第38話 六倍
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一日目。
小屋の外にザハールが立っていた。セレナの位置に。セレナの代わりに。
朝。ザハールが扉を叩いた。
「蒸留師。飯を持ってきた」
黒パンと干し肉。水筒。それだけだった。
「ザハール。——セレナは」
「知らん。俺の管轄じゃない」
それ以上は聞けなかった。
改良型の開発に取りかかった。
まず、今のVDの精製工程を紙に書き出した。夜哭き菫の茎を砕く。汁を絞る。理刻で分子を分離する。毒素を除去する。有効成分だけを抽出する。小瓶に詰める。
この工程で茎三本から一瓶。効率が悪い原因は——分離の段階にある。理刻で分子を一つずつ選り分けている。指先で砂金を拾うような作業だ。こぼれ落ちる分子が多い。
六倍にするには——こぼれ落ちる分子を拾わなければならない。
方法は一つ。分離のパターンを変える。一つずつ拾うのではなく——まとめて分類する。分子の性質ごとに——層を作って分離する。
理論は——ある。ヴォルクの前で言ったことは嘘ではなかった。精製中に理刻が乱れたとき、偶然——分子が層状に分離したことがあった。あのパターンを意図的に再現できれば——効率は跳ね上がる。
だが——偶然を意図に変えるのが、最も難しい。
蒸留酒を飲んだ。十口。手の震えが止まった。理刻を起動した。
夜哭き菫の茎を一本取った。皿の上に汁を絞った。指先を浸けた。
分子に触れる。配列を読む。——ここから先が、新しい領域だ。
一つずつ拾うのではなく——全体に力をかける。分子の重さの違いを利用して——遠心分離のように——層に分ける。
力をかけた。
液が——動かなかった。
力が足りない。一つの分子を動かすのと、液体全体を一度に操作するのとでは——必要なエネルギーが桁違いだ。
もう一度。力を込めた。指先が——熱くなった。理刻の負荷が上がっている。
液が——わずかに揺れた。分子が——動き始めた。だが——層にならない。混ざったまま。
失敗。
一回目。失敗。
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二日目。
十四回目の試行。
蒸留酒を十二口飲んだ。手の震えが止まった。理刻を起動した。
力の方向を変えた。全体に均一にかけるのではなく——螺旋状に。液の中心から外側に向かって回転する力。遠心力。
液が——回り始めた。皿の上で、琥珀色の液体が小さな渦を作った。
渦の中心に——重い分子が集まった。外周に——軽い分子が移動した。
層ができた。
二層。中心の濃い琥珀色と、外周の薄い黄色。
——だが。
渦が崩れた。力を維持できなかった。五秒間しか持たなかった。五秒では——分離が不十分だ。安定させるには——三十秒は必要。
失敗。だが——方向は正しかった。
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三日目。
ナディアが来た。ザハールの目の前で。
「あんた——生きてたか」
「生きてる」
「ヴォルクに殺されかけたって——噂が流れてる。走り屋たちが動揺してる。蒸留師が消えたら、あたしたちの商売も終わる」
「消えてない。——生産量を上げろと言われた」
「上げろ? どのくらい」
「六倍」
「六倍。——正気か、あの男」
「正気だ。——できなければ殺される」
ナディアは賢治を見た。目の下の隈が——以前より深くなっていた。
「あんた——酒の量、増えてない?」
「増えてる」
「精製に影響は」
「出始めてる。——理刻の焦点が合いにくくなってる。酒で震えは止まるが、酒で精度が落ちる」
「矛盾してるな」
「全部矛盾してる」
ナディアは小瓶を三本受け取った。通常の生産分。改良型はまだ完成していない。
「セレナの話は聞いたか」
「……聞いてない。何かあったのか」
「護衛を外された。それだけじゃない。ヴォルクに——」
ナディアが言葉を切った。ザハールが近くにいることに気づいた。
「……あとで話す」
ナディアが去った。
セレナに——何があったのか。
聞きたかった。だが——今は改良型に集中しなければならない。六日後が期限だ。
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四日目。
三十七回目の試行。
