第39話 証明
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七日目。
ザハールが朝一番に扉を叩いた。
「蒸留師。今日だ」
賢治は藁束の上で目を開けた。眠れていなかった。三時間ほど横になっていただけだ。
蒸留酒の空瓶が転がっていた。昨夜——ナディアに新しい瓶を頼んだ。まだ届いていない。
手が——震えていた。酒がない。震えが止まらない。
今日——ヴォルクの前で精製を見せなければならない。
震える手で。
藁束の下から夜哭き菫の茎を取り出した。在庫は六本。昨日の成功で一本使った。残り五本。
皿を持った。手が震えて——皿がカタカタと鳴った。
「ザハール」
「何だ」
「酒を一杯もらえないか」
「酒? ——朝からか」
「手が震えてる。このまま精製すれば——失敗する。失敗すれば——お前も知っての通りだ」
ザハールは賢治の手を見た。指先が細かく振動している。
ザハールが外套の内側から——革の水筒を出した。
「こいつでいいか」
蒸留酒ではなかった。もっと荒い味の——安い蒸留酒。だが——アルコールだ。
十口。十一口。
震えが——弱まった。完全には止まらなかった。だが——精製はできる程度に。
「……ありがとう」
「礼はいい。——行くぞ」
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灰の商会の本拠。二階の部屋。
ヴォルクが——同じ椅子に座っていた。テーブルの上に——ナイフはなかった。代わりに——空の皿が三枚と、水差しが置いてあった。
ヴォルクの後ろに——マーラが立っていた。長い黒髪。切れ長の目。灰の商会の会計を仕切る女。帳簿を抱えている。
部屋の隅に——カティアがいた。壁にもたれて、赤毛のツインテールを指先でくるくる巻いている。丸い童顔に——笑みが張りついている。目だけが笑っていない。
「蒸留師ー。一週間ぶりー。えへへ、痩せた?」
賢治はカティアを見なかった。カティアの右手を——見たくなかった。セレナの小指を折った手を。
「蒸留師。——見せろ」
ヴォルクの声。短い。
賢治はテーブルの前に立った。夜哭き菫の茎を三本出した。
「通常の精製では——茎三本で一瓶。これが今までの効率だ」
一本目の茎を砕いた。汁を皿に絞った。琥珀色の液体が溜まった。
指先を——液に浸けた。
理刻を発動した。
膨張力。液の中心に力の点を作り——内側から分子を押し出す。
指先が——震えていた。酒の量が足りない。だが——昨日成功したパターンを体が覚えている。
力をかけた。液が——動いた。
表面が盛り上がった。中心から分子が弾けるように分離した。
——三層。
濃い琥珀色。琥珀色。黄色。
高濃度。標準。不純物。
安定した。十秒。二十秒。三十秒。——崩れない。
指を離した。三層が——皿の上に残った。
「高濃度と標準の二瓶分が取れる。茎一本からだ。——残り二本は使わなくていい」
ヴォルクは皿を見た。マーラが帳簿から顔を上げた。カティアが壁から体を起こした。
沈黙が——五秒。
ヴォルクが——皿をテーブルの上で引き寄せた。指先で琥珀色の層に触れた。
「マーラ。これが本物か確認しろ」
マーラがテーブルに歩み寄った。帳簿を置いた。皿を引き寄せて、目を細めた。琥珀色の液体を傾けて粘度を見た。匂いを嗅いだ。指先で液の縁に触れて——理刻を使った。金属操作の応用。液中の微量金属成分の密度を読み取る。
三秒。
マーラの目が——見開かれた。
「——ヴォルク。こいつ——通常のVDよりも純度が桁違いに高い。不純物がほとんどない」
「それだけか」
「それだけじゃない。純度が高い分、副作用が減る。今までのVDは頭痛や吐き気の報告があった。こっちは——それがないはずだ。客が長く使える。ただし——」
マーラが賢治を見た。鋭い目だった。
「依存性は上がるだろ。純度が高い分——脳に直接効く。一度使ったらやめられなくなる。——そういうことだな、蒸留師」
「……ああ」
「最悪だな。——だが、商売としては最高だ」
マーラがヴォルクに向き直った。
「高濃度版は富裕層に高値でさばける。標準版は今までの客層。軽度版で新規を釣る。三段階の価格帯で——売上は十倍じゃきかない」
「十倍以上だ。あたし計算した。えへへ」
カティアが笑った。童顔に張りついた笑み。
「十倍かあ。すごいね蒸留師。——やればできるんじゃん。最初からやってればよかったのに。そしたらセレナの指も——」
