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紫の雫(ヴィオラ・ドロップ) ——異世界に転移した薬学者は、毒と薬で裏社会の頂点に立つ —   作者: イロハ
第一部「灰の檻」

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第39話 証明

***


 七日目。


 ザハールが朝一番に扉を叩いた。


「蒸留師。今日だ」


 賢治は藁束の上で目を開けた。眠れていなかった。三時間ほど横になっていただけだ。


 蒸留酒の空瓶が転がっていた。昨夜——ナディアに新しい瓶を頼んだ。まだ届いていない。


 手が——震えていた。酒がない。震えが止まらない。


 今日——ヴォルクの前で精製を見せなければならない。


 震える手で。


 藁束の下から夜哭き菫の茎を取り出した。在庫は六本。昨日の成功で一本使った。残り五本。


 皿を持った。手が震えて——皿がカタカタと鳴った。


「ザハール」


「何だ」


「酒を一杯もらえないか」


「酒? ——朝からか」


「手が震えてる。このまま精製すれば——失敗する。失敗すれば——お前も知っての通りだ」


 ザハールは賢治の手を見た。指先が細かく振動している。


 ザハールが外套の内側から——革の水筒を出した。


「こいつでいいか」


 蒸留酒ではなかった。もっと荒い味の——安い蒸留酒。だが——アルコールだ。


 十口。十一口。


 震えが——弱まった。完全には止まらなかった。だが——精製はできる程度に。


「……ありがとう」


「礼はいい。——行くぞ」


***


 灰の商会の本拠。二階の部屋。


 ヴォルクが——同じ椅子に座っていた。テーブルの上に——ナイフはなかった。代わりに——空の皿が三枚と、水差しが置いてあった。


 ヴォルクの後ろに——マーラが立っていた。長い黒髪。切れ長の目。灰の商会の会計を仕切る女。帳簿を抱えている。


 部屋の隅に——カティアがいた。壁にもたれて、赤毛のツインテールを指先でくるくる巻いている。丸い童顔に——笑みが張りついている。目だけが笑っていない。


「蒸留師ー。一週間ぶりー。えへへ、痩せた?」


 賢治はカティアを見なかった。カティアの右手を——見たくなかった。セレナの小指を折った手を。


「蒸留師。——見せろ」


 ヴォルクの声。短い。


 賢治はテーブルの前に立った。夜哭き菫の茎を三本出した。


「通常の精製では——茎三本で一瓶。これが今までの効率だ」


 一本目の茎を砕いた。汁を皿に絞った。琥珀色の液体が溜まった。


 指先を——液に浸けた。


 理刻を発動した。


 膨張力。液の中心に力の点を作り——内側から分子を押し出す。


 指先が——震えていた。酒の量が足りない。だが——昨日成功したパターンを体が覚えている。


 力をかけた。液が——動いた。


 表面が盛り上がった。中心から分子が弾けるように分離した。


 ——三層。


 濃い琥珀色。琥珀色。黄色。


 高濃度。標準。不純物。


 安定した。十秒。二十秒。三十秒。——崩れない。


 指を離した。三層が——皿の上に残った。


「高濃度と標準の二瓶分が取れる。茎一本からだ。——残り二本は使わなくていい」


 ヴォルクは皿を見た。マーラが帳簿から顔を上げた。カティアが壁から体を起こした。


 沈黙が——五秒。


 ヴォルクが——皿をテーブルの上で引き寄せた。指先で琥珀色の層に触れた。


「マーラ。これが本物か確認しろ」


 マーラがテーブルに歩み寄った。帳簿を置いた。皿を引き寄せて、目を細めた。琥珀色の液体を傾けて粘度を見た。匂いを嗅いだ。指先で液の縁に触れて——理刻を使った。金属操作の応用。液中の微量金属成分の密度を読み取る。


