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紫の雫(ヴィオラ・ドロップ) ——異世界に転移した薬学者は、毒と薬で裏社会の頂点に立つ —   作者: イロハ
第一部「灰の檻」

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第40話 種

***


 改良型VDの量産が始まった。


 一日十八本。朝から夜まで、精製を続けた。膨張力による三層分離を——十八回。理刻の負荷は以前の比ではなかった。指先が痺れる。視界がかすむ。夕方には頭痛が始まる。


 蒸留酒の消費も増えた。十五口では足りなくなった。十七口。十八口。一日に瓶の半分を空ける。


 ナディアが原料の夜哭き菫を六倍の量で運んでくる。走り屋たちの仕入れルートが拡大した。第七環の外——城壁の外の草原まで採集範囲が広がった。


 小瓶が——ナディアの網を通じて、王都中に流れていく。


 三日目の夕方。ナディアが回収に来たとき——顔が曇っていた。


「第五環の酒場街で——男が一人死んだ。VDの過剰摂取だ。高濃度版を三瓶一度に使った。心臓が止まった」


 賢治の手が——止まった。


「……高濃度版か」


「ああ。——今までの標準版じゃ起きなかった死に方だ。高濃度版は効きが強すぎる。使い慣れてない客が加減を間違えてる」


「使用量の注意書きは——」


「裏社会の薬に注意書きなんかつけるわけないだろ。——佐伯。あんたが作った改良型が——もう人を殺してる」


 ナディアは小瓶を受け取って出ていった。


 一人目。


 改良型で死んだ、一人目。


 蒸留酒を飲んだ。十八口目。手の震えが止まった。精製を再開した。


***


 ザハールは——毎日、小屋の外にいた。


 朝から晩まで。セレナの位置に。だが——セレナとは全く違った。


 セレナは壁にもたれて路地を見ていた。護衛だった。


 ザハールは——路地の端に椅子を出して座っていた。監視だった。


 椅子は自分で持ってきた。古い木の椅子。背もたれが低い。ザハールはそこに座って、日がな一日——ナイフの柄を削っていた。小さなナイフの柄を、もっと小さなナイフで削る。木屑が足元に溜まる。


 精製の合間に——賢治は窓からザハールを観察した。


 ザハールの生活パターンは規則的だった。朝六時に来る。昼に一度離れる。三十分で戻る。夕方六時に交代の構成員が来て、ザハールは帰る。


 昼の三十分。——どこに行っているのか。


 四日目の昼。ザハールが離れた後、賢治は交代の構成員に聞いた。


「ザハールは昼にどこに行く」


 構成員は賢治を見た。若い男だった。二十代。顎にニキビの跡。


「知らねえ。——ザハールさんのことは聞くな。怖いから」


 使えない。


 五日目。ナディアに聞いた。


「ザハールの昼の行動を——調べてくれ。毎日三十分離れる。どこに行っているか」


「ザハールの尾行? ——走り屋にやらせたら気づかれるぞ。あの爺さんの感覚は化け物だ」


「尾行しなくていい。ザハールが向かう方向だけ——遠目で確認してくれ。路地の入口から見える範囲で」


 六日目。ナディアが答えを持ってきた。


「東。——ザハールは毎日昼に東に向かってる。第七環の東地区だ」


 東地区。


 リーザがいる地区だ。ザハールの孫。八歳。


 ザハールは毎日——昼の三十分を使って、孫に会いに行っている。


***


 七日目の夜。


 精製を終えた後——賢治はザハールに声をかけた。


「ザハール。少し話していいか」


 ザハールが椅子の上で顔を上げた。ナイフの柄を削る手が止まった。


「何だ」


「その柄——何を作ってるんだ」


「ナイフの柄だ。リーザに——孫にやるんだ。果物を切る小さなナイフ。刃は丸いやつだ。子供でも使える」


「器用だな」


「器用じゃない。不器用だから——時間がかかる」


 ザハールが木屑を払った。柄を光にかざした。柔らかい曲線。子供の手に合うように——小さく削られている。


「……いい柄だ」


「まあ——なんとかなるだろう」


 会話はそこで終わった。


 賢治は小屋に戻った。


 藁束の上に座った。蒸留酒を飲んだ。十九口目。


 メモ帳を開いた。


 何か——書こうとした。ペンが紙に触れた。だが——書かなかった。


 ペンを置いた。メモ帳を閉じた。


 代わりに——精製用の皿を取り出した。夜哭き菫ではなく——別の素材を。小屋の棚に残っていた、精製には使わない雑多な薬草。名前も知らない草。


 理刻を使って——その草の成分を分析し始めた。


 精製とは関係のない作業。ヴォルクに命じられていない作業。ザハールの監視の合間に——静かに、少しずつ。


 何をしているのか——賢治自身にしかわからない作業だった。


***


 九日目。


 二人目が死んだ。第六環の宿屋の二階で、女が一人。高濃度版。


 十一日目。三人目。第四環の商人。標準版だが、連日使用による蓄積。


 死者が——増えていた。


 ナディアが報告のたびに——顔が硬くなっていった。


「佐伯。——あたしの走り屋の一人が、VDに手を出した。自分で売ってる商品に。——あたしは止めたが、聞かなかった」


「……どうなった」


「まだ死んでない。だが——目がおかしくなってる。焦点が合わない。常に——笑ってる。何がおかしくて笑ってるのか、本人にもわからないらしい」


 賢治は精製の手を止めなかった。止められなかった。止めれば——ヴォルクが来る。


「ナディア。——一つ頼みがある」


「何だ」


「灰の商会の金の流れを——調べてくれ。VDの売上がどこに流れているか。ヴォルクの取り分。マーラの管理分。——特に、ザハールへの報酬がいくらか」


「ザハールの報酬? ——何に使うんだ」


「知っておきたいだけだ」


「……あんた、最近——何を考えてるか、わからなくなってきた」


「考えてない。目の前のことをやってるだけだ」


「嘘つけ。——あんたの目は、精製してるときと計算してるときで色が違う。今は——計算の方だ」


 賢治はナディアを見なかった。精製を続けた。


 ナディアは三秒間、賢治の横顔を見ていた。何か言おうとした。やめた。小瓶を持って出ていった。


***


 十三日目の夜。


 ザハールが帰った後——賢治は一人で小屋にいた。交代の構成員が外にいる。


 棚から紙を出した。ナディアが持ってきた灰の商会の金の流れ。数字が並んでいる。VDの売上。分配比率。ヴォルクの取り分。マーラの管理費。構成員への給与。ザハールへの報酬。


 ザハールの報酬は——構成員の三倍だった。多い。だが——マーラの半分以下。


 四十年。四十年ヴォルクに仕えて——マーラの半分。


 これは——使えるかもしれない。使えないかもしれない。


 紙を折りたたんで、藁束の下に入れた。セレナのナイフの隣に。


 蒸留酒を飲んだ。二十口目。


 瓶が——また空になりかけていた。


***

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