「カティア」
ヴォルクの声が——カティアを止めた。カティアは肩をすくめた。
ヴォルクが賢治を見た。
「蒸留師。——一日の生産量は」
「十八本。通常の六倍だ」
「明日から十八本で回せるか」
「……回せる。ただし——原料の確保が必要だ。夜哭き菫の茎が今の六倍必要になる」
「ナディアに手配させる。——蒸留師。お前は精製だけに集中しろ。外に出るな。人に会うな。ザハールの許可なく何もするな」
「……わかった」
「それと——もう一つ」
ヴォルクが立ち上がった。
「お前の技術は——今、灰の商会の根幹だ。VDが売上の三割だと言ったな。——訂正する。改良型が回れば——七割を超える。お前は——灰の商会の七割を握っている」
ヴォルクの目が——賢治を見た。
「七割の価値がある人間は——簡単には殺さない。だが——七割の価値がある人間が裏切れば、損失も七割だ。お前を生かす理由と殺す理由が——同じものになった。わかるな」
「……わかる」
「ならいい。——出ろ」
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帰り道。ザハールと二人で路地を歩いた。
ザハールは何も言わなかった。ただ隣を歩いていた。
小屋の前に着いた。扉を開けた。中に入った。
扉を閉めた瞬間——賢治の足が止まった。
床の上に——蒸留酒の瓶が一本、置いてあった。
ナディアが届けてくれたのだ。不在の間に。
瓶を取った。蓋を開けた。十口。十一口。十二口。
震えが止まった。
藁束の上に座った。
目を閉じた。
ヴォルクの言葉が——頭の中で回っていた。
『七割の価値がある人間は——簡単には殺さない。だが——七割の価値がある人間が裏切れば、損失も七割だ』
つまり——賢治は今、最も価値があり、最も危険な存在になった。
ヴォルクは賢治を殺さない。殺せない。七割を失うわけにはいかない。
だが——賢治が少しでも不審な動きを見せれば、ヴォルクは躊躇なく殺す。七割の損失を受け入れてでも。
そして——翔太がいる。
翔太を人質にされている限り——賢治は逆らえない。
ヴォルクが生きている限り——翔太は人質のままだ。
ヴォルクが生きている限り——セレナは指を折られたままだ。
ヴォルクが生きている限り——VDの生産は止まらない。六倍になった生産量は——止まらない。
ヴォルクが生きている限り——。
目を開けた。
天井のシミを見ていた。茶色いシミ。以前の住人が何かをこぼした跡だろう。
賢治は——メモ帳を開いた。
『第47日目。 改良型をヴォルクに見せた。 生き延びた。 VDの売上が七割を超える。 俺は——灰の商会の七割を握っている。 だが七割を握っているのは俺ではない。 ヴォルクだ。 俺はヴォルクの手の中にいる。 翔太もヴォルクの手の中にいる。 セレナも。 ヴォルクを殺す。 書いた。 消さない。 どうやって殺すか。 毒は通じない。食事の毒見はマーラがしている。 暗殺は不可能。常にザハール、カティア、イレーナが側にいる。 正面からの戦闘は論外。俺に戦闘能力はない。 なら——内部から崩すしかない。 ヴォルクの手駒を——一人ずつ、ヴォルクから引き剥がす。 誰が引き剥がせるか。 カティア——不可能。あの女はヴォルクに心酔している。 マーラ——不可能。利害で動くが、ヴォルクの下にいる方が利益が大きい。 イレーナ——わからない。やる気がないように見えるが、実態が読めない。 ザハール——。 ザハールが唯一の可能性だ。 理由は三つ。 一、ザハールはヴォルクに忠誠を誓っているわけではない。四十年の付き合いで「信頼」している。信頼は——裏切られれば崩れる。 二、ザハールには孫がいる。リーザ。八歳。第七環東地区。ザハールの唯一の弱点。 三、ザハールは今、俺の監視役だ。俺と最も長い時間を過ごす人間。——接触の機会がある。 だが——ザハールを味方につけるのは、今までで最も難しい。 エーリカのように善意では動かない。 ナディアのように利害では動かない。 ソフィアのように打算では動かない。 ザハールは——信念で動く男だ。 信念の男を動かすには——信念を揺さぶるしかない。 ヴォルクがザハールの信頼を裏切る状況を——作り出す。 どうやって。 考える。時間はある。 ザハールが俺の隣にいる限り——時間はある。』
ペンを置いた。
蒸留酒を——もう一口飲んだ。
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