遠心分離のパターンを——変えた。螺旋の回転速度を段階的に上げていく。最初はゆっくり。分子が動き始めたら——加速。
液が回った。渦が安定した。五秒。十秒。十五秒。——二十秒。
二層が——はっきり分かれた。中心の有効成分。外周の不純物。
だが——三十秒に届かなかった。二十三秒で渦が崩れた。
指先が——痺れていた。理刻の使いすぎだ。一日の限界が近い。
蒸留酒を飲んだ。十三口目。
もう一度。
二十五秒。
もう一度。
二十七秒。
もう一度——
指先の感覚が——消えた。理刻が切れた。限界だ。
藁束の上に倒れ込んだ。天井を見た。目がかすんでいた。
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五日目。
ナディアが夜に来た。ザハールが巡回に出ている隙を狙って。
「セレナの件——話す。あんたが知っておくべきことだから」
「何があった」
「セレナは——ヴォルクの前で罰を受けた。護衛任務中にザハールに逆らったこと。ヴォルクの指示に反して蒸留師を守ろうとしたこと。——ヴォルクの前で、カティアに——」
ナディアの声が——低くなった。
「右手の小指を——折られた」
賢治の手が——止まった。
「……折られた」
「カティアがやった。えへへ、って笑いながら。——セレナは声を上げなかったらしい。指を折られても——黙ったまま。ヴォルクの目を見たまま」
右手の小指。
ナイフを投げる手だ。利き手だ。——小指が折れれば、握力が落ちる。ナイフの軌道操作に——影響が出る。
ヴォルクは——セレナの戦闘能力を意図的に削いだのだ。殺さない。だが——弱くする。二度と蒸留師を守れないように。
「セレナは——今どこにいる」
「灰の商会の詰所に軟禁されてる。護衛任務は解除。次の任務は——まだ出ていない。事実上の——棚上げだ」
「指は——治るのか」
「骨折だから——治る。二ヶ月はかかるだろうが。——だが、治っても——元の握力に戻るかはわからない」
賢治は藁束の上に座ったまま——セレナのナイフを見た。藁束の下に入れたままのナイフ。刃に薄く血がついたナイフ。
セレナが——指を折られた。
俺を守ろうとしたから。俺がヴォルクに嘘をついたから。俺が碧瓶会と独断で取引したから。
全部——俺のせいだ。
蒸留酒を飲んだ。十三口。十四口。十五口。
十五口で——手の震えが止まった。
改良型を——完成させなければならない。
セレナのために——ではない。
翔太のために。自分のために。——生き延びるために。
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六日目。
五十二回目の試行。
蒸留酒を十五口。理刻を起動。
遠心分離。螺旋の回転。——力の入れ方を変えた。
今までは指先から力を押し出していた。液体を外から操作していた。だが——逆にした。
液体の中心に——力の点を作った。液の内側から膨張する力。分子を内側から押し出す力。
遠心力ではなく——膨張力。
液が——震えた。皿の上で、琥珀色の液体が——膨らんだ。表面が盛り上がった。
中心から——分子が弾けるように分離した。
三層。
中心に——高濃度の有効成分。濃い琥珀色。
中間に——標準濃度の有効成分。琥珀色。
外周に——不純物と低純度の成分。黄色。
三層が——安定していた。
十秒。二十秒。三十秒。——四十秒。五十秒。
一分。
崩れなかった。
賢治は——指を離した。理刻を切った。
三層が——そのまま残っていた。分離が完了していた。
茎一本から——三層に分離。高濃度と標準濃度の二瓶分が取れる。
今までは茎三本で一瓶。
今は茎一本で二瓶。
効率——六倍。
——できた。
賢治の手が——震えていた。蒸留酒の震えではない。
できてしまった。
これを——ヴォルクに見せれば、生き延びられる。
これを——ヴォルクに見せれば、VDが爆発的に広まる。
中毒者が増える。死者が増える。この街の人間が——俺の作った薬で壊れていく。
今まで一日三本だった。それでも——人が死んでいた。
一日十八本になったら——。
賢治は皿の上の三層の液体を見た。
美しかった。琥珀色の三段階のグラデーション。分子が完璧に分離された、理刻の結晶。
——美しいものが、人を殺す。
蒸留酒の瓶を取った。もう一口飲もうとした。
瓶が——空だった。
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