体が小さな渦を作った。


 渦の中心に——重い分子が集まった。外周に——軽い分子が移動した。


 層ができた。


 二層。中心の濃い琥珀色と、外周の薄い黄色。


 ——だが。


 渦が崩れた。力を維持できなかった。五秒間しか持たなかった。五秒では——分離が不十分だ。安定させるには——三十秒は必要。


 失敗。だが——方向は正しかった。


***


 三日目。


 ナディアが来た。ザハールの目の前で。


「あんた——生きてたか」


「生きてる」


「ヴォルクに殺されかけたって——噂が流れてる。走り屋たちが動揺してる。蒸留師が消えたら、あたしたちの商売も終わる」


「消えてない。——生産量を上げろと言われた」


「上げろ? どのくらい」


「六倍」


「六倍。——正気か、あの男」


「正気だ。——できなければ殺される」


 ナディアは賢治を見た。目の下の隈が——以前より深くなっていた。


「あんた——酒の量、増えてない?」


「増えてる」


「精製に影響は」


「出始めてる。——理刻の焦点が合いにくくなってる。酒で震えは止まるが、酒で精度が落ちる」


「矛盾してるな」


「全部矛盾してる」


 ナディアは小瓶を三本受け取った。通常の生産分。改良型はまだ完成していない。


「セレナの話は聞いたか」


「……聞いてない。何かあったのか」


「護衛を外された。それだけじゃない。ヴォルクに——」


 ナディアが言葉を切った。ザハールが近くにいることに気づいた。


「……あとで話す」


 ナディアが去った。


 セレナに——何があったのか。


 聞きたかった。だが——今は改良型に集中しなければならない。六日後が期限だ。


***


 四日目。


 三十七回目の試行。


 遠心分離のパターンを——変えた。螺旋の回転速度を段階的に上げていく。最初はゆっくり。分子が動き始めたら——加速。


 液が回った。渦が安定した。五秒。十秒。十五秒。——二十秒。


 二層が——はっきり分かれた。中心の有効成分。外周の不純物。


 だが——三十秒に届かなかった。二十三秒で渦が崩れた。


 指先が——痺れていた。理刻の使いすぎだ。一日の限界が近い。


 蒸留酒を飲んだ。十三口目。


 もう一度。


 二十五秒。


 もう一度。


 二十七秒。


 もう一度——


 指先の感覚が——消えた。理刻が切れた。限界だ。


 藁束の上に倒れ込んだ。天井を見た。目がかすんでいた。


***


 五日目。


 ナディアが夜に来た。ザハールが巡回に出ている隙を狙って。


「セレナの件——話す。あんたが知っておくべきことだから」


「何があった」


「セレナは——ヴォルクの前で罰を受けた。護衛任務中にザハールに逆らったこと。ヴォルクの指示に反して蒸留師を守ろうとしたこと。——ヴォルクの前で、カティアに——」


 ナディアの声が——低くなった。


「右手の小指を——折られた」


 賢治の手が——止まった。


「……折られた」


「カティアがやった。えへへ、って笑いながら。——セレナは声を上げなかったらしい。指を折られても——黙ったまま。ヴォルクの目を見たまま」


 右手の小指。


 ナイフを投げる手だ。利き手だ。——小指が折れれば、握力が落ちる。ナイフの軌道操作に——影響が出る。


 ヴォルクは——セレナの戦闘能力を意図的に削いだのだ。殺さない。だが——弱くする。二度と蒸留師を守れないように。


「セレナは——今どこにいる」


「灰の商会の詰所に軟禁されてる。護衛任務は解除。次の任務は——まだ出ていない。事実上の——棚上げだ」


「指は——治るのか」


「骨折だから——治る。二ヶ月はかかるだろうが。——だが、治っても——元の握力に戻るかはわからない」


 賢治は藁束の上に座ったまま——セレナのナイフを見た。藁束の下に入れたままのナイフ。刃に薄く血がついたナイフ。


 セレナが——指を折られた。


 俺を守ろうとしたから。俺がヴォルクに嘘をついたから。俺が碧瓶会と独断で取引したから。


 全部——俺のせいだ。


 蒸留酒を飲んだ。十三口。十四口。十五口。


 十五口で——手の震えが止まった。


 改良型を——完成させなければならない。


 セレナのために——ではない。


 翔太のために。自分のために。——生き延びるために。


***


 六日目。


 五十二回目の試行。


 蒸留酒を十五口。理刻を起動。


 遠心分離。螺旋の回転。——力の入れ方を変えた。


 今までは指先から力を押し出していた。液体を外から操作していた。だが——逆にした。


 液体の中心に——力の点を作った。液の内側から膨張する力。分子を内側から押し出す力。


 遠心力ではなく——膨張力。


 液が——震えた。皿の上で、琥珀色の液体が——膨らんだ。表面が盛り上がった。


 中心から——分子が弾けるように分離した。


 三層。


 中心に——高濃度の有効成分。濃い琥珀色。


 中間に——標準濃度の有効成分。琥珀色。


 外周に——不純物と低純度の成分。黄色。


 三層が——安定していた。


 十秒。二十秒。三十秒。——四十秒。五十秒。


 一分。


 崩れなかった。


 賢治は——指を離した。理刻を切った。


 三層が——そのまま残っていた。分離が完了していた。


 茎一本から——三層に分離。高濃度と標準濃度の二瓶分が取れる。


 今までは茎三本で一瓶。


 今は茎一本で二瓶。


 効率——六倍。


 ——できた。


 賢治の手が——震えていた。蒸留酒の震えではない。


 できてしまった。


 これを——ヴォルクに見せれば、生き延びられる。


 これを——ヴォルクに見せれば、VDが爆発的に広まる。


 中毒者が増える。死者が増える。この街の人間が——俺の作った薬で壊れていく。


 今まで一日三本だった。それでも——人が死んでいた。


 一日十八本になったら——。


 賢治は皿の上の三層の液体を見た。


 美しかった。琥珀色の三段階のグラデーション。分子が完璧に分離された、理刻の結晶。


 ——美しいものが、人を殺す。


 蒸留酒の瓶を取った。もう一口飲もうとした。


 瓶が——空だった。


***

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