 三秒。


 マーラの目が——見開かれた。


「——ヴォルク。こいつ——通常のVDよりも純度が桁違いに高い。不純物がほとんどない」


「それだけか」


「それだけじゃない。純度が高い分、副作用が減る。今までのVDは頭痛や吐き気の報告があった。こっちは——それがないはずだ。客が長く使える。ただし——」


 マーラが賢治を見た。鋭い目だった。


「依存性は上がるだろ。純度が高い分——脳に直接効く。一度使ったらやめられなくなる。——そういうことだな、蒸留師」


「……ああ」


「最悪だな。——だが、商売としては最高だ」


 マーラがヴォルクに向き直った。


「高濃度版は富裕層に高値でさばける。標準版は今までの客層。軽度版で新規を釣る。三段階の価格帯で——売上は十倍じゃきかない」


「十倍以上だ。あたし計算した。えへへ」


 カティアが笑った。童顔に張りついた笑み。


「十倍かあ。すごいね蒸留師。——やればできるんじゃん。最初からやってればよかったのに。そしたらセレナの指も——」


「カティア」


 ヴォルクの声が——カティアを止めた。カティアは肩をすくめた。


 ヴォルクが賢治を見た。


「蒸留師。——一日の生産量は」


「十八本。通常の六倍だ」


「明日から十八本で回せるか」


「……回せる。ただし——原料の確保が必要だ。夜哭き菫の茎が今の六倍必要になる」


「ナディアに手配させる。——蒸留師。お前は精製だけに集中しろ。外に出るな。人に会うな。ザハールの許可なく何もするな」


「……わかった」


「それと——もう一つ」


 ヴォルクが立ち上がった。


「お前の技術は——今、灰の商会の根幹だ。VDが売上の三割だと言ったな。——訂正する。改良型が回れば——七割を超える。お前は——灰の商会の七割を握っている」


 ヴォルクの目が——賢治を見た。


「七割の価値がある人間は——簡単には殺さない。だが——七割の価値がある人間が裏切れば、損失も七割だ。お前を生かす理由と殺す理由が——同じものになった。わかるな」


「……わかる」


「ならいい。——出ろ」


***


 帰り道。ザハールと二人で路地を歩いた。


 ザハールは何も言わなかった。ただ隣を歩いていた。


 小屋の前に着いた。扉を開けた。中に入った。


 扉を閉めた瞬間——賢治の足が止まった。


 床の上に——蒸留酒の瓶が一本、置いてあった。


 ナディアが届けてくれたのだ。不在の間に。


 瓶を取った。蓋を開けた。十口。十一口。十二口。


 震えが止まった。


 藁束の上に座った。


 目を閉じた。


 ヴォルクの言葉が——頭の中で回っていた。


 『七割の価値がある人間は——簡単には殺さない。だが——七割の価値がある人間が裏切れば、損失も七割だ』


 つまり——賢治は今、最も価値があり、最も危険な存在になった。


 ヴォルクは賢治を殺さない。殺せない。七割を失うわけにはいかない。


 だが——賢治が少しでも不審な動きを見せれば、ヴォルクは躊躇なく殺す。七割の損失を受け入れてでも。


 そして——翔太がいる。


 翔太を人質にされている限り——賢治は逆らえない。


 ヴォルクが生きている限り——翔太は人質のままだ。


 ヴォルクが生きている限り——セレナは指を折られたままだ。


 ヴォルクが生きている限り——VDの生産は止まらない。六倍になった生産量は——止まらない。


 ヴォルクが生きている限り——。


 目を開けた。


 天井のシミを見ていた。茶色いシミ。以前の住人が何かをこぼした跡だろう。


 賢治は——メモ帳を開いた。


 『第47日目。   改良型をヴォルクに見せた。   生き延びた。   VDの売上が七割を超える。   俺は——灰の商会の七割を握っている。   だが七割を握っているのは俺ではない。   ヴォルクだ。   俺はヴォルクの手の中にいる。   翔太もヴォルクの手の中にいる。   セレナも。      ヴォルクを殺す。      書いた。   消さない。   どうやって殺すか。   毒は通じない。食事の毒見はマーラがしている。   暗殺は不可能。常にザハール、カティア、イレーナが側にいる。   正面からの戦闘は論外。俺に戦闘能力はない。   なら——内部から崩すしかない。   ヴォルクの手駒を——一人ずつ、ヴォルクから引き剥がす。   誰が引き剥がせるか。   カティア——不可能。あの女はヴォルクに心酔している。   マーラ——不可能。利害で動くが、ヴォルクの下にいる方が利益が大きい。   イレーナ——わからない。やる気がないように見えるが、実態が読めない。   ザハール——。   ザハールが唯一の可能性だ。   理由は三つ。   一、ザハールはヴォルクに忠誠を誓っているわけではない。四十年の付き合いで「信頼」している。信頼は——裏切られれば崩れる。   二、ザハールには孫がいる。リーザ。八歳。第七環東地区。ザハールの唯一の弱点。   三、ザハールは今、俺の監視役だ。俺と最も長い時間を過ごす人間。——接触の機会がある。      だが——ザハールを味方につけるのは、今までで最も難しい。   エーリカのように善意では動かない。   ナディアのように利害では動かない。   ソフィアのように打算では動かない。   ザハールは——信念で動く男だ。   信念の男を動かすには——信念を揺さぶるしかない。   ヴォルクがザハールの信頼を裏切る状況を——作り出す。      どうやって。      考える。時間はある。   ザハールが俺の隣にいる限り——時間はある。』


 ペンを置いた。


 蒸留酒を——もう一口飲んだ。


***

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